第三十一話 バルメギア帝国
早朝の空気はまだ冷たく、霧が城下町の屋根を覆っていた。
ファングレイヴ王国からの獣人騎士団、そしてルミナフローラ王国の騎士団が、マリィの乗る馬車を囲むように伴走する。
(バルメギア…私が対峙する相手…!)
遠目にも整列した兵士たちの数の多さは、ただの外交ではないことを物語っていた。しかし、マリィは表情ひとつ変えず、冷静に前を見据える。胸の奥では、これから向かう帝国の罠を意識し、心を引き締めていた。
バルメギア帝都の門が近づくにつれ、視界に入る兵士の姿が増えていく。軍服に身を包んだバルメギア兵。彼らの視線は鋭く、警戒心に満ちていた。
「ここから先は我がバルメギア帝国の完全管理下である。マリィ王妃殿下は当国の馬車に移り、貴国らは即刻立ち退きを命ずる!」
物々しい言い方に騎士達は内心不快感を抱いたがファングレイヴとルミナフローラの護衛はここで退き、マリィを囲むバルメギア兵だけが残る。
「王妃殿下…ご武運を」
マリィを傍で守ることが出来ない悔しさを滲ませながらも隊長セーラが告げてマリィに敬礼をする。
それにうなずき、深呼吸をひとつして進む。魔界と人間大陸、その二つの目が注ぐ中で、マリィの孤独を噛み締める瞬間だった。
背後の仲間たちに頼れない、完全に帝国の掌中に入る瞬間――それでも王妃としての覚悟を胸に、歩みを止めることはできない。
周囲は静まり返り、四方からの視線がマリィを鋭く刺すようだった。
護衛の姿が後ろへ消え、バルメギア兵士たちだけに囲まれたその瞬間、マリィの心臓は緊張と恐怖で高鳴る。
(…ここから先はついに本拠地。けれど、必ず母に会う――必ず生きて帰る。)
小さく握った手の中で、マリィの意志は固まる。周囲の鋭い視線、冷たい空気、あらゆる危険が迫るなか、毅然と姿勢を正して帝都へと足を踏み入れた。
バルメギア帝国の黄金宮は、その名に違わず贅の限りを尽くした建築だった。
正門をくぐると、漆喰に金箔が施された柱が天高くそびえ、巨大な噴水が水しぶきをあげる。
しかし、それらを眺める余裕は無い。
マリィの胸元には大振りの水晶のネックレス、耳には同じく水晶のイヤリング、腕には煌めく腕輪――これらすべてが強力な防御魔法を秘めた道具だった。しかし、バルメギアの使者の声が鋭く響く。
「その忌々しく強い魔力を放つ道具は、即刻お外しください」
マリィは静かに眉を寄せ、落ち着いた声で話が違います、と抗議をする。
「私が入国する条件として、この道具の装着は認められております。それを取り上げるのは不当です」
だが使者は、まるで予定通りとでも言うように鼻で笑い、冷淡に返す。
「それは『入国』の条件であって、『入城』はまた別問題です」
言葉尻を揚げ足取るその口調に、マリィの視線が一瞬鋭くなる。しかし、周囲を取り囲む魔法士や武装兵の圧に、抗う余地はなかった。深呼吸を一つ、そして彼女は仕方なく装備を外し、慎重に地面に置く。
(やはり、ね……相変わらず約束を反故にするわ)
そんなマリィの悔しさから震える唇に、使者は満足げに鼻を鳴らし、マリィを押すようにして王宮内へ進ませた。
その様子を、王宮の二階の窓辺から細めた瞳で見下ろす影があった。
バルメギア帝国第四皇子…そしてマリィの元婚約者であったロドリオだ。狐のような鋭利な目をさらに細め、下の正門前で兵士に取り囲まれるマリィをじっと見つめる。
「おい…誰だ、あの女は…どこの姫だ」
従者の一人が皇子に事情を耳打ちするが、ロドリオの瞳は無知のまま――事態も飲み込めず、ただ目の前の美しい女を品定めするだけだった。
「あの女が俺の元婚約者のマリィ姫だと?あれが……あんなに…」
その視線はただひたすらに卑しく、従者は嫌な予感を察知し汗を滲ませた。
兵士達に囲まれたマリィは巨大な両開きの扉の前まで来ると、従者が音を立てて扉を開ける。まるで黄金の海に足を踏み入れたかのような眩さがマリィの視界に飛び込んで来た。
高い天井には宝石を散りばめた装飾灯が吊るされ、壁面には黄金の浮彫り。広大な大理石の床は磨き抜かれ、歩く者の影までも映し込んでしまう。
「来たか……」
無機質にも思える冷たいの声の、玉座の階段を見上げる先に――皇帝ザルガドが鎮座していた。
白髪と長い髭を携えた老王。その眼光は凍り付くような冷酷さがあり、玉座そのものが生き物のように圧を放っている。
(ついに…この男が、バルメギア皇帝…!永きに渡り魔族を蹂躙せしめんとする支配者…!)
