第三十三話 迫る魔の手
「マリィ…下の階が騒がしいわ…」
カトレアは眉を寄せ、そっと耳を澄ませた。母娘が籠る二階の一室は、静かな夜に包まれていたはずだった。
しかし今、聞こえるのは床を踏み鳴らす複数の靴音と、抑えきれないざわめき。
誰かが階段を上がってくる――。
「誰か……上がってきています!」
マリィもすぐに気づき、緊張に背筋を強張らせた。
その次の瞬間。ーーバンッッ!
重たい木の扉が、怒りをぶつけるように乱暴に蹴り開かれた。
「ッ――!」
部屋の空気が切り裂かれる。灯されたランプの炎が揺らめき、影が床と壁に跳ねた。
踏み込んできたのは、一人の若い男。
だがその所作には皇子と呼ばれる者にふさわしい威厳も礼節もなく、ただ欲望と傲慢を剥き出しにした乱暴さだけがあった。
黒い外套を翻し、鋭い眼差しで室内を舐め回すように見渡すその男――。
マリィとカトレアは息を呑み、とっさに互いの腕を掴み合う。母と娘の鼓動が触れ合うほど近くで早鐘を打った。
「…あなたは、誰?」
マリィは眉をひそめ、恐怖を隠すように声を張った。その問いに、カトレアの瞳が鋭く揺れる。
「……ロドリオ皇子殿下…?」
小さく、しかし確かに言葉を絞り出した。母として娘を庇いながらも、礼儀を欠くことはなかった。
名を呼ばれて、マリィは記憶を手繰る。
――あの日。まだ幼い頃、母とともに帝都を訪れ、婚約者として初めて会った少年。
だが彼は、初対面のマリィにいきなり冷水を浴びせた。嫌な思い出として心の奥に沈めていたその姿が、今ここに、大人の顔で立っていた。
(…よく見れば、確かに面影がある…)
ロドリオはにやりと歪んだ笑みを浮かべた。
「忘れたか?まぁ無理もないな。最後に会ったのはガキの頃だったしな。
あの頃は小生意気なガキだったが、今は――こんなに女らしくなって…」
ぞっとする声音と共に、一歩、また一歩と歩を進める。その足取りはゆっくりだが、じわじわと壁際へ追い詰める威圧感を伴っていた。
マリィとカトレアは後退し、背後に固い壁が迫る。逃げ場はない。
「……距離をお取りください」
カトレアが低く、毅然とした声で告げた。
だがロドリオは無視し、舌なめずりをするかのような視線を向ける。
「こっちは年増だが…なかなか、上玉だ」
不気味な笑みを浮かべながら手を伸ばし、カトレアの肩に触れようとした。
咄嗟にマリィが母の前へ飛び出し、その腕を力いっぱい押し返す。
「おやめください!」
マリィの声は震えていたが、眼差しは決然としていた。その抵抗が気に入らなかったロドリオの瞳が、狂気の色に染まる。
「なに…?!下賤のくせに!生意気だぞ!」
怒声と共に、彼は無理やりマリィの腕を振りほどき、カトレアの片袖を乱暴に掴んだ。
「きゃあ!!」
そのまま強引に引き寄せられ、カトレアの身体は床へと倒れ込む。ドレスの裾が乱れ、彼女は這いつくばる。
ロドリオは覆いかぶさり、力任せにドレスの裾を引き裂こうとする。だが上質な布はそう簡単に解けない。
青ざめながらもカトレアは必死に抵抗し、両腕を突き出して押し返した。
「やめて!!何をするのです!」
「お母様に乱暴しないで!問題になるわよ!」
マリィは必死に叫び、ロドリオの肩を掴んで引き剥がそうとした。だが男の力は強く、少女の腕力では到底敵わなかった。
「うるさい!無礼者が!…ああもう黙れ!」
ロドリオの手に、不意に紫色の光が走る。
掌から閃光が閃き、カトレアの身体を包み込んだ。
「ッ――!」
カトレアの瞳が大きく見開かれ、そのままゆっくりと閉じていく。抵抗していた両腕が力を失い、床にぱたりと落ちた。
「お母様ッ!?……まさか!」
「ははは…」
ロドリオは涎を垂らし、手の甲で拭いながら下卑た笑みを浮かべた。
「最初からこうすればよかったんだ。煩い奴は眠らせるに限る。あとは俺が楽しんだ後で――『記憶忘却魔法』をかければ万事解決ってわけだ」
「……っ!」
マリィは胸の奥から嫌悪感と怒りが煮えたぎるのを感じた。
目の前に横たわる母の安らかな顔。その姿が、かえって悔しさと恐怖を際立たせる。
(こんな最低な人間に…母を、好き勝手にさせてたまるものですか…!)
