第二十二話 約束と手紙
(ついにマリィが…王妃として、俺の隣に座る日が来た…!)
玉座の間の扉が重々しく開かれた。
金色装飾と黒曜石を基調とした壮麗な広間。その奥に据えられた王の玉座の隣には、今まで長らく空席だった“王妃の椅子”が控えている。
――マリィは既にいた。
西ファングレイヴ王国の王宮仕立て職人が総力をあげて誂えた新調のドレス。
濃紺を基調に銀糸で繊細な刺繍を施し、裾に流れるような文様が描かれる。胸元は優雅に開きつつも、露わすぎない気品を保っていた。
彼女のアーモンド型の瞳と柔らかな頬を引き立て、まるでこの国の空気そのものに溶け込んでいるかのように見える。
オルクが入室すると、マリィは裾を捧げ持って恭しく跪いた。
「オルク陛下、私は誠心誠意この国を…陛下を支える所存にございます」
真摯に務めようとする健気さは、どんな熟練の淑女にも勝る輝きを放っていた。
「…おう!」
オルクは一瞬、肩を揺らした。普段の公務で見せる険しい表情とはまるで違い、隠しきれぬほどの笑みが口角に浮かんでいる。
背後に控える従者たちが「……今日の陛下、やけにご機嫌だぞ」と囁き合うほどだった。
「マリィ、ここからは俺の隣に座るんだ」
「はい」
促され、マリィは王妃の椅子へと歩みを進めた。玉座に並ぶ――その事実が胸を熱くし、同時に背筋を固くさせる。
彼女の指先はほんのわずかに震え、深呼吸をしても鼓動の速さは収まらない。
椅子に腰を下ろすと、王妃の座は想像よりも大きく、そして重みを持って彼女を包み込んだ。今まで「姫」としての座にしか座ったことのない少女が、いま「王妃」として国の民と向き合う――その一歩を踏み出した瞬間だった。
オルクは横目で何度もその姿を確かめると、心底嬉しそうに牙を覗かせる。
「…似合ってる、どっからどう見ても王妃だな」
小声で囁かれ、マリィは思わず頬を染めた。
しかし、その甘い空気を寸断するように――背後から凛とした声が響く。
「マリィ様、口角を……そう、もう少し柔らかく。手は膝上に置く角度まで意識なさって」
女官長ヘレナだ。玉座の間の片隅で、鶏獣人であるが鋭い鷹のような目を光らせ、マリィの所作ひとつひとつを見逃さない。彼女に睨まれた女官たちも背筋をぴんと伸ばす。
「大丈夫だマリィ、何かあったら絶対に俺がフォローする!」
「はい!とても心強いです」
まもなく、扉の外から太鼓の音が鳴り響いた。領内の貴族たちが、次々と祝いの言葉と贈り物を携え、王と王妃の前へと進み出ようとしていた――。
最初の貴族が進み出ると、オルクは軽く頷き、マリィも口角を少し上げる。ヘレナ女官長が微妙な角度まで指導したその笑みは、格式を損なわず柔らかさを添えていた。
最初の祝辞は、領内の老公爵からだった。
「西ファングレイヴ王国の未来を担うお二方に、この度は心よりお祝い申し上げます。どうぞ今後とも国の発展と平穏をお導きください」
公爵はそう言うと、細工が施された装飾箱をマリィに手渡す。中には王国特産の宝飾品が収められていた。マリィは微笑み、低く一礼して受け取り、言葉を添える。
「この度は誠にありがとうございます。心より御礼申し上げます」
続く貴族たちも、次々と祝辞と贈り物を手にやってくる。妖蝶絹の衣や香料、宝石細工の品々、豪華な魔晄を含んだ花束を模した水晶など。
マリィは一つ一つ丁寧に受け取り、軽く一礼しながら短く感謝の言葉を添える。オルクは隣で、初々しい彼女の所作を目に焼き付けるように見守る。
(良かったわ、噛まずに言えた…)
やがて、貴族たちの列が途切れると、ヘレナ女官長が息をつき、目を細めてマリィを見た。
「…素晴らしいですわ、マリィ様。初めてにしては、堂々たる対応ですわ」
「ヘレナ殿…ありがとうございます。どうにかやり切りました」
玉座の間の大広間には、祝いの品々が並び、初めて王妃として振る舞ったマリィの存在が、部屋全体を柔らかな光で包むようだった。
