第三話 出国と入国
ルミナフローラ王城の廊下を、若い側仕えが悲痛な面持ちで駆けてきた。エルダーは近づくと、声を潜めて尋ねる。
「マリィ様のご様子は……?」
「……しばらく一人になりたいと。食事も、ほとんど手をつけておられません」
側仕えの顔が悲しみで歪む。
「ひどい……!バルメギア帝国が始めた戦なのに、なぜマリィ様が“生贄”にならねばならないのですか?! 魔族は、負けた帝国に賠償でも要求すればいいはずなのに!」
エルダーも同じ思いだった。
なぜ、誰より民を思う姫が他国の戦に巻き込まれ、外交の犠牲にならねばならぬのか。歯がゆさと悔しさが胸を締めつける。
「……これが、戦争というものなのですね」
戦火の余波は限りなく広がり、とりわけ王族には重く降りかかる。
王城で仕える者たちの多くが、静かに涙を流しながら、マリィの行く末に祈りを捧げていた。
マリィの部屋は、魔導エネルギーの宿る魔鉱石ランプが仄かに灯るだけ。
窓辺に腰かけたマリィは、夜空を見上げたあと、視線を落として城下町を見つめた。
きらびやかではないが、確かに存在する街の灯り。それは、そこに暮らす人々の証だった。
(あの麦畑の向こうには工場、東には病院……)
(もし私が出国を拒めば、魔族はさらなる侵攻に踏み切る…。バルメギアが圧力をかけ、エネルギーの供給は制限され、我が国の輸出には高額な税が……)
そうなれば、灯りは消える。街は、戦火に呑まれて灰と化すだろう。
(それだけは……絶対に、させない)
「……でも、なぜ私なの? 勝者なのに、領土ではなく姫を要求するなんて」
ふと思い立ち、本棚から古びた本を引き出す。
『世界情勢』『魔界大陸』『魔族』の項を開いた。
『魔族は、瘴気に覆われた呪われし地――魔界大陸に棲む。
吸血鬼や悪魔のような姿を持ち、人間を食糧として好む――』
マリィはバタンと本を閉じた。立ちのぼる埃に眉をしかめる。
「……まさか、私を“食べる”つもりなの?」
二日が過ぎても、王城には重苦しい空気が垂れこめていた。
とくに王妃カトレアは、泣き疲れ、すっかり痩せ細っていた。元から儚げな美貌だったが、今は花弁が落ちた百合のような憔悴ぶりだ。
「おかあさま……」
リリーが絹のハンカチで母の目元をそっとぬぐう。
「うう……マリィは、魔族に食べられてしまうわ……。あの子が何をしたというの……」
父王ロアンも、胸を引き裂かれる思いで日々を過ごしていた。
だが、娘と国。どちらを選ぶかという問いを突きつけられた時、心は容易に決められるものではなかった。
「……許せ」
その時、私室の間の扉が開いた。
翡翠の瞳をたたえたマリィが、静かに入ってくる。
その目には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「お父様、お母様。私は……行きます。
魔界大陸、西ファングレイヴ王国へ」
その声は澄みわたり、部屋を凛と満たした。
「ま、マリィ……!」
「ああ……ああ……」
ロアンとカトレアはマリィのもとへ駆け寄り、震える手で娘を抱きしめた。
「私は王女として……
そして、お父様とお母様の娘として。
この国と、この民の未来を守りたいの」
リリーもマリィにしがみつく。
その瞬間、王族であることも立場も関係なかった。そこには、ただ“ひとつの家族”として寄り添い、涙を流した。
マリィはその身に伝わる家族の温もりを忘れないように、震える手に力を込めて抱き締めた。
やがて、マリィの出国の日は静かに訪れた――。
正門前、凛とした朝の空気に、荘厳な鐘の音が響いていた。
王と王妃は、城の正門前に静かに立ち、並び立つマリィの出国を見守っていた。
傍らには、まだ幼いリリー…つい昨日まで涙が止まらなかったというのが信じられないほど、今は小さな背筋をまっすぐに伸ばし、姉の背をじっと見つめている。
