第二十一話 新たな兆し
マリィの部屋の扉が、静かな音を立てて閉じていく。オルクはその場に立ち尽くしたまま、しばし動けなかった。
胸の奥にじんわりと広がる温もり。
それは戦場で勝利を手にしたときの高揚とも、王座に就いたときの重責とも違う。
もっと素朴で、もっと切実で――ただ一人の女性と心を重ねられたという、奇跡のような幸福だった。
「ッ…はぁぁ」
深く息を吐く。肩がかすかに震える。
――幸せだ。言葉にできぬほど、ただ幸せだ。
一歩、扉から離れた、その瞬間、カッ!と瞳が開かれる。全身を駆け巡る衝動が、もはや抑えきれなかった。
次の刹那。
ドドドドドッ――!
廊下を揺らす轟音とともに、オルクの巨躯が突進した。
「へ、陛下!?」
「ひぃっ、うわあっ!」
巡回していた夜警の兵士が驚愕に目を見開く。あまりの勢いに、一人は慌てて壁際へ飛び退き、もう一人は腰を抜かして尻もちをついた。
だがオルクは一瞥すらしない。振り返らず、ただ前だけを見据えて走る。
大きな尻尾が左右にぶんぶんと激しく揺れ、廊下の空気を切り裂いていた。
――それはまるで、昂ぶった心を隠しきれぬ証そのもののように。
そして…談話室の前に辿り着くや、減速など一切なく両腕で分厚い扉を押し開ける。
――バァンッ!!
木製の扉が壁に叩きつけられ、重い音が響き渡った。談話室には、夜更けにもかかわらずまだ数人の家臣たちが残っていた。
宰相オルフェールは外務大臣レオナスのゴブレットにワインを注いでやろうと羽を伸ばしており、参謀エルネストと内務大臣ヨハネスは揚げた芋を片手に「ワハハ!」と笑っていた。
その陽気な空気を、突然の足音が切り裂いた。
「――番!決まったぞ!!!」
勢いよく扉を開け放って入ってきたのは、当の王オルクだった。
一瞬。
部屋にいた者たちの表情も、笑い声も、手の中の芋さえも、すべてが石像のように凍りつく。数秒の沈黙――そののち。
「「「おおおおおおっ!!!!」」」
歓声が爆発した。
「陛下!ああ、なんと良き日にございましょう!」
オルフェールはバッサバサと翼を広げてオルクに抱きつき、まるで雛を包む母鳥のように王を包み込む。
「やれめでたい!これで我が国は救われましたな!」
ヨハネスは椅子を蹴飛ばしそうな勢いで立ち上がり、両腕を振り回して踊る。
「いや!私はそうなると思っておりましたとも!未来に栄光あれ!」
エルネストは飛び跳ねながら語り、揚げ芋を天に掲げて神へ捧げるようにした。
「おぅ……お前らにも世話になったぜ!」
オルクは照れくさそうに鼻をゴシゴシと擦った。
しかしその背後で、オルフェールがそっと耳打ちする。
「ホホ……陛下。本番はこれからですぞ。外交への報告、日程の確保、寺院や国民への告知……」
「う……」
畳みかけるように、レオナスがワインを傾けつつ低い声で呟く。
「国内の貴族方が祝辞のため、一気に訪問に来られますぞ……あと、ご衣装合わせもせねば」
「ぐるる……」
オルクは唸り声を漏らし、しかしすぐに顔を上げた。
「……マリィのドレスは、とびきり気合い入れてくれ!」
その言葉に一同、再び「おおおっ!」と歓声を上げ、談話室の天井が揺れるほどの熱気に包まれた。
翌朝、離れた石造りの棟に、かすかな朝の光が差し込んでいた。
まだ夢の余韻のなかでまどろんでいたマリィは、扉が静かに開く音にゆっくりと瞼を持ち上げた。
定められた時間に、側仕えたちが入室してくる。
足元のほうでは、ピコが鼻をぶふっと鳴らしながら丸くなって眠っていた。