「お前の目…その反抗的な目つき!……気に食わねぇ!」
ロドリオの掌が再び光を帯びる。閃光が指先で弾け、マリィに向けられる。
「下がりなさい!!!」
叫ぶと同時に、マリィの身体に雷のような桜色の閃光が走った。眩い光が室内を満たし、ロドリオは「ぐあッ!?」と目を覆ってよろめく。
光の余韻が壁や天井に残り、影を鮮やかに刻み、マリィの胸の奥からは、ただひとつの強い意思が脈打っていた。
「ぴぃっ!!!」
高い鳴き声が部屋に響き渡った。
マリィの目の前に現れたのは、丸くて手足が短く、ピンクの短い毛並みを持つ愛らしい愛獣だった。
そのつぶらな瞳と懐かしい鳴き声に、マリィは思わず声をあげる。
「ピコ?!」
久々の主人に会えたのが嬉しいのだろう。ピコはぴいぴいと鳴きながらマリィの足元をぐるぐると回り、小さな尻尾を振って喜びを全身で表していた。
だが、その幸福な再会の瞬間に割り込むように、荒々しい声が部屋を濁らせる。
「ぐ…なんだ、この、くそッ!」
ロドリオ皇子は赤らんだ顔に汗を浮かべ、目をぎらつかせながら、マリィに向かって手を伸ばしてくる。
その手が届こうとした瞬間、ピコは本能的に察したのか――跳んだ。
「びぃぃ! がぶがぶっ!」
「ぎゃあああああ!いてぇぇぇぇぇ!?」
ピコが小さな牙でロドリオの腕に噛みついたのだ。
想像以上の鋭さに、ロドリオは悲鳴をあげてその場で大暴れする。腕を振り回し、部屋の家具にぶつかりながら、痛みにのたうち回る姿は皇子らしさの欠片もなかった。
マリィはその隙を逃さなかった。
「お母様!」
駆け寄ると、ベッドに横たわるカトレアの上に手をかざし、震える声で呪文を紡ぐ。
「《異常解除》!」
淡い光がカトレアを包む。
次の瞬間、カトレアは苦しげに眉をひそめ、かすかに瞼を震わせて――
「う……ううん……マリィ?」
か細い声で娘の名を呼んだ。
マリィは胸をなでおろしながら、母の手をぎゅっと握る。
「良かった……お母様!」
しかしその感動の一瞬も、すぐさま引き裂かれる。
ロドリオが腕を大きく振り払うと、ピコの小さな体は弾き飛ばされ、床をゴム鞠の様にバウンドしながら転がっていった。
「ピコっ!」
マリィの悲鳴が部屋に響く。
ロドリオは息を荒くし、顔を真っ赤にして血走った目でマリィを睨みつけていた。
「この……なめやがってえええッ!!」
歯を剥き出しにして突進してくる。
その圧にマリィは思わず母を庇い、背を壁に押しつけられる。恐怖で足がすくみかけたその時――
「おい!!そこの馬鹿皇子!そこまでにしときな!」
低く渋い声が室内に響いた。
だが、声の主の姿はどこにも見えない。ロドリオは驚き、辺りをキョロキョロと見回す。
「おいおい、どこ見てんだよ!視野が狭いぜ?」
その声は、マリィのすぐ手前から聞こえた。
目を凝らすと、ネズミが立っていた。
ただのネズミではない。黒いスーツのような軽鎧をまとい、首には真紅のシルクスカーフ。背筋を伸ばし、まるで人間のように堂々と立っていた。
「西ファングレイヴ王国直属諜報部隊――頭領、ネズ・エヴァンズだ。覚えなくても結構だがな? お前の蛮行はこの天才諜報員ネズ様が、しっかりと記録済みよ!」
その小さな胸を張って告げる声は、堂々としていた。
「この……バケモノが!」
ロドリオは怒りに任せて足を振り上げ、ネズを踏み潰そうとした。
だが、動きは鈍重だった。
「おっと、鈍いねぇ!」
ネズは軽やかにひらりと回避する。
その瞬間、彼が声を張り上げた。
「おい肉団子! いまだ!」
《ぴいいいいいいーーーーーー!!!》
床を転がっていたピコが跳ね起き、ロドリオの目の前で大きく鳴いた。
途端、空気が震え、耳をつんざくような超音波が放たれる。
「ぎゃああああああっ!!」
ロドリオは両耳を押さえ、悲鳴を上げながら床を転げ回った。
そこへネズが飛び乗り、ロドリオの背を踏み台にして何度もジャンプしながら踏みつける。
「ざまぁみろ! 女に乱暴する奴はこうだ! おらおらおら!」
「ぐぎゃあああああ!!」
情けない悲鳴が部屋中に響く。
マリィは母を抱き寄せながら、目を見開いた。
「これは……ピコの《超音波》! しかも……相手を特定して放って…オルクの時もそうだったわ…!」
(なんとか窮地は脱した……でも……どう脱出すればいいの? 外には兵士たちが取り囲んでいる。この騒ぎが知られれば、状況はもっと悪化する……!)
