第二十六話 覚悟ある者達
ルミナフローラ王国――
淡い朝靄の漂う中庭で、カトレア妃は旅装に身を包み、馬車の前に立つ。
胸元には、マリィから贈られた繊細なブローチがきらめいている。その小さな光に指先で触れるたび、娘の温もりが胸に蘇る気がした。
「お母様、はやく帰ってきてね」
リリー姫は瞳を潤ませ、母の手を強く握り、身体を寄せる。
「大丈夫よ、リリー。あなたも父上を支えてね」
額を寄せて微笑みながら言い聞かせるが、心の奥底に芽生える不安は拭えない。
ロアン王は黙ってカトレアを見つめ、言葉少なに「必ず気を付けるのだよ」と告げる。その声の重みは、父として、夫としての安全を願う祈りでもある。
こうして多くの信頼ある騎士や女官たちに囲まれながら、カトレアを乗せた馬車はゆっくりと城門を出発した。
「行ってまいります……」
馬車の窓から流れる景色は、最初は見慣れた王都の街並みだった。だが豊かな草原や森が次々と現れ、やがて異国へ続く街道の広がりへと変わっていく。
外の風景は穏やかで、道行きに危うさは感じられない。護衛の列も規律正しく、騎士たちの鎧が朝日に鈍く光っていた。
――カトレアの胸に潜む不安は晴れない。
(……魔界に嫁いだマリィのことを、聞き出すつもりなのかしら)
バルメギア帝国――力と権威を誇る大国。
その王妃殿下は政治への興味は薄く、娯楽の話題ばかりを好む婦人だ。
(ならば、深い詮索などはないかもしれない……)
そう思おうとするが、気が重いのは変わらない。娘の行く末を案じる母としての心と、一国の妃としての立場――その二つが重くのしかかる。
やがて日が傾きはじめたころ、馬車の外に広がる景色は変わった。高い城壁と賑やかな街並み――バルメギア帝国の城下町に到着したのだ。
(ルミナフローラとは何もかも違う……)
石畳の道には商人や旅人が行き交い、露店からは香辛料や酒の匂いが漂ってくる。
石造りの建物が軒を連ねるその先に、ひときわ目を引く壮麗な宮殿が姿を現した。
その輝きが今はたまらなく怖い――。
バルメギア帝国の王宮──。
重々しく正門が開かれると、待ち構えていたのはずらりと並んだ帝国の騎士や兵士たちだった。
規律正しく整列したその姿は壮麗というよりも、威圧的。馬車を取り囲むように視線が注がれると、カトレアの背筋にひやりと冷たい汗がにじむ。
「王妃殿下、どうぞ」
ルミナフローラから随行した女官が手を差し伸べ、カトレアはゆるやかに馬車を降りた。
「ようこそおいで下さいました、カトレア王妃殿下。……歓迎申し上げます。エヴァローズ妃殿下がお待ちでございますゆえ、ご案内致します」
黒衣の使者の、恭しい言葉に似つかわしくないのは、その無機質な瞳だった。感情の色を宿さぬ冷ややかさに、歓迎の響きはまるで皮肉のようでさえある。
カトレアは胸の奥にざらついた不安を覚えながらも、王妃としての矜持を崩さずに微笑む。
「ご歓迎、ありがとうございます」
周囲ではルミナフローラの騎士や女官たちが一斉に警戒の態勢を取っている。カトレアを守るように自然と身を寄せ合う。
やがて客間へと通され、金の装飾が施された調度品に囲まれながら、カトレアは居心地悪そうに腰を下ろす。
(もしや……マリィと第四皇子との縁談が白紙になったことで、今度はリリー姫へ矛先が向くのかも……)
嫌な考えが浮かんでは消えるを繰り返す。カトレアの不安が表情に滲んだのを察し、付き従う女官たちが心配げに視線を寄せる。
「失礼致します」
その時、静かに扉が開き、姿を現したのはバルメギアの女官だった。カトレアはすぐに微笑みを取り戻し、品よく応じる。
「はい……」
「カトレア王妃殿下。お茶会のご準備が整いました。庭園までご案内致します」
