第四話 獣人の王との対峙
「第三王女マリィ・ド・ルミナフローラ殿下を、お連れしました──ッ!」
マリィを迎えに来た使者の声が響く
次の瞬間――
ギィイイ……ン…
重く巨大な扉が軋みながら、ゆっくりと開いた。その奥から、まるで黒い潮のように家臣たちがゾロゾロと現れる。
全員が筋骨隆々、剣や斧を携え、黒の軍服とマントを揺らす。
そして――
その中心に、ひときわ大きな“影”が立っていた。
身長はゆうに二メートル近く、肌はよく焼けた褐色で、筋肉そのものが戦衣であるかのような逞しさ。
肩には魔獣の毛皮と肩当てをまとい、獣の牙飾りがカチリと音を立てた。
銀灰と黒の混じるハイトーンの髪の毛。
そしてまっすぐに射抜くような鋭い金の瞳が、マリィを捉える。
獣耳、チラリと覗く牙、その全てが、“ここが魔族の王国である”と否応なく理解させた。
「………………」
彼は一言も発しない。
ただ静かに、堂々と歩いてくる――まるで、大地そのものが動き出したかのように。
ゴッ…ゴッ…ゴッ……
足音だけが、場に鳴り響く。
(…この方が…この国の王…
オルク・ファングレイヴ……)
マリィの喉がひゅっと鳴った。
王の瞳が、まっすぐ彼女を見ている。
まるで、ただの一目でその魂の芯まで見透かされているような、そんな感覚。
従者たちが皆跪く中、オルクはただ彼女の前で立ち止まり、金の瞳を細めた。
「……ふん、来たか」
低く、地を震わすような声。
それは野生の咆哮にも似ている。
マリィはその声音に、一歩だけ、無意識に下がってしまった。
(あ……)
小さく唇を噛む。
心臓が、痛いほど早鐘を打っている。怖い。
この男は、魔族の王――命を奪うことも、人間の住む大陸を焼くことも、きっと何のためらいもなくできる存在。
けれど、それでも。
(……逃げちゃダメ)
マリィは両の足を踏ん張った。
ルミナフローラ王国の第三王女として。
差し出された生贄として。
怖くても、屈するわけにはいかない。
そして――
裾を持ち上げて、しなやかに膝を折り、凛とした声で言った。
「マリィ・ド・ルミナフローラと申します。
この身をあなた様に捧げることが、祖国のためと聞いて参りました。
……どうか、よろしくお願い申し上げます」
口調は丁寧、けれどその奥には怯えだけでない“覚悟”が宿っていた。
そして――
「…………」
しばしの沈黙の後、オルクはわずかに目を見開いた。
「……ああ。部屋に通せ」
それは近くに控えていた兵士への命令だった。そしてマリィにだけ視線を向け、
「……何かあれば言え」
とだけ告げると、踵を返して城内へと戻っていった。
あまりにアッサリとした返事に、マリィは拍子抜けする。
(まずそうな小娘だ!とかステーキにしてやる!とか言われるかと思ったわ…)
「マリィ王女殿下」
名前を呼ばれて振り向くと、マリィはハッと息を飲んだ。
なぜなら、目の前にいるのが『ニワトリ』だったからだ。
ただの鶏じゃない、人間と似たバランスの二足歩行。古式なローブに身を包み、鶏は凛としていた。
その瞳は驚くほど理知的で、煌々と意志の光を宿している。
「ルミナフローラ王国より参られた、マリィ・ド・ルミナフローラ王女殿下にお目通り叶い、光栄に存じます。
私は女官長のヘレナと申します。よろしくお願い致します」
まるで鐘の音のような澄んだ声。
ヘレナは完璧な儀礼作法で頭を下げた。
羽飾りが、ぴたりと揃った仕草の中で光を帯びる。
マリィは反射的に背筋を正し、浅く会釈を返した。
「……こちらこそ、お目にかかれて嬉しゅうございます、女官長殿」
声は落ち着いていたが、内心は激しくざわついていた。
(……本当に……鶏、なのよね?)
