第三十七話 進歩と衰退
西ファングレイヴ王城――
黒曜石の玉座の間とは対照的に、王城の奥まった一室――政務記録室は羊皮紙と書類の山に埋もれていた。
窓から差し込む光の中で、空気中に漂う微細な埃が煌めき、爽やかな空間とは言い難い。
羊獣人の文官セヴランが、眼鏡を直しながら筆を走らせている。
その隣では、新人の記録係である犬獣人のリネアがせっせと書き写しつつ、声を上げた。
「ええっと……人間国のフーヴァルヘイツ、ルミナフローラ、ヴィンタルヤ。
……って、これ全部じゃないですか! バルメギア以外、同盟国が消えちゃったんですか?」
セヴランはふう、と深い息を吐き、眼鏡をずらしながら重々しく答える。
「その通りだ。これで“対魔族同盟”は事実上の終結。残るはバルメギア帝国ひとつだけだ」
リネアは目を丸くして羽根ペンを落としそうになる。
「い、一国だけで同盟って……もはや同盟じゃないですね!」
セヴランは新しい巻物を開き、手を休めず作業をしながらリネアに話す。
「だが離脱した人間三国と、我ら魔界三大国が新たに結んだ『人魔安全和平同盟』は
他国からの侵攻があれば、即座に援軍を送る……完全なる抑止力の完成だな」
「すごい……!」
リネアは思わず顔を輝かせ、茶色い毛並みの尻尾をピンと立てる。若さ故か、喜怒哀楽が素直に顔に出る質らしい。
「今まで人間と魔族って争ってばかりだと思ってたけど……協力できるんですね」
セヴランは眉間に皺を寄せつつ眼鏡を掛け直す。
「ところが帝国は反発し、報復措置を打ち出した」
羊皮紙を広げ、その列挙された情報を指でなぞった。
「エネルギー供給停止、高関税、輸入制限……バルメギアとしたら『まだ我々が必要だろう?居ないと困るだろ?』という脅しだな」
リネアは顔をしかめ、口からは犬歯が見え隠れしている。
「そ、それじゃあ、離脱した国が困ってしまうじゃないですか」
「普通なら、そうなるところだな」
セヴランは次の文書を掲げて見せた。
「だが、我らファングレイヴを含む魔界三大国が即座に代替供給に動いた。新しい交易ルートも整備され、むしろ物資やエネルギーの質も向上している。
結果――各国は帝国に依存せずとも繁栄を保てるようになった」
「じゃあ……帝国は、自分から孤立しちゃったんですね」
セヴランは筆を置き、静かに頷いた。その瞳は、窓から見える遠くの空を見ている。
「そうだ。相手への強すぎる圧力は逆に、いつか必ずしっぺ返しを喰らう……己が欲と怒りに溺れ、手を伸ばす相手を失った国――それが、いまのバルメギア帝国だ」
リネアは腕を組んで頷き、フンと鼻を粗く鳴らして語気を強めた。
「当然ですよ!ざまあみろって感じです!だって王妃様を帝国主導で拉致なんて、あり得ない!しかも皇子が、あんな……」
「お前ねぇ、一応それ秘密裏な情報なんだから……でも民間人の間でもすでに『帝国は王族を襲う野蛮な国』って噂立ってるもんなぁ……情報って漏れるもんだな。」
そう言うと、セヴランはリネアの机に書類の束を置いた。どさり、と厚みが伝わる音が鈍く響く。
「さあ、お喋りは終わり!これは全て交易関係のものだ。人間大陸と新しく交易が始まったんだ。これから経済も大きく変わり、どんどん忙しくなるぞ!」
「ひぃっ!が、がんばりますぅ」
それを聞いてリネアは小さく悲鳴を上げて、書類とにらめっこを始めた。
セヴランの言う通りに各国の経済や文化が発展し、ファングレイヴ王国の文官が増員されるのはそう遠くない未来だった。
※※※
バルメギア帝国――
かつて黄金色に輝いていたはずの玉座は、いまや煤け、磨きもされず薄暗く沈んでいる。玉座の間の大理石の床にはひびが走り、紅の絨毯もほころび、かつての栄華の影はどこにもなかった。
その冷え切った広間に、まだ皇帝は腰掛けていた。
皇帝ザルガド――人類の覇権を夢見て、魔族を滅ぼす盟主であらんとした男。
