第三十五話 会心の一撃
「やめて――!!」
マリィの声が裂けるように森に響いた。彼女が両腕を突き出すと、青い光が一瞬で辺りを包む。
澄んだ蒼のドームが彼女たちを包むように展開し、土塊を振るわせるゴーレムの足を弾き返した。光は冷たく硬く、音もなく周囲を切り取るように存在する。
「マリィ…!」
「おい、こんなでっけぇシールド見たことねぇぞ!」
ネズの叫びが耳に届く。いつもは軽口を叩くネズの声も、今は必死だ。
ゴーレムは頭を振り、拳のような岩の腕を振り下ろす。
シールドは一度目の猛攻を受け止めたが、その表面に細かな亀裂が走り始める。少しずつ亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、青い光の穏やかな脈動は次第に揺らぎを見せた。
「くっ……まだもつはず――!」
マリィは必死に腕から肩まで、意識を一点に集中している。呼吸は浅く、汗が額を伝う。彼女の右手の甲の紋様は蒼の回路のように光が走り、シールドを繋ぎ止めようとする力がなおも湧き上がる。
しかし力は限界に近づいていた。剛性のゴーレムを押し返すたびに、彼女の内側にある熱と冷えが交互に襲いかかる。
「壊れる!壊れるぞ、マリィ様!」
ネズが叫び、メイドが身を挺してカトレアを後ろへ引くが、それでも迫り来る巨体の影は逃げ場を奪う。ゴーレムの脚が再び空を裂き、落ちてくる。
ズシン!とした轟音と共に、シールドを走るヒビが、まるで導火線のように一気に拡がる。光が細かく瞬き、次の一撃で粉々に崩れるのを誰もが感じ取った。
岩場に追い詰められたマリィたちの前で、ゴーレムの巨大な足が今にも振り下ろされようとしていた。
「もう、ダメだわ!!」
マリィの悲鳴に、誰もが目を瞑るしかなかった。
──その瞬間。
ドンッ!!
空気そのものが爆ぜるような衝撃音が響き、ゴーレムの頭部が弾け飛んだ。土の巨体は頭を失ったままぐらりと揺れ、バランスを崩す。そして地鳴りを響かせながら、巨岩の塊のように崩れ落ちた。
粉砕された土が煙のように舞い上がり、視界は砂塵に閉ざされる。
「な、なんだァ?!」
ネズが目をこすりながら叫んだ。
土と煙に包まれた空気がざわめく。ゴーレムが崩れ落ちたその頂き、土の山の上に──影が立っていた。
獣じみた荒々しい風貌、陽に照らされ、灰色の毛並みが光を返す。腕は岩をのように逞しく、金色の瞳が鋭く光る。
「……頑張ったな、皆」
砂塵の向こうから響いた低く温かな声に、マリィは息を呑んだ。
煙が晴れゆく中に姿を現したのは、魔界の獣王──オルク・ファングレイヴであった。
「オルク……!」
マリィの声は、歓喜と信じられない気持ちの入り混じったか細い囁きとなった。彼女は蒼いシールドを解き放ち、土に足を取られながらも駆け寄る。裸足の足裏には小石でついた傷がいくつも走っていたが、痛みなど意識に入らなかった。
オルクは腕を差し伸べ、優しい眼差しをマリィに向けた。
「もう大丈夫だ」
その言葉に、マリィの胸は熱く震えた。
その感動の再会に反して、周囲の兵士たちがどよめきに包まれる。
「あ、あれは……!」
「ま、魔界の……ファングレイヴ王……!」
畏怖の声が漏れ始め、前線に立つ騎士の一人が思わず後ずさる。しかし、すぐさま怒声がその動揺をかき消した。
「何をしている!怯むな!!」
鼻水を拭ったロドリオ皇子が、歯を食いしばりながら喚いた。
「全員一気にかかれ!相手が王なら殺せば手柄だぞ!一匹の獣に何をビビってやがる!!」
その命令に押され、兵士たちは槍を構え直し、魔法士たちは呪文を唱え始める。しかしオルクは鼻で笑い、堂々とした口調で言い放った。
「……それが、一人じゃねぇんだよなぁ」
次の瞬間、遠方から馬蹄の音が地を揺らした。河川沿いの森を突き抜け、朝靄を切り裂くように騎馬の群れが現れる。
「見ろ!援軍だ!」
兵士の一人が叫ぶ。
陽を背にして先頭に立つのは、凄絶な怒気を含んだ表情をした女騎士──セーラ隊長だった。
「貴様ら!王妃に指一本触れてみよ!全勢力を持って叩き潰すぞ!!」
鋭い眼光と怒号に兵士たちの背筋が凍る。
「やっぱり国境付近で待機させて正解だったぜ」
オルクが低く呟くとマリィの胸はさらに熱くなり、涙を浮かべる。
「ルミナフローラ……それに、ファングレイヴの騎士たち……!」
カトレアが驚きの声を漏らす。