とはいえ、目の前の存在は間違いなく“宮廷の柱”そのもの。
威厳に満ちた所作、揺るぎない言葉の重み――鶏であることを、もはや忘れそうなほど。
ヘレナはほんのわずかに頷くと、くるりと踵を返し、扉の奥を示した。
「移動でお疲れになった事でしょう。お部屋にご案内いたします。どうぞこちらへ」
羽ばたくことなく、滑るように歩くヘレナの背を見送りながら、マリィはそっと息を吐いた。
「……ここ、本当に魔界大陸なのね」
コッ……コッ……コッ……
石畳の床に、硬い蹄が打ちつけられるような音が響く。
女官長ヘレナが優雅に、だが隙のない足取りで進む。
そのあとを、慎ましくも視線を鋭く光らせる女官たちが従う。犬や猫、時折ヤギの角が見える者もいる。皆、種族こそ違えど、統一されたローブの衣装をまとっていた。
(……広いわ…なんて立派な城…)
城の内装は荘厳で、威厳に満ちていた。柱には黒曜石が彫り込まれ、壁には金糸で刺繍された戦旗が規則正しく並ぶ。
国に伝わる数々の武勲と歴史が記されている。燭台の灯がそこに淡く揺れては、マリィの胸の不安をより浮かび上がらせた。
(これから通されるのは……塔か、牢か……)
自分は対魔族同盟国に属するルミナフローラ王国の第三王女であると同時に、政争の末に差し出された。
魔族の怒りを鎮めるための生贄か、飾り物か……。マリィの足は、震えてはいなかったが、心は張り詰めていた。
やがてヘレナが扉の前でぴたりと止まり、厳かに翼で合図する。
「こちらでございます」
扉が開かれると、マリィは無意識に小さく息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは――牢ではなかった。
部屋は明るく、床は磨き抜かれた大理石。中央には天蓋付きの大きな寝台。雪のように白いシーツが掛けられ、カーテンには薄紫の刺繍が施されていた。
部屋の隅には香炉、読み物、化粧台、そしてソファ……どこを見ても、幽閉のための空間ではない。
(……なぜ……こんな……)
マリィは立ち尽くす。
その横でヘレナは翼をゆっくりと折りたたみ、背後のふたりを示した。
「こちらの者たちは専属の側仕えです」
その言葉と共に、一歩前へ出たのは――
「ミラと申します。王女様、以後お見知りおきを…ニャ」
「サフィーです。どうぞ、わたくしどもに何なりとお申しつけを」
ふたりはともに、柔らかな笑みを浮かべていた。
ミラはすらりとした猫耳の女性で、薄青の髪が肩に流れている。サフィーはふんわりとした淡金の巻き毛と小さな角を持ち、少しだけのんびりとした雰囲気だった。
「……ぁ、は……はじめまして……どうぞよろしく……」
マリィはぎこちなく、戸惑いを隠せぬまま礼を返した。
ヘレナはひとつ小さく頷き、そして、
「……何かあれば、この者たちに申し付けください」
そう一言だけを残し、踵を返す。
扉が閉まる直前――
ヘレナは一瞬、鋭くも温度の読めぬ瞳でマリィを振り返る。
そして、「コケェ……」と、深く鼻を鳴らすようにひと鳴きし、そのまま去っていった。
マリィは天蓋付きのベッドに腰を下ろすこともできず、室内を所在なく見回した。部屋は広く清潔で、幽閉とは到底思えぬ待遇に、むしろ戸惑いが募る。
「お水をお持ちしますね、王女殿下」
猫のような耳としなやかな尻尾を揺らしながら、ミラが軽やかに声をかけた。
のんびりとした雰囲気の少女、サフィーが笑顔でカップを並べる。
「暑くなかったですか?王城の中は…」
「……ええ、大丈夫です」
二人の柔らかな物腰に、マリィはようやく息をつく。だが、気になることが一つあった。先ほどまで先導していた女官長——ヘレナの姿が脳裏に浮かぶ。
あの者は、まるで知性を持った鶏だった。
慎重に言葉を選びながら、マリィは問いかけた。
「……あの、ひとつお伺いしてもよろしいかしら。先ほどの、ヘレナ殿と、あなた方とでは……その、外見にずいぶん違いがあるように思えたのだけれど……」