廊下の奥の方から一人の老大臣が進み出て、深々と頭を垂れる。
「皇帝陛下の御命令通り、この度の件は“ロドリオ皇子の独断によるもの”とし、各国に書簡を届けました。
皇子は僻地の塔に幽閉。母君のミランダ側妃も、僻地の寺院へと追放されました」
「ふん…愚か者め!」
ザルガドの声が石壁に空しく反響する。
「奴さえ勝手なことをしなければ、我らが覇権を掴んでいた!首を吊らせたいところだが…皇子ゆえに幽閉で済ませてやったのだ。温情と思うがよい」
だが、言葉の響きには以前の様な覇気はなく、下を向く大臣の表情は冷めていた。
「して、大臣!同盟を抜けた愚かな国々も、我が国のエネルギー供給がなければ、泣きを見るはずだ!既に頭を下げて戻って来ておるだろうな!」
大臣は唇を噛み、顔を曇らせる。
「……それが、陛下。魔族の国々が、人間界の供給をはるかに凌ぐ“高品質で低価格のエネルギー”を供与し始めました。
各国は既に安定を取り戻し、むしろバルメギアを不要としております」
「……な、なに……?」
玉座に座る皇帝の顔色が一瞬で蒼白に変わり、しわがれ声が震える。
「外務大臣を呼べ!」
「それが……外務大臣は亡命いたしました。周辺の騎士や兵士も相次いで離脱を……」
「な、なんだと!」
ザルガドは玉座から立ち上がり、絞る様に声を張り上げた。
「警備を増強せよ!軍を増員しろ!逃げる者は許すな!捕らえ、処刑せよ!」
「……はっ」
大臣は形ばかりの返答をして、慌ただしく退出していく。
(全く……このような状況になっても貴方様はお変わりになられぬ。一部の貴族からのクーデターの噂もあるし、ワシもうかうかしておれぬわ。)
後ろを振り返ることもなく、大臣は足早に歩みを進めた。もうこの玉座の間に来ることは無いだろう。
ただ広いだけの空間に、ザルガド一人が取り残された。
彼の命令は、もはや誰の心も動かさない。ひび割れた玉座に沈み込み、独り言のように呟いた。
「覇権は……覇権は我が帝国に……我が……」
その声は虚しくも、冷たい空気に溶けて消えた。
一方、北風の荒ぶ僻地に、孤独な塔がそびえていた。そこに幽閉されたのは、第四皇子ロドリオ。
塔の中は冷え切り、湿った藁が敷かれただけの石牢。僅かな明かりが差し込む窓からは、冷たい風が吹き込み、息が白く凍る。
「交代だ」
兵士たちが塔の前で声を交わす。その足元には焚き火が絶え間なく、パチパチと音を立てながら木片を燃やしていた。
「助かった!……あの馬鹿の独り言やら奇声やら、聞いてるだけで頭が痛くなる」
「ははっ、お疲れさん。ほら、王都からの配給だ。パンと干し葡萄、あと……干し肉か」
「干し肉は勿体ねえ。俺たちで食っちまおうぜ」
兵士たちは平然と干し肉をかじり、塔の中の“皇子”には乾いたパンと干し葡萄だけを放り込んだ。
彼らの口から「皇子」という敬称が出ることは、もはやなかった。
カビの臭いが充満する塔の奥で、痩せ細った青年が壁に爪を立てていた。
その爪は血で赤く染まり、壁には無数の傷が刻まれている。
「……俺は……皇子だ……!」
呻くような声が響く。
「俺に敬意を払え……俺を……俺を見ろ……!」
その叫びは、虚しく塔の中で反響するだけ。兵士たちさえ耳を貸さない。
ふと、彼の脳裏に過去の幻影がよぎる。煌びやかな王宮。違法賭博で笑い、奴隷と化した魔族の女を鞭打ち、上質の酒に酔い痴れた酒池肉林の日々。
だがその手は今や骨が浮くほど痩せ細り、声は枯れ、誰にも顧みられぬ存在となった。
「俺を……俺を見てくれーーーッ!」
叫びは、塔の外へと突き抜ける。だが返ってくるのは、風の唸り声と、冷たい静寂だけだった。
――父は命じても誰も従わず。
――子は叫んでも誰も答えず。
バルメギア帝国を支配した血脈は、同じ孤独と空虚の中で崩れ去ろうとしていた。




