第三十四話 脱出劇
館の階段を下りるとき、白壁に掛かった燭台の灯りがちらちらと揺れ、影を伸ばしていた。
一歩一歩、靴音がやけに響く。息を潜めるようにしてメイドを先頭にマリィとカトレアは降りていったが、階下へたどり着いた瞬間――
「……ひっ!」
カトレアが小さく悲鳴を漏らした。
そこには従者らしき男が仰向けに転がり、白目を剥きながら泡を吹いていたのだ。手足は痙攣し、口元にはまだ涎が糸を引いている。
「うえ〜」
ネズは舌を出しながらその従者の顔の横をそろりと通り過ぎた。
マリィが思わず母の腕を掴んだそのとき、メイドは落ち着き払って話す。
「お気になさらず。私が処しました。」
無表情のメイドが淡々とした表情で振り返る。彼女は靴の先で従者の帽子を蹴り転がした。あまりに冷静な声音に、逆に恐ろしさを覚えるほどだった。
「……い、行きましょう」
カトレアはわずかに顔を強張らせつつも、視線を逸らし先を急ぐ。
マリィは胸をざわつかせながらも母の手を握り直し、足を進めた。
一階の廊下を抜け、やがて広めの部屋――書斎に辿り着く。
そこは床から天井まで壁一面が本棚に覆われ、古びた革表紙の書物が隙間なく敷き詰められていた。薄暗い室内に漂うのは紙とインク、そして長年使われなかった埃の匂い。
「ぴぃ、くんくん…」
ピコは上を向いて部屋の匂いを嗅ぐ。
メイドは迷うことなく、本棚の一番下の段にある赤い背表紙の本へと手を伸ばした。
ゆっくりと引き抜くと――「ゴゴゴゴ」と低い振動音を立てて本棚全体が横へずれていく。やがてその奥から、冷たい空気が吹き上がる暗い階段が口を開けた。
「……王族のシェルター兼逃げ道なのでしょう」
メイドは一歩先へ踏み出しながら言った。瞳はその隠し通路を見据えている。
「この通路を抜ければ、館から離れた河川に出ます。そこで国境に待機しているルミナフローラとファングレイヴの騎士団に応援の知らせを出します。」
メイドの指先に小さな魔法陣が浮かぶ。
瞬間、淡い光球が生まれ、通路を照らし出した。湿った石壁と苔の匂い、冷気が彼女たちの頬を撫でる。
マリィは胸に手を当て、深く息を吸った。
未知の通路は冷たく恐ろしかったが、自分たちが生き延びる為には進むしか選択肢はなかった。
「……行きましょう」
母のカトレアも強く頷く。
その背後で、ピコがか細い声で「ぴぃ」と鳴き、ネズは肩を竦めて「薄暗ぇなぁ」とぼやいた。
こうして一行は、重苦しい空気に包まれながらも意を決して、地下通路の奥へと足を踏み入れていった。
重々しい石扉が背後で閉ざされると、途端に館のざわめきは遠のき、耳に届くのは冷たい地下の音だけになった。
時折、水滴が落ちる音が反響し、石壁に吸い込まれていく。足音もまた、どこまでも続く通路に追いかけられるように響いた。
空気はひんやりと湿っていて、鼻腔をくすぐるのはカビと苔の匂い。
マリィは思わず肩をすくめ、怯えたようなカトレアの手を握った。
「お母様、大丈夫ですか?」
「ええ、まさかこの年齢でこんな冒険をするとは思わなかったわ」
メイドは先頭を無表情で進み、掌の光球だけが薄暗い通路を頼りなく照らしている。
マリィは後ろを振り返れば、ネズが冷静な目で壁や天井を見回し、どこか危険を探るように歩いていた。
そして一番後ろには、小さな足を懸命に動かすピコ。ぽてぽてと短い手足で追いすがりながら、時折「ぷぃ」と心細げに声を漏らす。
息を呑むような沈黙の中、通路はどこまでも続くように思えた――。
※※※
2階の居間で泡を吹いて倒れていたロドリオ皇子が、情けない呻き声とともに目を覚ました。
「ひっ…ひぐぅ……!」
鼻水と涙を同時に垂れ流し、口をぱくぱくとさせながら床にのたうち、這いずってようやくバルコニーに出る。
するとうめき声を聞いた外警備の兵士がバルコニーの手すりにしがみついて、へたり込んでいるロドリオ皇子を発見した。
「お、おい!!あれ!皇子陛下じゃないか?!」
「な、なに!?!?」
館の2階に駆け込んできた兵士たちは一瞬凍り付く。
兵士たちが皇子の元に辿り着くと、皆一斉にうわ……これは、と顔をしかめた。
誰もが顔中涎と涙まみれのロドリオ皇子に心の中で、なんて汚さだ!と思ったが口には出せない。慌ててロドリオを抱き起こしながら周囲を見回す。
「殿下!? 一体何が――」
「ぐ、ぐぅ……!あ、あの女どもが……!あの王妃たちが……っ!」
兵士たちはハッと気づく。
つい先ほどまでこの館に幽閉されていたはずのマリィ王妃とカトレア王妃が、どこにも見当たらない。
「い、いない!監禁していたはずの王妃たちが!」
「なに!?侵入者か!? 殿下に何かあったのか!」
「おい、部屋を探せ!扉も窓も確認しろ!」
次々と叫び声が飛び交い、館は一気に騒然となる。
その混乱の中、ロドリオは震える手で兵士の胸倉を掴み、嗚咽混じりに絶叫した。