サフィーはくすりと笑って、のんびりと答える。
「ああ〜、それは獣人族の違いなんですよぉ。私たちは〈半獣型〉って呼ばれてて、人間の姿を基本にしてるんです。耳とか尻尾とか、ちょっとだけ動物の特徴があるんですよ〜」
ミラがにこりと笑って尾を揺らした。
「陛下や私たちみたいに、“人間ベースに獣のパーツ”ってやつですニャ。感情が昂ぶると、もうちょっとだけ獣っぽくなる個体もいますニャ」
「……そうなの」
「で、ヘレナ様みたいなのは〈獣型〉って呼ばれてます〜。姿はほとんど動物っぽいけど、言葉も道具も使えますし、めっちゃ頭いいんですよ〜」
「……そうだったのね」
マリィは静かに頷いた。異国の人種の違いに戸惑いながらも、少しずつ目の前の世界の輪郭が見えてくる。と同時に、ここがただの“魔の棲み処”ではないことを、彼女はじわじわと理解し始めていた。
魔族は野蛮で、文明から程遠い存在。
——そう、人間の世界では教わってきたはずだった。
けれど、通された部屋は清潔で清廉。
天蓋付きのベッド、丁寧に織られたカーペット、重厚な木製家具に精巧な彫刻が施された調度品。
人間の王族の寝室と比べても、決して見劣りしない——いや、それ以上かもしれない。
(……これほど丁重にしてくれるなんて……)
(……生贄として死にゆく者への、せめてもの情け……?)
ふと、幼き日に訪れた農場での一場面が脳裏を過った。視察中、農夫が笑いながらこう言ったのだ。
『この家畜らは明日に出荷予定でして、今日はとびきり良いエサをあげるんですわガハハ!』
あの時はただ苦笑して受け流したはずの言葉が、今は胸を突き刺す。
ぐらりと目眩を覚え、マリィはベッドにそっと腰を下ろした。
※※※
重く格調高い空間に、鈍い唸り声が響いていた。
「グルルル……」
眉間に皺を寄せ、唸る男——オルク・ファングレイヴ。
傍らに立つのは、漆黒の瞳を持つ梟獣人の宰相、オルフェール。
落ち着いた色味のローブには緻密な刺繍。目の上の羽角はピンと天を仰ぎ、知性の高さを感じさせる。
扉のそばには、木のように真っ直ぐ立つ犬獣人の将軍レオ。仕立ての良い軍服に身を包み、忠誠心と規律の塊のような男である。
「なぁ……オルフェ……俺、ちゃんと挨拶できてたよな……!?」
オルクの問いに、オルフェールは羽角をさらに立てて、黒い目をキョロキョロさせる。
「ホ、ホォー……その……姫様がご丁寧に自己紹介なされた後……ん、まぁ……オルク様らしいご対応というか……」
「ハッ!オルク陛下はご自分の名を名乗られませんでした!
『部屋に通せ。あとは何かあれば言え』とだけ仰って、即座に執務室へ戻られました!!」
レオ将軍は一分の狂いもなく報告した。
オルフェールは顔を羽で覆い、心の中で呻く。
(レオ……この馬鹿正直め……少しはオブラートに包めんのか……!)
「グオォオオ……ッ!くっそぉ……間近で本物を見ちまったらよぉ……!頭真っ白になって……!」
悔しげに銀灰色の髪をガシガシとかきむしるオルク。
そんな彼に、オルフェールは羽でそっと風を送りながら慰める。
「ホホ、オルク様。挨拶などはまた改めてなさればよろしい。姫君はこの城に留まるのですから。
それに、姫君もこう申しておりましたよ。
『この身をあなた様に捧げる』と…ホホホ、これはもう“番”成立ですな!」
「ハッ!マリィ王女殿下の言葉は、『この身をあなた様に捧げることが、祖国のためと聞いて参りました』でしたッ!」
レオ将軍が完璧な敬礼とともに訂正を入れる。
オルクの褐色の肌が、みるみるうちに朱に染まっていく。
「ヴ、ヴヴヴ……!」
オルクは真っ赤な顔で呻きながら、マリィとの初対面を思い出していた。
(……小さかった……可愛かった……)
——そして、この場の誰一人として、
いま自分たちの間に重大な勘違いがあることに、まだ気付いてはいなかった。
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