王家の紋章の旗がはためき、衛兵たちは槍を掲げて整列し、エルダーを筆頭に側仕えや近衛らがずらりと両脇を固めていた。
名だたる重臣たちも顔をそろえ、これがただの見送りではないことを物語っていた。
マリィは一歩、城門へと進み出る。
その足取りは、揺らがない。
淡い白銀の旅装束は春の光を受けてやさしく輝き、胸元にはルミナフローラ王家の紋章が刻まれたブローチが下がっていた。
衣服の美しい花と蔦の刺繍は、城の刺繍女たちが夜を徹して縫い上げたものだ。
その髪は丁寧に編み込まれ、花の銀飾りが輝き、微かな香油の香りとともに風に揺れている。
「……姫様、どうか、御身お大切に」
エルダーが深く頭を下げると、それを合図にしたかのように皆が一斉に膝を折り、深い敬意を示した。
マリィは微笑んだ。
誇り高く、気高く。王女としての最後の立ち姿を、この国に刻み込むように。
そして振り返らず、ルミナフローラ王国の紋章が刻まれた白い馬車へと向かう。
艶やかな栗毛の馬が並び、御者もまた儀礼装束に身を包んで控えていた。
扉が静かに開かれ、マリィは一礼して乗り込む。重く厚い扉が閉ざされる音が、ひときわ大きく響いた。
家族の声も、城の空も、すべてが遠くなっていく。
マリィは目を閉じ、小さく息を吸った。
――さようなら、ルミナフローラ王国
…私の愛する祖国。
ルミナフローラ王国から最寄りの港に到着し、船着き場で待機をしていると霧の中から姿を現したのは巨大な船体。
船首には狼の咆哮を象った紋章があり、目の部分に埋め込まれた魔石が紅く光っている。
帆はなく、背部に巨大な魔導式スクリューが付いていた。
船体表面に古代文字が刻まれた黒鉄の装甲。表面に打ち込まれた鋲や導管が露出していて、どこか生き物のような存在感を放つ煙突からは薄紫の蒸気が噴き上がり、海を割るように滑るその姿はまさに地獄の船。
港に停船した巨大船は蒸気を上げたのち、船腹の一部が開いた。
中から鉄骨の橋が突き出し、ガシャン、と港に接続される。
そして、静かに現れたのは――
顔まで覆われた黒のローブを纏った者たち。唯一見えるのは光る双眸のみ。
獣か、人か。あるいはそのどちらでもない、“何か”。
その異質さにマリィの背筋が、ひやりと冷えた。けれど、彼女は怯まなかった。高貴な誇りと、己が選んだ覚悟を胸に、ゆっくりと巨大船へと続くスロープを歩む。
その船体はまるで一つの移動する要塞のようで、甲板では、シリンダーのような塔がシュウシュウと蒸気を噴いていた。
マリィが足を踏み入れると、船は音を立てて動き出す。
重厚な金属の軋みと、規則的に回転する歯車の音。内装は機械仕掛けの精密さと、魔導の荘厳さが同居した構造。
鉄と黒曜石のような素材で構成された通路の壁には、魔力を灯したランタンが吊るされており、青白い光が無機質な空間を照らしていた。
窓際に立ち、外を見やる。
港が、ルミナフローラの城が、ゆっくりと、けれど驚くほど速く小さくなっていく。
蒸気の白い靄が過ぎるたびに、故国の影は薄れていき、まるで幻のように視界から消えていった。
マリィはその光景を、ひとことも言葉を発さずに見つめていた。
心に去来するものは、言葉にすれば脆く崩れてしまいそうで。
やがて、しばしの航行の後――
海の果てに“それ”が見えてきた。
あまりに巨大で、現実味のない光景にマリィは思わず息を呑む。
蒼い水平線に突如として現れた、黒鉄の壁。それはまるで海を断ち切るかのようにそびえ立っていた。
高さは百八十メートル。巨大な堤防の中央に、滑らかな金属で構成された巨大な門扉が構えられている。
表面には幾重もの魔導式の術式や紋章が刻まれ、まるで目を光らせるように不気味な光を灯していた。
「……あれが……魔界への、海門……?」
あまりに重厚なその存在感に、まるで生き物のような威圧を感じた。
そして奇妙なことに――波が、ない。
荒れるはずの外洋にもかかわらず、海門の前だけが鏡面のように静かだった。