マリィは深呼吸し、ゆっくりと進み出た。だが一歩ごとに、周囲から響く鎧の擦れ合う音が緊張を増してゆく。両脇に並ぶ数十人の武装兵が、一斉に槍先を揃え、逃げ場のない檻を形作っていた。
「――ルミナフローラ……いや、魔界の西ファングレイヴ王国の王妃、マリィよ」
低く響く声が広間を満たす。形式的な呼びかけでありながら、その声音にはあからさまな試しと挑発が潜んでいた。
「若き身で魔界の王の后となりながら、己の祖国をも捨てぬか。その二心、我は好かぬ」
マリィの胸がわずかに震えた。しかし懸命に耐え、瞳は曇らず、まっすぐ皇帝を見上げる。
ザルガドは長い髭を撫で、わざとらしくため息を吐いた。
「無垢なる娘よ。お前の母、カトレアは我が保護下にある」
その言葉に、マリィの背筋に冷たい稲妻が走る。と同時にじわりと怒りも沸き立つ。
(やはりお母様は流行り病で伏せってはいないのね…もう隠そうともしてないわ)
皇帝は唇を歪め、飴と鞭を同時に目の前の、ひとりの娘に突きつける。
「娘よ、母を望むならば帝国に忠を誓い、栄光の礎となるがよい。
我が庇護を受け入れれば、ルミナフローラも守ってやろう。魔界への侵攻も控えてやる。どうだ、悪くはあるまい」
広間は静まり返り、兵の視線すら氷のように突き刺さる。まるで断わったらどうなるかわからんぞ、と無言の圧力そのもの。
しかしマリィは当然のように毅然と声を張る。
「私は誰の道具でもありません。私の魂は西ファングレイヴ王国と共に在ります。それに……あなた方の言葉をそのまま受け取る事はできません」
玉座の上から乾いた笑いが響く。それは馬鹿にしているような声音。
「クハハハ、生意気な小娘だ。道具ではない、だと? 人は皆、この帝国の盤上の駒にすぎぬ」
「違います!」
マリィは声を強めた。
「人を人とも思わず、力で捻じ伏せる国に……民は決して付いてはきません。それは栄華でも覇道でもなく、国の終わりです!」
広間に響くその言葉は、兵たちすら一瞬息を呑ませた。皇帝の傍に控えていた大臣らしき男の慌てたような怒号が響く。
「その言葉!皇帝陛下への侮辱であるぞ!」
皇帝の顔には侮蔑の色が滲んだ。
「世間知らずの小娘め……戯言を当然のように言いおって…魔族に心を洗脳されたか。やはり魔族など人以下の畜生よ。畜生を駆除しようが、焼き払おうが、知ったことではないわ!」
その声音は大地を割る雷鳴のように響いた。だがすぐに表情を収めると、冷たい眼差しで言い放つ。
「しばらくお前の母と同じ湖畔の館で暮らすがよい。いつか必ず、帝国を讃える言葉を口にする時が来る」
その場にいた誰もが、今の言葉が“軟禁”の宣告であることを悟った。
皇帝は最後に玉座から立ち上がり、重い声を落とす。
「せいぜい仲間の獣どもに伝えるがよい――帝国は盤を制する…とな」
吐き捨てるようなその言葉のあと、連れて行け、という使者の囁きとともに玉座の間から連れ出された。
マリィは、城の石畳を渡りながらも、振り返ることを許されず背中を押される。
皇帝の威圧がまだ背中に刺さっているかのように、息苦しさは消えない。
外に出ると、空はすでに暮色に染まりつつあった。城下の街並みは遠くに赤銅色の屋根を連ね、夕暮れの光を受けて炎のように輝いていた。
「乗れ」
使者は顎で示した先に、マリィを待ち受けていたのは黒塗りの馬車だった。厚い鉄板を仕込んだ扉、外には武装兵十数名、さらに魔力を漂わせる魔法士までが配置されている。
「これは、護送というより……捕縛、ね」
マリィはかすかに笑みを作ったが、その声は震えていた。
車輪がきしむ音と共に馬車は動き出す。石畳を抜け、街の喧騒を背後に置き去りにすると、次第に人の気配が消えていく。
(帝都から離れていく……)
窓の外を覗けば、広がるのは緩やかな森の影。日没と共に霧が立ちこめ、木々の間に松明が点々と並ぶ。
まるで森そのものが、帝国の兵たちに支配されているようだった。
マリィは両の拳を膝の上で握り締めた。
――母も、この道を通ったのだろうか。
数週間前、カトレアは「保護」と称して、この館に閉じ込められた。
その足跡を、今まさに自分が追っている。
(お母様も…きっとどんなに恐ろしかったことか…)
馬蹄が土を叩く音が、やけに胸に響いた。息を吸えば、森の湿った匂いと松明の煤が鼻を刺す。
そのどれもが、遠ざかる故郷の香りを打ち消していく。
薄闇の中、広がる湖面が墨を流したように静まり返り、揺らいでいた。