「最高だったぜ!完璧な王妃だった」
「オルク様が隣にいて、ヘレナ殿はじめ女官や従者の方々が居てくれたから安心できたのですわ」
「マリィ…」
オルクは頷いて微笑むマリィと見つめ合った。まるで労うように。
この日、王妃としての第一歩を踏み出したマリィと、それを見守るオルクの心は、互いに確かに繋がっていた――そしてその背後で、国の未来を左右する新たな緊張の糸が、ゆるやかに張られ始めていた。
謁見が一通り終わると、外務大臣レオナスが重々しく入室した。
「失礼いたします、陛下」
「ああ、どうした」
のしのしと重量感ある歩みで進み出ると、オルクとマリィの前に跪き、顔を上げる。
「婚礼式についてでございますが……。
マリィ王女殿下のご両親…ルミナフローラ王国のロアン陛下とカトレア妃、さらに妹君のリリー王女、そして姉君であられるフーヴァルヘイツ王国のセラフィア妃のご出席は……難しいかと存じます」
その言葉に、オルクとマリィの表情にかすかな陰が落ちる。マリィは小さく俯き、唇を噛んだ。
「……致し方ありません。人間と魔族はいまだ対立関係の最中……。手紙一つ交わすだけでも厳しい目が向けられるのですから」
レオナスは頷き、しかし声を弾ませて続けた。
「ただし――ネーベル王国へ嫁がれたマリィ様のもう一人の姉君、ヴィオラ王妃ならばご参列いただける見込みでございます」
レオナスがにっこりと笑みを浮かべると、マリィの瞳は大きく見開かれ、喜びを隠しきれなかった。
「まあ……! ヴィオラお姉様が……!」
「ネーベル王国か。あのルミナフローラから遠く離れた島国だな。完全中立を貫いて、対魔族同盟にも未加入……だから来れるのか」
オルクは納得したように顎を引いた。
その国は数十年来ルミナフローラと親交を結び、山々と霧に覆われた風土の、独自の文化を持つ島国である。
やがてオルクは、ふと何かを思いついたように立ち上がった。
「そうだ……! なあ、ヴィオラ王妃を通じて、マリィのご両親に手紙を送るのはどうだ? 確かに式には来られねえけどよ、直筆の言葉なら、きっと喜ばれるんじゃねえか」
「なるほど……ヴィオラ王妃のお力添えがあれば十分可能です。すぐに打診いたしましょう」
レオナスの言葉に、マリィは喜びのあまり手先が小さく震えた。
祖国を発つときは、今生の別れを覚悟していた。それがこうして、再び家族とやり取りできる日が来るとは――胸が熱くなるのを禁じ得なかった。
「……いいのでしょうか、こんな……。
本当に感謝いたします。とても……嬉しい……」
「マリィ、俺も書くぜ! あんまり上手ぇ文は書けねえけどよ」
言いながらオルクは席を立ち、マリィの隣まで歩み寄った。そして彼女と目線を合わせるように片膝をつく。
マリィは慌てて席を立とうとしたが、オルクの大きな手が彼女の手を包み、優しく制した。
「オルク様……」
「今は家族に会えなくて寂しい思いをさせちまってる。だけどな、俺が必ず……必ずいつか、マリィを家族に会わせてやる」
真摯な声に、マリィは胸がいっぱいになった。泣きそうになるのをこらえ、目を閉じた時、ふとサンルームを贈られた日の言葉がよみがえる。
――『嬉しかったら、『笑う』んだぜ?』
マリィは涙の代わりに、心からの笑みを浮かべて答えた。
「……はい」
そして小さな手で、オルクの手をぎゅっと握り返した。
※※※
そして、しばらくしてルミナフローラ王国ではーーー。
王族のプライベートルームである居間で王ロアンとカトレア王妃、そしてリリー姫がネーベル王国のヴィオラ王妃から贈られた寄木箱を開けようとしていた。
「お父様、この木箱ってヴィオラお姉様の国のものでしょう?何が入っているのかなぁ」
「ああ…なんだろうね。遠く離れていてもこうして贈られてくれるだけで安心するものだな…」
「……」