まるで“あの門”が、海すら従わせているように思える。
船に乗った魔族の使者が、無言で一枚の魔導式通行手形をかざす。
すると――ゴウン、と重厚な振動が海底から響いた。
二枚の巨大な鉄扉が、ゆっくりと左右に開いてゆく。相変わらず波の影響は無い。
内部は闇に満ち、異界の匂いを感じさせる冷たい風がマリィの頬をかすめた。
“戻れない”という言葉が、脳裏をよぎる。
海門を抜けた先の港は軍事用のようで周辺にはズラリと黒い甲冑の兵士が待機していた。腰には帯刀をしており、マリィの胸には不安と恐怖が大きくなるのを感じる。
「マリィ王女殿下、足元にお気を付け下さい」
「はい…」
使者の誘導で下船すると馬車に乗るよう案内をされた。
鋳鉄製の頑丈な馬車には両側に銀の縁取りが施され、余計な装飾のない重厚な造形。
屋根部分には蔦の模様が刻まれていて無言の威厳を漂わせている。
馬車といっても車輪を引いていたのは馬ではなかった。
(初めて見るわ…こんな鳥…なんて大きいのかしら)
巨大な猛禽のような生物――全身は黒色の羽毛に覆われ、木にも似た脚は指が4本に分かれていて爪は分厚い刃幅のようだ。
時折首を振って大きな嘴を開けて低く鳴く姿は慄くほどの迫力がある。
この生物の名は「ドルド」、魔界大陸で飼育される地走りの戦鳥だ。
舗道を踏みしめるたびに地面が微かに震える。
ドルドが引く移動車は思ったよりも揺れず座席はベルベット製のソファで乗り心地はとても良かった。
(ああ…でも到着したその先は…)
(食べられるのかしら…)
(それとも実験体として扱われたり…)
気が遠くなり血の気が引く思いがして思わず口に手を当てると、同乗していた使者がマリィをじっと見ていた。相変わらず目出しのローブをきているので表情は分からず赤い瞳だけが此方を見ている。
「マリィ王女殿下、ご気分に障りましたでしょうか?」
「あ、いいえ…大丈夫です」
「わかりました。もう少しで王城に到着致しますのでしばしご辛抱を。ただ何かあればすぐに私めにおっしゃってください」
思いの外、使者の言葉尻が柔らかくマリィは驚いたがお陰で少しだけ緊張がほぐれた。
(驚いた…よく見たら優しい目をしている気がするわ)
移動車の揺れが止まり、重厚な扉の開く音がした。けれど、マリィはまだ目を伏せたまま、窓の外を見ようとはしなかった。
顔を上げれば、もう戻れない気がした。
一歩でも外に出れば、自分は「生贄」になるのだと――そう思えてならなかったから。
「……マリィ王女殿下、ご到着です」
低く響く声がそう告げた瞬間、開いた扉の隙間から空気が変わった。
人間の国とは異なる、ひんやりと張りつめた気配。外からは風の音も、人のざわめきも聞こえない。ただ、静寂。
意を決してゆっくりと視線を上げたマリィの瞳に映ったのは――
霧と雲を突き破るようにして聳える黒鉄の砦だった。
城は、巨大な岩山の上に築かれていた。
頂に建てられたその構造は、まるで要塞そのもの。高台を螺旋状に囲むように城郭が重なり、いくつもの尖塔が無数の槍のように天へ突き刺さっている。
壁面は黒曜石と鋼鉄の中間のような鈍色で、まるで過去の戦火を焼きつけたかのような焦げ跡や傷痕がそのまま残されている。
飾り気は一切なく、ただ機能美と威圧感が支配する城――それが魔界・西ファングレイヴ国の王城だった。
左右に立つのは石の巨像。片方は咆哮する狼、もう片方は翼を広げた獣人。
巨像の間に構えられたのは、高さ二十メートルを優に超える重厚な二重扉。
扉には狼の紋章が刻まれ、門番と思しき皮の鎧の獣人兵達が黙して立っていた。
扉の内側から漏れる光は、神秘的な淡い輝きを放っている。
「……これが……魔界大陸の…西ファングレイヴ王国……」
マリィは思わず息を飲んだ。
それは恐ろしいはずの場所なのに、どこか引き込まれるような、凛とした美しさを湛えていた。