促され、カトレアは立ち上がると、護衛騎士と女官たちも当然のように寄り添い、歩みを共にしようとした。
だがその瞬間、バルメギアの女官はにこやかに首を横に振った。
「大変申し訳ございません……。お付の方々はお控えくださいませ。カトレア王妃殿下お一人でお越しください、との仰せでございます」
「……え……」
空気が凍りついた。
カトレアの顔色が変わり、見えない鎖が音もなく落ちてきたかのような、重苦しい気配が部屋を覆った。
ルミナフローラの女官たちと護衛騎士たちの表情が険しく変わり、室内に緊張が走る。
護衛隊長が一歩前へと踏み出し、低く響く声を放った。
「失礼ながら、そのようなご無体は承服できませぬ。王妃殿下を一人で向かわせるなど、あり得ぬこと」
その声音には職務への誇りと、主君を守らねばならぬという強い覚悟が滲んでいた。女官もすぐさま切実な言葉を重ねる。
「ご厚意はありがたいですが、王妃殿下には常にお付きが控えるのが礼法にございます。何卒……何卒ご理解を…!」
しかし、バルメギアの女官は一歩も退かない。その口元の笑みは、まるで仮面のように微動だにせぬものだった。
「どうかご安心を。……これはエヴァローズ王妃殿下直々のご命にございます。
久方ぶりの再会、心置きなく交流をはかりたいと仰せで。どうぞ、ご厚情とお受け取りくださいませ」
柔らかな声音に潜む、譲る気配の欠片もない圧力。にこやかな表情でありながら、その裏に冷たい壁があるようで、場の空気はいっそう張り詰めていった。
なおも抗議の声を上げようとする護衛たち――その動きを、ひときわ澄んだ声が遮る。
「大丈夫です」
毅然とした響きでカトレアが、凛と背筋を伸ばしたまま一同を見渡している。
「私が行かねば、ルミナフローラの顔に泥を塗ることになるでしょう。案じてくれる気持ちは嬉しいけれど……ここは私に任せてください」
その微笑の奥に、震えるような覚悟が見えた。
女官たちの喉が詰まり、護衛たちの拳がわずかに震えたが、彼らは従うほかない。
「……王妃殿下。仰せのままに」
押し殺した声で答え、苦渋に顔を曇らせながら、彼らは一斉に頭を垂れる。
(マリィ……あなたがくれた勇気を胸に、私は歩んでいきますわ)
王妃の威厳を纏いながら、彼女は微笑みを絶やさずバルメギアの女官に歩み寄る。
その姿は、母であると同時に、一国の王妃としての誇りそのものだった。
※※※
ーー魔界大陸
西ファングレイヴ王国・辺境伯領にある小高い丘。そこは「黙祷の丘」と呼ばれ、魔界でも特別な意味を持つ土地であった。
人魔大戦の激戦地であり、そし非人道的事件――「肉の壁事件」の舞台である。だからこそ慰霊碑はただの石ではなく、怨嗟と悲嘆の記憶を刻み込んだ象徴。
今まさに二つの影が並んでいた。
(ついにこの場所が……)
喪の花束を胸に抱く王妃マリィ。そして彼女の隣には夫であり王たるオルクが立つ。二人の背後には騎士団や将校たちが列を成し、整然と佇んでいた。
(私、手が震えてるわ……止まらない)
丘の裾野には、多くの民衆が集まっていた。彼らの視線は慰霊碑に祈るためというよりも、そこに立つ「元・人間」の王妃を注視していた。
マリィが参拝を望んだと聞いたときから、誰もが動揺を隠せなかったのだ。
「……あの王妃は、元は人間だろう」
「人間が祈るだと? どの口で……」
囁きはやがてざわめきに変わり、押し殺した怨嗟の視線と声はマリィの胸を刺す。それでも彼女の瞳は揺るがなかった。
「……マリィ」
心配するオルクの声にマリィは彼の眼差しを受け止め、静かに頷いた。
そして彼女は震える手を隠しながら慰霊碑へと歩み寄り、花束を手向けて跪く。
その時だった。
「――ワシの弟の妻は、人間の軍に捕まったのだ!」
鋭い叫びが群衆を裂く。声の主は一人の老人。痩せこけた体に老いの皺を刻みながらも、その瞳は烈火のように燃えている。