ロアンとカトレアが思い浮かべるのは魔族に手渡してしまったマリィのことだった。もしあの時、断固として引き渡しを拒否していれば…という後悔の念がずっと離れない。
2人の耳には既に『マリィが生きていて魔族の王と結婚する』という話も聞こえてきたが、そんなの数多ある噂の一つに過ぎないと思い信じてはいなかった。
本当は今すぐにでも魔界大陸のファングレイヴ王国に確認の書状を渡したいところではあるが、人間大陸の対魔族同盟に加入してる国としてそれは禁忌である。
(せめて…生きている事だけでもわかれば)
ロアンが寄木箱の蓋を開けるとメッセージカードが落ちた。
『親愛なる私の家族へ…
私がルミナフローラに帰省した際は立役者として褒めて頂けたら幸いです。
ヴィオラ・エラ・ネーベル』
含みを持たせた次女のメッセージに小首を傾げるが、その箱の中には更に細工箱がある。蓋を開けてみると、とても大きなブルーサファイア、それを縁取る花と鳳凰の飾りにはダイヤモンドと光の角度によって色が変わる魔界独自の鉱石が煌めいていた。
「わぁ!見てお母様、すごい!」
「なんと…見事なブローチだろう」
「あなた…お手紙が」
その手紙には封蝋が押されており、狼の紋章が刻印されていた。カトレア妃が手紙を開けてみる。
『愛するお父様、お母様へ
心優しき私の家族…どうか私のことを案じておられることでしょう。けれどご安心くださいませ。私はファングレイヴ王国において丁重にもてなしを受け、健やかに日々を過ごしております。
国王オルク・ファングレイヴ陛下は、勇敢にして誠実なお方です。お父様のように常に民を想う優しさを備えておられます。魔族は決して蛮族ではありません。それを私は胸を張って申し上げます。
ただ想うだけでは世は変わりません。長きにわたる対立もまた、その通りでしょう。私は陛下の王妃として、和平の架け橋となりたいと願っております。
いつの日か、その架け橋を渡り、再びルミナフローラの地を踏める日が来ることを夢見ながら――。
どうかお二人もお健やかであられますよう。私の心は常に家族と共にあります。
マリィ・ファングレイヴ』
カトレア妃の目から大粒の涙が溢れ歓喜の声が震える。
「ああ!あなた!あの娘が生きていますわ!」
「間違いない!マリィの字だ」
「マリィ姉様?!私にも見せて!見せて」
リリーが覗き込む。
ふとマリィの手紙にもう一枚の手紙があることに気付いた。
「これは…」
『拝啓
ルミナフローラ王国ロアン陛下、カトレア妃殿下
マリィ殿をこのたび私の妻として迎えます。
遠い国より大切なお嬢さまを託してくださったこと、心より感謝いたします。
私は必ずや彼女を守り、共に歩んでまいります。どうかご安心くださいますよう。
婚礼式にはお越しいただけぬと伺っておりますが、マリィ殿と共にお二人を想い、心を尽くして式に臨みます。
敬具
西ファングレイヴ王国国王
オルク・ファングレイヴ』
「……マリィが……」
カトレアは涙を拭いた。
「無事で……しかも、自らの意志で、未来を選んでいるのね」
国王ロアンは、しっかりとした筆跡を指でなぞり、深く目を閉じる。
「…あの子は恨むどころか、このように気丈な言葉を寄越してくれる」
声がかすれ、カトレアは夫の手を静かに握る。
「マリィは強い子ですわ。きっと、あの地で……幸せを見つけるのでしょう」
「ファングレイヴ王国も本当に大切にしてくれているのだな…」
オルクの手紙からも文字と文章から滲む誠実さに二人は胸の奥の、希望の灯がともるのを感じていた。
娘が生きている。愛され、大切にされている。その事実だけが、何よりの救いだった。
王妃は小さく微笑む。
「……ロアン、祈りましょう。あの子の歩む道が、幸いでありますように」
「……ああ。いつの日か、また会えることを信じて」
ロアンとカトレアが寄り添う横で、リリーは嬉しそうに体を揺らしながら大好きな姉の手紙を何度も読み返していた。