「見つけ出せぇッ!! あの女たちを捕らえろ! 首を、首を全部持ってこいィッ!!」
怒号は館の隅々に響き渡り、兵士たちの顔色は一層青ざめる。
――これは失態だ。もしこのまま逃げられれば、間違いなく皇帝陛下の怒りは免れず…全員の首が飛ぶ。
「急げ!地下も探せ!」
「魔法士を呼べ!使い魔を放て!」
命令とともに帝国魔法士が駆けつけ、黒衣の男が呪文を唱える。
次の瞬間、群れをなすコウモリや小型の魔獣が闇へと解き放たれた。
地下のどこかに潜むであろう獲物を嗅ぎつけるために――。
※※※
ネズの耳がピクリと動く。
彼は足を止め、険しい表情で通路の奥を振り返った。
「……おい。何かが近付いてくるぞ」
マリィが身を固く、足を止めてネズに振り返る。
「えっ……兵士の足音?」
「いや、違ぇな……羽音だ。約五百メートル後ろから、群れで迫ってやがる」
ネズの声は低く、鋭かった。その耳と鼻は情報を探るように、ひっきりなしにピクピクと動いている。
マリィにもカトレアにもまだ何も聞こえない。だが、メイドは表情を変えずに頷いた。
「……追っ手に気付かれましたね。少しスピードを上げます。王妃たち、遅れずに」
追っ手、と聞いてマリィは心の底から恐怖が湧き上がる。しかし、それを振り払うように母の手を強く握り、必死に足を進める。
「お母様、行きましょう!」
やがて、マリィの耳にも、ばさばさと羽ばたく音が届き始めた。迫り来る黒い影が、もう遠くない。
マリィは息を荒げるカトレアを横目で見ると、顔色を失いつつある母の顔。それがなんとも痛ましかった。
「見えてきました!出口です」
前方にかすかな光が差し込む。メイドは小さな短剣を抜き放ち、通路を塞いでいた蔦を鮮やかな手際で切り裂いた。
差し込む光が一気に広がり、通路の外に朝焼けが見えた。
マリィたちは一斉に飛び出す。冷たい朝の空気が頬を打ち、開けた森林と河川のせせらぎが目に飛び込んできた。
「外だわ……!」
マリィはカトレアの手を引き、メイドの背に隠れるように身を寄せた。
メイドが鋭く言い放つ。
「来ますね……!」
その声と同時に、背後の出口から黒い影が溢れ出した。
十数匹のコウモリ型の使い魔が、ぎらついた目を光らせながら飛び込んでくる。
「お出でなすった!」
ネズは口笛を吹き、腰から小さな筒を取り出した。
次の瞬間――閃光玉が炸裂し、朝焼けの森に白い光が広がった。
コウモリたちは混乱して飛び交い、その隙を突いてメイドが音もなく踏み込み、短剣で一匹、二匹と正確に落としていく。
「フッ!」
冷徹な表情のまま、格闘術を交えながら次々と仕留めるメイド。その動きは、優雅でありながら獰猛だった。
「任せな!」
ネズはさらに煙玉を投げ、木々の間に影を散らす。使い魔たちは翻弄され、獲物を見失って飛び回った。
その頭上に、小さな影が飛び出す。
「ピピッ!!」
ピコだった。
短い手足をばたつかせながら体当たりを食らわせ、鋭い歯で羽を噛み千切る。
さらに口から発せられた超音波が炸裂し、数匹の使い魔が悲鳴を上げて墜落した。
「ピコ……すごい!」
マリィは思わず声を上げた。
しかし、敵はまだ残っている。次々と出口から押し寄せてきて、空を覆うように迫ってくる――。
「マリィ王妃、カトレア王妃!このまま河川の上流まで走ってください!」
メイドが鋭く声を張る。
「私たちが必ず守ります!」
「……はい!」
マリィは振り返り、母と目を合わせる。
「……お母様、行けますか!」
「ええ……ええ!」
カトレアは荒く息をつきながらも、力強く頷いた。娘や戦ってくれている者たちのためにも生きる力が湧いているのだろう。
二人はドレスの裾をつかみ、湿った森の地面を踏みしめて駆け出す。
仲間たちの覚悟に報いるために、絶対に足を止めるわけにはいかない。
いつしか靴は脱げ、裸足の足裏には小石が突き刺さり、鋭い痛みが走る。爪の先から血が滲んでも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
ただ前へ、ただ生き延びるために。
背後で閃光が弾け、甲高い羽音と悲鳴が響く。
「あー、くそったれ!数が多いなぁ!」
ネズが叫びながら、手裏剣を一度に数枚放つ。闇を裂く鋭い銀の光が、飛びかかってきた使い魔のコウモリを正確に射抜いた。
「はぁっ!」
メイドはマリィとカトレアを庇うように前に躍り出て、短剣を鋭く振るう。刃は容赦なく闇を切り裂き、迫り来る影を次々と地へ叩き落とした。
「ピイイイーーッ!」
小さな身体を必死に震わせ、ピコが超音波を放つ。震動が空気を揺らし、敵の飛行を狂わせる。数匹のコウモリが苦鳴を上げ、木の幹に激突して落下した。
それでも敵は止まらない。闇から闇へ、次から次へと湧き出るように群れが迫る。
マリィは走りながら、胸を締めつけられるような思いに駆られた。
(みんな……ごめんなさい……!)