敵兵の中に緊張が走った。ロドリオ皇子の顔には明らかな曇りが差し、額に汗が滲む。
「は、ははっ……!だが!こっちの兵士はまだ多い!魔法士だって控えているんだぞ!」
無理に虚勢を張るような声。しかしその顔には怯えが露骨に浮かぶ。オルクは振り返りもせず、その声を鼻で笑い飛ばした。
「そう思うか?」
その瞬間、空が暗く翳った。
おかしい……つい先ほどまで朝日が眩しく輝いていたはずだ。兵士たちがざわめき、空を仰ぐ。雲ではない。それは影だ。
何か巨大な存在が、彼らの頭上を覆い隠したのだ。空を覆った巨大な影の正体が、ようやくはっきりと見えてきた。
「ひ、飛空艇……!?」
それはただの飛空艇ではなかった。
空間そのものが裂け、細かい電気の火花を散らしながらぽっかりと口を開いた大穴から、次第にその巨躯が姿を現していく。
まるで世界の裏側から引きずり出されるように、金属の艦体がぎしりと鳴りながら空に現れた。艦首には東エルグランド王国の紋章が燦然と輝いている。
「う、嘘だろ……空間から、直接……!」
バルメギアの兵士たちが顔を蒼ざめさせ、槍を取り落とす者まで現れる。
だが、出てきたのは飛空艇一隻だけではなかった。次々と、空の裂け目から吐き出されるのは、数え切れぬほどの兵の影。
飛竜の背に跨る竜騎兵たちの鎧が陽光を反射し、鋭い咆哮が空気を震わせる。
羽ばたく鳥獣人の騎士たちが群れをなし、矢のように滑空して地を睨む。
さらに、光沢のある小型戦闘艇に乗り込んだ魔法士部隊が陣形を組み、魔力の光を帯びながら飛空艇を護るように展開していく。
黒々とした群れが空を覆い尽くし、朝焼けの光は完全に遮られた。それはもはや「影」ではなく、国々の軍勢そのものが降臨した光景だった。
「み、見ろ……!あれは……!」
「ファングレイヴの獣兵だ!エルグランドの空軍もいる!」
「グリムヴァルドの魔法士団まで……!」
戦慄に染まる声があちこちから上がる。
空を埋め尽くした軍旗は、西のファングレイヴ、東のエルグランド、北のグリムヴァルド──魔界三国の紋章が風を裂き、翻っていた。
飛空艇の甲板に仁王立ちする巨体がある。全身から覇気を放つ白髪の王。その足元に、雷鳴のような声が轟いた。
「どうだ!我が国が誇る最新の飛空艇だ!凄いじゃろ!」
レグノス王だ。艦体に負けぬほどの威容をもって両腕を広げ、豪快に笑っていた。
その隣には、静かに佇む若き王。セリオンが落ち着いた眼差しで全軍を見下ろしている。さらに彼の側で肩を竦めるのは、アーロン参謀。
「……飛空艇ごと全軍を時空転送した」
セリオンが呟くと、アーロンは深いため息をついた。
「我が国の精鋭魔法士百人に転送魔法を施させましたよ。まったく……骨が折れるどころの話じゃありません」
魔界の実力者たちの余裕ある会話が、空から大地に響き渡った。
さらに、風を切る鋭い音が響く。
飛竜の背に跨り、翼を大きく広げながら空を旋回してきた若き焔髪の騎士が笑った。
「よー!オルク!」
陽光を背に受け、ジャスティン王子が大声で呼びかける。
「ここにいる全員と戦うか?それとも俺たちに譲ってくれるか?」
彼の笑みは挑発とも冗談ともつかぬ奔放さに満ちている。圧倒的な数の兵と飛空艇の影に覆われ、バルメギアの兵士たちの顔から血の気が引いていく。
握った槍は震え、詠唱していた魔法士の声は途切れた。
「ひっ……ひぃっ……!」
「ば、化け物どもが……!」
そして──ロドリオ皇子。顔を引き攣らせ、唇を噛み切りながらも虚勢を張ろうとするが、膝はわずかに笑い始めていた。その眼に、恐怖の色がはっきりと宿っていた。
しかしロドリオ皇子は、相手の力量を測ることすらできぬ愚鈍さと、無意味に高すぎるプライドに囚われていた。
「お、おい、何怯んでんだよ……! 行けよ! おい! 行けったら!」
震える手で、近くの兵士の胸や肩を乱暴に突き押す。だが兵たちは石像のように動かない。誰ひとりとして剣を抜くことも、弓を引くことも、魔法を詠唱することすらしなかった。恐怖と畏怖が全身を縛りつけ、命令を耳に入れたところで体が応じないのだ。
その様子を見たオルクは、深いため息を吐くように肩を落とし、呆れと哀れみを混ぜた目でロドリオを見やった。
「……はぁ。敵の総大将よぉ、降参することが最善ってこともあるんだぜ?」
静かな声だった。だがその声には戦場の轟音よりも重く響くものがあった。
