第三十六話 守られた約束
「皆様! 飛空艇にお乗りください! バルメギア帝国の本隊が来る前に!」
朝焼けの空を切り裂いて、飛竜に乗る西ファングレイヴのレオ将軍の声が響いた。鋭い眼差しと風を切る翼の音に導かれるように、一行は河川のほとりから荒野へと向かう。
「マリィはこっちな」
オルクは迷わずマリィを抱き上げた。彼女の足は小石による怪我で、とても走れる状態ではない。
「っ……ごめんなさい、オルク……」
マリィは赤面しながらもオルクの胸に身を預けると、安心感で泣きそうになる。
「謝んな。お前はよく頑張ったんだ。後は俺の番だろ?」
オルクはにかっと笑い、力強く地を蹴った。その足取りは馬よりも速く、風を裂くたびにマリィの髪が揺れる。
すぐ傍らでセーラ隊長が、慌てたように馬を操りながら声を上げ、オルクと並走をする。
「陛下!王妃殿下!私の馬にお乗りください!」
しかしオルクは笑い飛ばし、セーラに視線を送る。
「ん? 心配すんな。馬より俺の方が速いから大丈夫だ!」
颯爽と駆け抜けながらちらりとマリィと目を合わせる。その目は不思議なほど柔らかく、マリィは胸の奥に安堵が広がるのを感じた。
一方その後方では、ネズがメイドの肩に飛び乗り、必死に声を張り上げていた。
「君のお陰だメイドちゃん……!あのしなやかな身のこなし、蝶のように美しかった! このまま別れるのは惜しい! せめて連絡先の交換を……!」
メイドは無表情のまま、しかし少しだけ目元に冷たい光を宿して言い放つ。
「勤務中ですので」
「つ、つれねぇ~~!」
ネズは肩を落としたが、どこか楽しげだ。
その隣ではカトレア王妃がルミナフローラ騎士隊長の馬に乗っていた。騎士隊長は涙を流しながら王妃の帰還の喜びを噛み締めていて、王妃の腕の中ではピコがぎゅっと抱きしめられている。
「うっ…うう、王妃殿下…良かった…!」
「ぴーぃ!」
ピコは目を潤ませながらも元気よく鳴き、カトレアは慈しむようにその小さな頭を撫でた。
「よく頑張ってくれましたね……あなたも立派な勇者です」
その声は母のように優しく、疲れ果てた者たちの心を和らげる。
やがて、荒野の向こうに巨大な影が姿を現す。飛空艇だ。鋼鉄の巨体が堂々と地に停泊し、船体の側面が音を立てて開いた。
開口部から現れたのは、威風堂々たる二人の王――レグノスとセリオンであった。
「皆、よくやった!」
レグノス王は腹の底から笑い声を響かせる。
「王妃奪還作戦、見事成功じゃ!はっはっは!」
オルクの腕に抱えられたままのマリィは、その声に気づき、思わず体を震わせた。
「レ、レグノス陛下……!」
慌てて身を起こそうとするが、傷の痛みに顔をしかめる。そんなマリィにレグノスは、その言葉を遮るように首を振った。
「お嬢ちゃん……よく耐えたな。挨拶は後でいい。今は休め。さぁ、皆、乗れ乗れい!」
その声音には王としての厳しさではなく、祖父のような温もりがあった。マリィの瞳がじんわりと潤む。
こうして彼らは、ついに帰還の途へと歩み出すのだった。
飛空艇は、雲を切り裂くように大空を翔ていた。その船体は驚くほど揺れず、魔力で制御された振動はほとんど伝わらない。
バルメギア帝国の黒々とした山並みは遠ざかり、やがて眼下に広がるのは鮮やかな草原と森――ルミナフローラ領の風景であった。
船内は三層構造。広いフロアの天井には淡い魔石灯が点り、まるで静かな大聖堂のように荘厳で落ち着いた空気を漂わせている。
戦いを終えた者たちはそれぞれの席に身を沈め、誰もがようやく訪れた安堵を噛みしめていた。
カトレア王妃は長椅子に腰掛けていた。足にはまだ痛みが残り、表情にも疲労の影が浮かんでいる。そんな彼女の前に、音もなく影が立った。