息が苦しい。
心臓が壊れそうに早鐘を打つ。
(私……守られてばかりだわ……!)
必死に涙を堪える。
自分は無力で、何一つ役に立てていない。
その悔しさが、胸の奥で熱を帯びていった。
荒い息を吐きながら、マリィたちは必死に走り続けていた。
しかし背後から響く蹄の音、鎧の金属音、そして低く呪文を唱える声が、次第に近付いてくる。
「も、もう、来たのねッ…!!」
カトレアの顔が青ざめ、息切れながら震える声が零れた。
森を切り裂いて現れたのは、馬に跨がった騎士たちと、鋭い槍を構える兵士の群れだった。さらにその後ろには、黒いローブを纏った魔法士たちが冷たい目で佇んでいる。
「王妃たちだけを生きて捕らえろ!あとは全て殺せ!」
先頭にいた騎士団長が無情に叫ぶと同時に、兵士たちが一斉に声を上げて押し寄せてきた。
メイドは即座に前に出る。
「王妃方は下がって!」
彼女は鋭い短剣を両手に握り、舞うように兵士の攻撃を捌いた。刃が閃き、次々と敵を斬り伏せる。
一方、ネズは木の根元に飛び上がり、煙玉を放り投げて視界を遮り、手裏剣を何個も投げ込む。鋭い金属音と悲鳴が続いた。
「はぁっ……はぁっ……!」
だが、二人の動きにも焦りが滲む。全力を振り絞っているが、数は減らない。
マリィの腕の中でピコはぐったりと目を細めていた。必死に超音波を放った代償で、もう小さな身体は力を使い果たしてしまったのだ。
「ぴぎゅ〜〜……」
「ピコ……!」
マリィはその小さな身体を抱きしめ、必死に守りながら後退した。
そして、痺れを切らした魔法士の一人が前に出る。
「フン……小賢しい鼠風情が」
低い声で呪文が紡がれる。
地面が震え始めた。大地が裂け、土砂が渦を巻く。
「な、なんだ……!?」
兵士ですら一瞬足を止めるほどの振動。
地の底から隆起したのは、十数メートルはあろうかという巨大な土の巨人――ゴーレムだった。
その体は岩と粘土で組み上がり、目は赤黒く輝いている。
「お、おいヤバいぞ!体格差ありすぎだろ!特に俺!!!」
ネズが青ざめて叫ぶ。
ゴーレムは重々しい音を響かせながら、ゆっくりと一歩を踏み出す。その度に地面が揺れ、周囲の木々が根こそぎ倒れていった。
「ひっ……!」
カトレアがマリィの腕を掴み、後ずさる。
必死に走るが、背後から迫る巨体の歩みはあまりに速い。
ついに一行は河川の岩場に追い詰められ、逃げ場を失ってしまった。
いつの間にか来ていたロドリオ皇子は騎士の乗る黒馬の後方に乗って、マリィ達に向かって勝ち誇ったように笑っていた。
「あははは!全員踏み潰せ!!」
ゴーレムの巨大な足が、彼らを覆い隠すように持ち上がる。
影が全員を飲み込んだ。
「踏み潰される……!!」
メイドの鋭い声が上がる。
「うわああっ、勘弁してくれぇ!」
ネズが歯を食いしばり、必死に跳び退く。
ゴーレムの足裏が、空を覆い、岩場にいる全員を押し潰そうと迫ってきた――。