「おはようございます、マリィ様」
一人、二人――三人と並び、さらに足音が続く。マリィは寝ぼけ眼のまま、思わず首を傾げた。
「おはようございます……あれ?」
いつもよりずいぶん多い。
そして、見慣れた顔――ミラとサフィーが最後に姿を現す。
「あ……ミラ、サフィー」
ベッドから身を起こしたマリィを前に、二人がにっこりと笑った。
その背後には、見慣れぬ5人の側仕えがずらりと並び、まるで儀式のように整然と頭を垂れる。
普段の倍にもなる光景に、マリィは思わず背筋を伸ばした。そして、重なる声。
「「「マリィ王女殿下、この度はご婚約おめでとうございます」」」
一斉に揃えられた言葉と礼に、マリィの眠気は一瞬で吹き飛ぶ。
胸の奥に昨夜の出来事――蛍草の光と、あの抱擁、そして囁かれた言葉が鮮やかに蘇り、頬が熱に染まった。
(そ、そうだったわ……私、オルク様と……婚約を……)
じんわりとこみ上げる照れと喜び。
だがその一方で、責任の重さを告げる言葉が続いた。
「マリィ様。本日より貴方様は、西ファングレイヴ王国の未来の王妃様ですにゃ」
「ですので……これから少しばかり、お忙しくなられるかと……思われますぅ」
ミラとサフィーの声音に、マリィは小さく笑みを零した。けれど心の中では、しっかりと決意を固めていた。
――これは、自分の選んだ道。
母や姉たちがそうして王の隣で国を背負ったように、自分もまた。そして何より。
あの人の隣に在りたいと願ったのは、他でもない自分自身なのだから。
「はい、よろしくお願い致します……でも、あの……ミラとサフィーは……その……」
言葉を選ぶように遠慮がちに視線を落としたマリィの様子に、ミラとサフィーはハッと顔を上げた。
「は、はいにゃ! 私とサフィーは引き続き、マリィ様ご担当ですにゃ!」
「そうでございます。ずっとお傍におりますから、ご安心くださいませ」
二人とも、どこか嬉しそうに頬を綻ばせていた。マリィはその笑みに胸の緊張を解き、ふうっと小さな吐息を洩らす。自然と頬も柔らかく緩んだ。
「……よかった。二人がいてくれて、安心しました」
三人の間に、昨日までと変わらぬ温かな空気が流れる。と、その場の空気を切り替えるように、ミラがぴんと耳を立て、張り切った声を響かせた。
「さぁマリィ様! 身支度を整えていただいている間に、お荷物を移動させて頂きますね〜!」
「移動? どこかに行くのかしら?」
首をかしげたマリィに、ミラは胸を張ってにこりと答える。
「王妃様ご専用のお部屋に移動させて頂きます! にゃ!」
その言葉に、マリィは小さく息を呑んだ。
――王妃様専用の部屋。
まだ耳慣れない響きが心にずしりと落ちる。だが不思議と、重さよりも温かさを感じていた。
「もちろんピコ様も一緒で〜す」
サフィーがそう言いながら、ベッドの端で丸くなって眠っているピコをそっと抱き上げる。
だが当のピコは、相変わらず気持ちよさそうに鼻を鳴らし、
「スピィ……」
と、幸せそうに寝息を立てたままだった。その可愛らしい寝顔に、マリィは思わず小さく吹き出してしまう。
こうして、彼女の新しい朝は、静かにけれど確実に始まろうとしていた。
今まで使用していた私室も立派なものだったが、案内された王妃の間は広さも格式も別格で調度品がきらびやかに光っていた。
「…ピコ、花瓶とか割らないように気を付けてね?」
「ぴーぴ」
ピコは普段と違う部屋の様相にキョロキョロ見回しながら床をクンクンと匂っていた。