そのほとりに、白亜の館が立っている。本来なら静養地として用いられたのだろう。優美なアーチ、湖にせり出したテラス。
しかし、今そこを囲むのは戦車に加えて槍を構える兵と、結界を張る魔法士たち。
優雅であるはずの景色は、異様に歪められていた。
馬車が停まり、扉が開かれる。
マリィは一歩踏み出す。その瞬間、湖から吹く風が頬を撫でた。冷たく、どこか湿った風。
まるで湖自身が「ここは牢獄だ」と告げているようだった。
館の玄関に導かれると、背後で扉が重く閉ざされる音が響いた。
響きは長く尾を引き、静かな湖畔に吸い込まれていく。
その音は、彼女の自由を完全に閉ざした鎖の音のように聞こえた。
――お母様。
この扉の奥で、貴女はどんな思いで待っているのだろう。
マリィの胸に、恐怖と同時に燃えるような決意が芽生えていた。
※※※
魔界大陸の大国・東エルグランド――
その城の最奥にある重厚な会議室は、普段は沈着冷静な議論の場であった。だがこの夜ばかりは、まるで火薬庫に火が点いたかのような空気が渦巻いていた。
長卓の端に座る赤髪の青年――王子にして大将軍のジャスティン。
彼の紅の髪は怒りに揺れる炎のように艶めき、周囲の空気を震わせていた。無意識に拳が握り締められるたび、魔力が火花となって弾け、会議室の石壁に淡い閃光を投げかける。
「……父上、命じてください。今すぐにでも、我が軍を率いて突入いたします!」
低く唸るような声には、烈火そのものの激情が宿っていた。
対面に座るレグノス王は、白銀の鬚を撫でつつ、重々しく息を吐いた。その瞳は、息子の激しさを受け止めながらも揺るぎなかった。
「落ち着け、ジャスティン」
静かな叱咤。だがその声音には、嵐を鎮める深海の重みがあった。
既に西ファングレイヴ王国からの報せは届いていた。王妃マリィがバルメギア帝国に囚われたと。
この事態を受け、東エルグランド王国では大臣らを急ぎ召集し、緊急会議が開かれていたのである。
大臣たちが沈痛な面持ちで視線を交わす中、レグノス王はゆっくりと重い言葉を紡ぐ。
「……しかしのう。バルメギア帝国の、なりふり構わぬ蛮行は、時代を逆行する愚挙にほかならん。番たる王妃を人質に取り、我ら魔族の均衡を乱すとは……まるで『肉の壁事件』の再来だ」
その忌まわしき事件の名が出た瞬間、会議室の空気は凍りついた。
古の記憶――人魔の狭間に築かれた血塗られた歴史。魔族の伴侶や家族が盾にされ虐殺された、あの悪夢。
大臣たちの顔に苦渋と恐怖が浮かぶ。
「……父上!」
ジャスティンは立ち上がる勢いで声を荒げた。
しかしレグノスはその激情を真正面から受け止め、なおも揺らがぬ声で応じる。
「何を躊躇う事がある。事実じゃろがぃ。バルメギアはあの悲惨な昔から、一歩も変わっちゃおらん。その証を、こうして再び示してみせた」
一瞬、レグノスの瞳に暗い光がよぎった。
そして低く、だがはっきりと吐き捨てる。
「ワシ個人の感情で言えば、とっくの昔からバルメギアなど……潰してやりたいわ」
誰もが、王の胸奥の烈しさに息を呑む。だがすぐに、レグノスは静かに言葉を重ねた。
「……じゃが、それに踏み切れば必ずや、第三次人魔大戦の火蓋が切られる。あの地獄を、もう一度この大陸に呼ぶことになる。それに……」
声音がわずかに和らぎ、深い慈愛を含んだ。
「今は、マリィ王妃の安否を第一に優先すべきだ」
ジャスティンは息を呑んだ。拳を握り締め、全身の怒りを抑えるように、長く深く息を吐き出す。
「……父上。俺は……いつでもオルクに手を貸せるよう水面下で動いています。北グリムヴァルド王国とも、既に密かに協議を始めました」
その報告に、レグノス王は口元を緩め、豪快に笑い声を響かせた。
「ん、よかろう、よかろう!こういう時こそ短気は損気ってもんじゃ!
こまめにファングレイヴとグリムヴァルドと情報を交わし、網の目を張るのだ。焦らずとも機は必ず来る」
その堂々たる笑い声に、場の緊張が幾分和らいだ。
ジャスティンは、炎のような衝動を胸奥に押しとどめながら、心の中で苦笑する。
(……やはりまだまだ、父上には敵わねぇな)
炎は燃え盛っている。だがその炎を制御するための冷徹な知略と、悠久の時を生き抜いた器量。
それこそが、王という存在なのだ。
会議室には、なおも緊張の余韻が漂っていたが、その中心には揺るぎない柱のような父王の姿があった。