緊張で心臓が早鐘を打つ中――
「失礼いたします」
静かに、部屋の扉が開いた。
マリィは息を呑んだ。
扉を開けて入ってきたのは、湖の洋館でずっと世話をしてくれていたメイドだった。
――終わった。
そう思った。彼女はきっと悲鳴をあげ、外に控える兵士たちに助けを求めるに違いない。そして母と自分は、今度こそ逃げ場をなくすのだ、と。
だが予想は裏切られた。
メイドは表情を変えぬまま、ゆっくりと部屋を見回した。その視線が捉えたのは、ピコの超音波にのたうつロドリオ皇子。
「お、おい……メイド! ぐっ……助けッ…!」
口から涎と鼻水を垂れ流し、息も絶え絶えに命じるロドリオ。
その惨めな姿に、メイドは一歩近づき――
「ふんっ」
流れるような所作で拳を握ると、ためらいなくロドリオの腹へと叩き込んだ。
鈍い音が響き、皇子の身体がくの字に折れる。
「がっ……!?!?」
次の瞬間、彼は白目を剥いて泡を吹き、そのまま床に崩れ落ちた。
部屋が静寂に包まれる。
マリィとカトレアはあまりの光景に、目を白黒させて言葉を失い顔を見合わせる。
その横でネズは気取った仕草で口笛を吹く。
「……イカすぜ」
ピコはというと、全く空気を読まず、テーブルの上に転がっていた林檎に齧りつき始めていた。
メイドはゆっくりと二人の前に跪く。
その顔は相変わらず無表情で、どこまでも冷静だった。
「……私はネーベル王国の諜報員です。主であるヴィオラ王妃の命にて潜伏しておりました」
「ヴィオラお姉様の?!」
マリィとカトレアは、思いもよらぬ名前に瞠目する。
「はい。詳細は申し上げられませんが……ヴィオラ王妃の姉君…フーヴァルヘイツ王国のご助力のもと、バルメギア帝国への潜入を果たしました。
……魔界大陸の国も、人間大陸の国も……お二方のご帰還を、皆待ち望んでおります」
その言葉に、マリィとカトレアの胸に熱いものがこみ上げてきた。
たとえ遠く離れても、家族も、国々も、自分たちを想い、支えてくれている。
その事実に、喜びと感謝が同時に湧き上がる。
「さあ……ここから脱出いたしましょう」
メイドは立ち上がり、ロドリオ皇子の倒れ伏す姿を一瞥すると、淡々と告げる。
「館の一階にある書斎に、隠し通路がございます。この豚……いえ、ロドリオ皇子が目を覚まさぬうちに」
マリィは胸に手を当て、深呼吸してから頷いた。
「……はい。ご助力、感謝いたします!」
振り返ると、ピコは林檎を平らげた後、今度は白ブドウを頬いっぱいに詰め込んでいた。
さらに視線をずらすと――ネズがカトレア王妃の膝にちゃっかり乗っていた。
「ああ……お美しいカトレア王妃。宵闇に佇む白薔薇のようで……貴女から目が離せない。尊い貴女に魔の手が及ばなくて本当に良かった……。どうです? 今度、美味しいワインでも――」
「は、はぁ……」
困惑を隠せない笑みを浮かべるカトレア。 場違いなやり取りに、マリィは思わず脱力した。
「み、みんな! 行くわよ!」
気を取り直すように声を張り上げると、母の手を優しく取る。
そして仲間たちと共に、闇に包まれた館を後にするべく歩みを進めた。