「マリィ様、失礼致します」
凛とした声が響いて振り向くと女官長のヘレナが入室する。いや、ヘレナだけでなく10人ほどの女官がまっすぐな姿勢で控えていた
「この度のご婚約、まことにおめでとうございます。…陛下の御母上様…前王妃様が崩御されて以降、長らく主を失ったこのお部屋にマリィ様という新風が吹かれたこと、女官一同ほんに嬉しく思いますわ」
「そのお言葉、大変光栄です」
少ししんみりとした空気を割ったのはヘレナだった。
「故に!その先に控える婚礼式と戴冠式は必ず!必ずや!成功しなくてはなりません!婚礼式は魔界大陸の国々の王族、貴族が参列し、国民全土が注目するファングレイヴ王国の誇りを賭けた重大な式典!」
「は…はい」
熱の籠もったヘレナの言葉と勢いについマリィは一歩下がり、後ろに控えていたミラや側仕え達の耳は完全にペタ〜っと下がってしまった。
「マリィ様はファングレイヴ王国の顔となり国母となられるのですから、今日から励んで頂きます……キャロル」
「は!」
一歩前に出た女官は羊紙を開き読み上げる
「朝食ののちドレスの採寸、昼前に来賓への礼儀作法と振る舞いの練習、午後より寺院の祭礼参加の手順の講義、夕方まで経済と内政の講義、夕食ののち短時間の語学練習…以上の予定を控えております」
もちろんこの予定が今日だけではなく、今後も継続していくものとするらしい。
「私たちは全力でサポートさせて頂きますわ!ああ、婚礼式に携わる仕事はいつぶりでしょう!」
「ヘレナ殿…お手柔らかに」
マリィは遠慮がちにそう言った。
いつもより、はるかにテンションが高いヘレナに後ろに控えてる女官は耳打ちをする
(ヘレナ様、とても楽しそうですわ…お忙しいのに…)
(ええ、ヘレナ様はお忙しければお忙しいほど元気になられるのよ)
一方そのころ、オルクは執務室で山積みの書類と格闘していた。
普段の公務に加えて、間近に迫った婚礼式と戴冠式――王国規模の一大イベントが控えているのだ。机に並ぶ羊皮紙の山を一枚一枚確認し、領地を預かる公爵や伯爵たちから上がってきた文に苛々した面持ちで印を押す。
「チッ……次から次へと……」
そんな王の隣で、宰相オルフェールが器用に魔法でペンを操りながら、式典の進行表に目を走らせていた。
「……ン?待て待て!この国の王と、あの国の王は犬猿の仲じゃったな。席が隣り合うなど以ての外!やり直しじゃ!」
彼の声に書記官たちが慌てて羊皮紙を抱え直す。そこへ従者が音も立てずに薬草茶を差し出した。冷たい茶を受け取りながら、オルクは低く呟く。
「……悪ぃな。なぁ、オルフェ。俺に自由時間ってあるか?」
「ホホホホ!」
オルフェールは腹の底から笑い、羽根を広げてバサバサと自分を扇ぎながら答える。
「何をおっしゃいますやら陛下。この後は式典での挨拶に礼儀作法の確認、諸侯や外交使節との調整、警備の配置確認に衣装の寸法合わせ……まだまだ続きますぞ?」
「はぁ……狩猟してぇ。訓練してぇ。身体を動かしてぇ……」
低く唸る声が喉から漏れる。けれどそれ以上に――。
昨日、彼女を寝室まで送り届けてから、今日は一度も顔を合わせていない。そのことが、仕事の山以上に胸を苦しくしていた。
オルフェールはそんな王の心を見透かしたように、鼻先で笑う。
「明日からは領内の貴族方が祝辞のため続々と来城いたします。玉座の間にて、お二人が並んでのお披露目――これが正式な初の公務となりましょうな。
それに……夜なら多少のお時間は取れましょう。今は我慢、我慢!」