「弟は、罠と知りながら突っ込んだ!助け出すためにな! 」
騎士が慌てて老人を押さえ込もうとする。しかし老人はなおも抗うように声を張り上げる。
「無駄死にだらけだ!人間のせいで!人間こそが悪じゃあないか!あんな奴ら……滅びてしまえばいい!人間なんかに、なにが――!」
声は嗚咽に変わり、押さえ込む騎士に民衆が震えたが、マリィが立ち上がる。
彼女は静かに片手を上げ、護衛のセーラたちへ「手を出さないで」と示す。
驚く一同の前で、マリィは自ら老人のもとへ歩み寄る。
「……離してあげてください」
その一言に、騎士はためらいながらも老人を解放した。拘束されるとばかり思っていた老人は、目の前に現れた王妃に言葉を失う。
「……たしかに私は人間として生まれました。それは今でも変わらない事実です。
だからこそ、その歴史を正しく伝える義務があるのです。悲しみも、怒りも、決して風化させはしません。」
群衆は息を呑んだ。
すすり泣きがあちこちから漏れ始め、マリィも胸を締め付けられるほどの苦しさをおぼえる。
「私は人間であり、魔族です。だからこそできる役割があると信じています。
この国の王妃として、一日でも早く戦を終わらせるために――全てを尽くします。」
嘘偽り無い、マリィの心の声。
オルクがマリィの肩にそっと手を置く。
「俺は、人間を排除するだけでは真の平和は訪れぬと考えている。攻撃すれば攻撃が返り、憎しみは深まるばかりだ。
二度と惨劇を繰り返さないためには……マリィのような橋渡しが必要なんだ。」
力強くも優しい声に、老人は崩れるように膝をつき、嗚咽した。
オルクとマリィは静かで、穏やかな、しかし哀しさが滲む瞳で老人を見つめる。
従者が老人を介抱したことを確認すると、そして再び慰霊碑の前で静かに祈りを捧げる。白き衣を風に揺らし、背筋を伸ばす二人の姿。
丘の空気は少しずつ静けさを取り戻す。先ほどまで罵声を投げつけていた民衆も、もはや言葉を発することはなく、ただ沈痛な面持ちで二人を見送っていた。
悲しみは癒えぬまま、けれど怒りの炎は鎮まり、代わりに深い余韻が辺りを満たす。
(これが正解なのか、わからない。けど、私が出来ることは――)
しばらくしてオルクとマリィは、移動車へと乗り込む。重厚な車体がきしみを上げ、やがて丘を下りてゆく。遠ざかる慰霊碑は、いつまでも背中に視線を投げかけてくるかのようだった。
草原を吹き抜ける風が、車輪に追われるようにざわざわと草を揺らす。その風の音の中で、マリィは小さく息を吐き、隣のオルクに囁いた。
「……オルク、ありがとう。参拝する予定は本来なかったのに、私の我儘を受け入れて場を整えてくれて……」
オルクはただその言葉を噛みしめるように黙っていた。やがて、そっと震えるマリィの手を握りしめる。彼の手は厚く温かく、ただ彼女を支える強さそのもの。
「お前の覚悟に応えただけだ。……俺は、逃げずに向き合ってくれたお前を、誇りに思う。」
その声音には深い安堵と喜びが混じる。マリィは小さく頷きながら、その瞳にひとつだけ溢れた涙を拭う。
「うん……でも、これで終わりじゃないわ。私はこの国の王妃として、一生向き合っていきたい。……だから、逃げない」
その言葉は小さな体からあふれる決意の炎。彼女はそっとオルクの肩に頭を預ける。オルクはその身を受け止めながら、大きな掌で優しく撫でた。
「ああ……俺も同じだ。お前が立ち続けるなら、俺はその盾になる。何度でも守ってみせる」
マリィは目を閉じ、穏やかな吐息をもらす。二人の眼差しが重なったとき、その奥には、静かで揺るがぬ覚悟の灯火が燃えている。
移動車は黙祷の丘を遠ざかり、二人を乗せたまま、風の中を進み続けた。