セリオン王――若き王の気配は、周囲の空気を凛と引き締める。その立ち姿だけで、ルミナフローラの騎士団もカトレアも一目で理解した。
この男はただ者ではない、王の風格を持つ者だ、と。
「こ、これは……」
立ち上がろうとするカトレアを、セリオンは片手で制した。
「無理をなさらずに」
短く、しかし威厳を帯びた声音。彼は浅く一礼し、そのまま跪くと、そっとカトレアの足へ手をかざした。
次の瞬間――。
眩い光が迸り、王妃の足を包み込む。
柔らかな温もりが肌を満たし、深く刻まれていた痛みがすうっと溶けるように消えた。
傷跡ひとつ残らず、完璧に治癒したのだ。
「……っ」
人間とは比べようもない強い魔力に、カトレアは思わず口元を押さえた。騎士団長も他の騎士たちも、ただ驚愕に息を呑むばかり。
「……失礼する」
セリオンはそれだけ言うと、何事もなかったかのように立ち上がり、音もなく歩み去っていった。その後ろ姿には、説明も誇示もない。ただ当然のことをしたという静けさだけが残される。
入れ替わるように、ちょこちょこと小さな影が現れた。ネズである。
「麗しき王妃様をお助けできて、俺ァ本当に良かったぜ……!」
胸を張り、どこか芝居がかった調子で言い放つ。
「貴女の瞳が涙で濡れるのは……俺ァ、見たくないんだ」
カトレアは一瞬きょとんとした後、ふっと微笑んだ。その笑みは疲労の中にありながらも、花のように温かで美しい。
「本当にありがとう……小さな騎士殿」
そう言ってカトレアはそっとネズを抱き上げ、頬へ軽く口づけを落とした。
「へへへ……」
ネズの耳は赤く染まり、全身がぽわっと温かい色に包まれる。
「お、王妃殿下!」
慌てて騎士団長が駆け寄り、ハンカチを差し出す。
「お拭きください!ネズミなど不浄の……!」
「な、なんだとテメェ!」
ネズは飛び上がるように振り向き、団長の胸倉を掴もうと必死に腕を伸ばす。
「毎朝ちゃんとシャワー浴びてんだぞ、このヒゲ親父!」
「うふふふ……」
カトレアはそれを見て、品よく、けれど堪えきれないように笑った。
その一方で、船内の隅では、メイドがセーラ隊長と小声で言葉を交わしていた。任務の記録や、今後の引き渡しに関すること。その落ち着いた声のやりとりが、騒ぎの中にひとつの安定をもたらしている。
マリィとオルクは、その全体の様子を見渡していた。
激闘を抜けた者たちが笑い合い、王妃が笑みを浮かべ、騎士たちも肩を撫で下ろす。ようやく「終わった」という実感が胸に広がり、二人は揃って深く息を吐いた。
「……怖い思いさせたな」
低く、けれど誠実な声。オルクは少し俯き、拳を膝の上で握りしめながら続ける。
「助けに来るの、遅くなって……悪かった」
マリィはその言葉に小さく目を見開いた。
そして、すぐに首を振る。
「そんな……! 謝らないで」
声は震えていたが、瞳はまっすぐだった。
「オルク自ら来てくれて……助けに来てくれて……私、奇跡だと思ったの」
深く息を吸い、胸の奥にしまっていた疑問をそっと口にする。
「……でも、どうして私たちの居場所がわかったの?」
オルクは一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに笑った。
「ああ、それはな……ピコだよ」
そう言って、足元を指さす。
「こいつが、ずっと俺に小さい信号みたいなのを超音波で送ってくれてたんだ。ずっと場所を教え続けてくれてたんだぜ。こいつ、すげぇ活躍だった」
「ピコが……」
その名を呼ぶと、足元で「ぴーーい!」と鳴き声があがった。丸い瞳をうるうるさせながら、ピコは既に治癒魔法で完治したマリィの足にすり寄り、甘えるように頬ずりをしてくる。
「まあ…すごいわ、ピコ!ありがとう!」
マリィはたまらずその身体を抱き上げ、両腕で包み込んだ。
「…でもなぜピコを呼ぶことが出来たのかしら…」