それでもロドリオは醜く喚き散らす。
「あああ! う、煩い! 煩い煩い!どいつもこいつも俺を舐めやがって! こんなことになるなら、さっさと王妃たちを眠らせて痛めつけときゃ良かった!!」
――その瞬間。
「……は?」
オルクの声色が低く落ちた。
次の刹那、彼の双眸がぎらりと輝き、獣じみた光が走る。光を宿していた琥珀色の瞳は、怒りに濁った金剛の色へと変貌する。空気が一瞬で張りつめ、戦場にいた誰もが息を呑んだ。
大地が震える。まるで地の底から何かが呼応するように、空気が重く、冷たく変わっていく。
兵士たちは喉を詰まらせ、後ずさりした。たとえ直接向けられた怒気ではなくとも、王の本気の殺気に心臓を握り潰される感覚を覚えたのだ。
オルクの一歩は、万雷の轟きにも似ていた。だがその時――。
「……陛下!」
ネズがオルクの前に飛び出した。いつもの軽薄そうな笑みは消え、真剣そのものの顔をしている。
「俺は見ましたぜ! この馬鹿皇子が、マリィ王妃とカトレア王妃に狼藉を働いてるところをよォ! 映像だってあるんだ!」
そう言うや否や、ネズは装着していた単眼スコープのボタンをカチリと押した。
瞬間、レンズから蒼白い光がほとばしり、オルクの足元――土の地面に鮮明なホログラム映像が浮かび上がる。
そこに映し出されたのは、壁に追い詰められたマリィとカトレア王妃の姿だった。
『おやめください!』
『やめて! 何をするのです!』
母娘の必死の叫びが場の空気を凍らせる。
映像の中でロドリオ皇子は涎を垂らさんばかりの顔でカトレア王妃に馬乗りになり、腕を押さえつけていた。
『うるさい! 無礼者が……!』
怒声と共に振り下ろされる手。続けざまに放たれた昏睡魔法が王妃を呑み込み、抵抗の声を掻き消した。
その一連の光景が、隠しようもなく鮮明に映し出されていく。
場に居合わせた者たちは皆、息を呑んだ。ルミナフローラの騎士達は震えるほど怒っていたし、ファングレイヴの騎士団も、特にセーラ隊長は今にも皇子に噛み付くように牙を剥いて唸っている。
皇子の味方であるはずのバルメギアの兵士たちすら顔を引きつらせ、どよめきの中には嫌悪の声が混じる。
「てめぇ……」
オルクの喉奥から唸り声が漏れた。その双眸は血走り、瞳孔は獣のように細く尖る。
誰もが理解した。――今の王は、もはや獲物を食い千切ろうとする獣だと。
一瞬のことだった。
オルクとロドリオの間には、確かに数十m以上は離れた距離があったはずだ。だが、誰も瞬きをする間すらなかった。気がつけば――オルクはもう、皇子の目と鼻の先に立っていた。
兵士たちは刃を突き立てられたような錯覚を覚えた。心臓を掴まれたかのように冷たい死の気配が背筋を走る。ロドリオ自身もまた、恐怖に凍りつき声にならぬ声を洩らした。
「あ……」
伸びてくるオルクの手。それは、皇子の目には山よりも巨大に映った。抗うことも、逃げることもできない。
――次の瞬間。
バチィィィインッ!!
空気が裂けるような衝撃音が響いた。
オルクの「デコピン」が、ロドリオの額を正確に撃ち抜いたのだ。
皇子の体は無様にも宙を舞い、十メートル以上後方へと吹き飛んでいく。ドサァンと音を立てて、ぬかるみに顔から突っ込み、泥と鼻水にまみれながら口から泡を吹いて倒れ伏した。
慌てて駆け寄った兵士たちは、皇子の無惨な姿に顔を引きつらせながらも――心の内でその散々たる醜さに引いていた。
オルクはふん、と鼻を鳴らした。
「……これで勘弁してやらぁ」
その一言に、戦場にいた全員が理解した。――本気なら、皇子の首など一瞬で折られていたことを。
飛空艇の甲板からレグノス王が小さく笑う。
「……昔のあいつなら、本当に首を折っていたな!」
腕を組むジャスティンも肩をすくめた。
「大人になったなお前ー」
バルメギアの兵士たちは青ざめた顔で皇子を馬に乗せ、退却の号令もそこそこに一目散に撤退していく。小さくなって消えていくその背は、やがて地平線の彼方で米粒のように遠ざかった。
戦場に残ったのは、勝者たちの影と風の音だけ。オルクは振り返り、マリィや仲間たちを見やると、にかりと笑った。
「さ! 帰ろうぜ。俺たちの国に」
「オルク……」
マリィはカトレアと顔を見合わせ、安堵と喜びの微笑みを浮かべる。
その笑顔は、これからの未来を照らす光のように柔らかく、強かった。