「ぴう!」
誇らしげに一声鳴き、胸に顔をうずめる仕草は、まるで「任せろ」と言っているようだった。
マリィはふと、オルクの足元を小走りで横切った小柄な影に目を留めた。
「ネズも、私を守ってくれたのよ」
「光栄ですぜ、マリィ王妃!」
ネズは誇らしげに胸を張り、芝居がかった仕草でその場に跪いた。
そんなやり取りを横目に、オルクが怪訝そうに眉を寄せる。
「そういやよ……ネズは別件の調査任務だったはずだろ。どこでマリィと合流した? それに馬鹿皇子の証拠映像を、どうやって撮ったんだ?」
「へっ、俺は天才諜報員ですからね。予定よりも早く仕事を片付けちまって、美味い酒があると噂のルミナフローラの酒蔵を拝借……いや、一杯ひっかけようと思って寄ってみたんです。そしたら偶然、マリィ様ご一行が城に入るところを見たってわけで」
「その夜、私の部屋にネズが現れて……事情を聞いてくれたの」
マリィが補足すると、ネズは口角を上げて愉快そうに笑った。
「マリィ様が単身で帝国に乗り込まなきゃいけないと聞いたら、居ても立ってもいられませんでしたぜ。
だから護衛を申し出たんです。――つまり実際には、マリィ様はひとりじゃなかったってことです!」
「とても心強かったわ、ネズ」
マリィの柔らかな微笑みに、ネズはますます得意げになる。
だが、オルクの疑問はまだ晴れていなかった。
「だがよ、マリィは入城のときに防御魔法の道具を取り上げられたんだろ? ネズ、お前はいったいどうやってマリィと一緒に忍び込んだんだ?」
その問いに、ネズの顔がみるみる曇る。口ごもり、もぞもぞと視線を逸らした。
「えーっと…へへ……マリィ様の……ドレスの……中……ははは」
わざとらしい笑いで誤魔化すその様子に、オルクの眉間に皺が寄る。
「テメェッ! こらネズ!!」
「ひ、ひええ! マリィ様の提案なんですってばぁ!」
オルクの手が伸びるより早く、ネズは素早い身のこなしで逃げ回る。
その騒々しい追いかけっこを、マリィはくすくすと笑みをこぼしながら見つめていた。腕に抱きしめたピコの温もりを感じつつ、小さく呟く。
「……私、今日のこと絶対に忘れないわ」
目を伏せ、けれど唇には微かな笑みを浮かべる。
「私を支えて、助けてくれた人がこんなにもいる……魔族と人間の、種族を超えて……。私の大切な人たち……」
オルクはしばらくその横顔を見ていた。
やがて、真っ直ぐな瞳で応える。
「マリィだって……」
その声はいつになく優しく、少し掠れていた。
「コイツらにとっても、俺にとっても……恩人で、大切な人だぜ」
マリィは顔を上げた。その瞳に映るのは、少年のように不器用な笑みを浮かべるオルクの顔。胸が温かくなり、自然と微笑みが返る。二人の視線は絡み合い、互いに慈愛に満ちた表情で見つめ合う中で、そこには言葉以上のものがあった。
やがて、マリィはそっと肩をオルクに寄せる。オルクもそれを受け止めるように腕を回し、二人は並んで身を寄せ合った。
飛空艇は安らぎの空を進み、二人の心にもようやく平穏の光が差し込んでいた。
※※※
雲を抜け、魔導機関の低い唸りを響かせながら、巨大な飛空艇がルミナフローラ王国の城下町外れの平野へと降下していく。
日の光が金色に差し込み、機体に刻まれた東エルグランド王国の紋章を反射してきらめいた。
既に地上には整然とした兵列が築かれていた。槍を構えた兵士たち、儀礼用の鎧に身を包んだ騎士たち。
そしてその最前列に立つのは、威厳に満ちた王――ルミナフローラの王ロアンである。
その傍らには、まだ幼さの残る愛らしい少女、マリィの妹リリー姫の姿があった。小さな体を目いっぱい伸ばして、今か今かと飛空艇の扉が開くのを待っている。
上空では、飛竜にまたがった騎士たちや、鳥獣人の兵らが旋回し、周囲の警戒を続けていた。空の守りは厚く、地に降り立つ者すべてを守るために羽ばたいている。
やがて、重々しい金属音と共に飛空艇の扉が開いた。
光の差し込む中、最初に姿を現したのはカトレア王妃だった。その姿を目にした瞬間、ロアンの顔が強張りから解き放たれ、声が溢れる。
「カトレア……! マリィ!」
「お母さま!マリィ姉様!」
リリーの甲高い声が続き、彼女は小さな足で駆け出していった。
マリィとカトレアもほとんど同時に飛空艇の階段を駆け降りていく。
4人は途中でぶつかるように抱き合った。母と父、そして娘たち。強く、強く、まるで離れた時間を埋めるかのように。
「ああ…ロアン!リリー!」
「お父様…!」
涙に濡れた声が重なり、4人はその場でしばらく動けなかった。
王妃の帰還を目の当たりにした兵士たちは、魔族への恐れすら忘れ、我先にと歓声をあげる。
「王妃様、ご無事だ!」
「万歳! 万歳!」
女官たちも駆け寄り、泣きながら互いに手を取り合った。エルダーをはじめとする側仕えも、胸に手を当てて涙をこらえ、王妃と王女の姿を見つめる。
城下町の高い塀からは民たちが身を乗り出し、遠巻きに農夫たちが鍬を手に掲げて喜びの声をあげた。まるで国全体がひとつの家族になったように、歓喜の波が広がっていく。
その情景を少し離れた場所で見守っていたオルクの胸にも、温かなものがじわりと広がった。
「良かったな、マリィ」
自分はこの家族の輪の外に立つ者――そう思っていた。だが、隣に駆け寄ったマリィがそっと袖を引く。
「……お父様」
小さな声に促されるように、ロアンはゆっくりとオルクの前に歩み寄ってきた。背筋は凛として揺るぎなく、だがその目は父親の色を帯びている。
「貴方が……マリィの夫。ファングレイヴ王のオルク陛下ですね」
深く息を吸い、ロアンは続ける。
「貴方のご助力なくして、この難局は乗り越えられなかったでしょう。マリィの父親として……心より感謝致します」
その言葉にすぐ、ロアンの背後からカトレアの声が重なる。
「本当に……どれだけ感謝しても足りないくらいですわ。マリィ、貴女は……素晴らしい方と添い遂げましたね」
マリィは真っ赤に頬を染めながらも、誇らしげに答えた。
「はい……!」
オルクはたじろぎ、獣耳は少し折れながらも、どうにか言葉を絞り出す。
「い、いえ…俺…私は……当然のことをしたまでです。それに、今回のことは……どの国の一つでも協力が欠けていたら、成功には至らなかったでしょう。ルミナフローラと手を取り合えたこと……大変光栄に思います」
そう言って、深く頭を下げた。
「……」
ロアンは一瞬、黙ってオルクを見下ろしていた。やがて、その逞しい手でオルクの手を力強く握り返す。
「顔を……上げてください」
オルクが恐る恐る顔を上げると、ロアンはわずかに笑みを浮かべ、今度は王ではなく、ひとりの父親として頭を下げた。
「マリィを……娘を、よろしくお願いします」
その言葉にカトレアも静かに寄り添い、瞳に母の温かさを宿した。
「……はい!」
オルクは胸を張って答えた。その横で、リリーはすっかり無邪気に戻り、ピコを追いかけて遊んでいる。
「待ってー!ピンクちゃん!」
「ぴーーい!」
戦いと恐怖の数日を越えて、ようやく心からの笑顔を浮かべることができたのだ。
やがて、再び飛空艇が出立の時を迎える。
乗り込んだオルクとマリィを乗せ、巨体は静かに大地を離れ、空へと舞い上がった。地上からロアンとカトレア、リリー、兵士や民たちが一斉に手を振る。
「またねー!マリィ姉様!オルク兄様!」
リリーの声が澄みきった空気を震わせる。小さくなっていく飛空艇を、ロアンとカトレアは肩を寄せ合っていつまでも見上げ続ける。その目には涙と、誇りと、確かな未来への光が宿り、澄み切っていた。