「……ぐるる……」
オルクは喉を鳴らし、仕方なく手を動かす。
力強い爪の先が羊皮紙にカリカリと音を立て、王の不満を表すように尻尾の先が小さく揺れていた。
そして書類仕事が一段落するとオルクは執務室を出る。肩で息を吐きながら長い廊下を早歩きした。
大股で進むその背を追いかけるように、二人の従者が慌ただしく走り寄る。
「この後はティルミド公国の使者との謁見にございますっ!」
「わぁってるよ」
「さらにレオ将軍との警備配置の確認、それから沿岸警備基地の報告書の確認です!」
「おー……りょうか」
短く返すオルクの声は低いが、歩みは止まらない。その角を曲がったときだった。
正面から数人の女官と側仕え達が姿を現し、その中心にはマリィの姿があった。
「マリィさま、お次は東訓練棟にて、式典の礼儀作法の練習ですわ〜!」
狐獣人の女官・キャロルが、舞台女優さながらのエレガントな所作で先導している。
(……個性的な方だけれど、とても親切だわ。ミラもサフィーもそばに居てくれるし、絶対に乗り越えてみせる……でも――)
マリィの胸の奥に去来するのは、ただ一人の面影だった。
(……オルク様に、お会いしたい)
そう思った矢先、キャロルたちが素早く廊下の端に寄り、お辞儀をして道を開いた。
その先に立っていたのは――。
「あ! マリィ!」
「オルクさま……!」
視線が絡んだ瞬間、マリィは慌てて女官たちと同じように身を屈めた。
顔を上げれば、彼の優しい眼差しが真っ直ぐに自分を射抜いている。
「……オルク様、おはようございます」
「ああ……おはよ。マリィは慣れないことばっかで大変だろ?身体はしんどくないか?気を付けろよ」
「はい……オルクさまも」
言葉は短くても十分だった。互いに目を合わせただけで、胸の内が熱くなる。
その甘酸っぱく眩しい空気に、周囲の側仕えや女官たちは思わず目を細め、手で光を遮った。
――だが、次の瞬間。
音もなく二人の間に割って入る影がある。
「お時間にござりまするーーー!」
キャロルであった。
「運命の番を分かつのは魔界三大悲劇のヒューゴとクララのようで心苦しいですが、これも国を背負う式典のため!私は心をオーガ族のように厳しくさせて頂きますわ!王国への忠義と思い、ご容赦くだされ!」
その迫力にオルクは小さく頭を振り、勘弁してくれといわんばかりの表情を浮かべる。
「わかった…わかった!マリィ、またな」
「はい……また!」
名残惜しさを滲ませつつも、ふたりはそれぞれの道を進む。
けれど――その「また」が、こんなにも待ち遠しく、力になるのだと感じたのは、生涯で初めてのことだった。
※※※
『ルミナフローラ第三王女マリィが、西ファングレイヴ王国のオルク王と婚約』
その報せは、煌びやかな金細工に囲まれたバルメギア帝国の玉座の間に、重苦しい雷鳴のような衝撃を走らせた。
「……なんだと?」
長く垂れた白髪と髭を蓄えた皇帝ザルガドが、低く、しかし怒気を孕んだ声を漏らした。次の瞬間、玉座の間に響いたのは、怒号だった。
「馬鹿な……生贄ではなかったのか!?」
ざわめく重臣たち。誰もが息を呑み、互いの顔を見合わせる。
ザルガド皇帝は玉座を蹴るようにして立ち上がると、声を張り上げた。
「ふざけおって!魔族が人間を王妃にするなど聞いたこともない!あの化け物どもが人の姫を大事に扱うものか!奴らは人間を喰らう存在ぞ!」
「し、しかし陛下……以前ファングレイヴから届いた文書には、確かに“王妃として迎える”旨が記されて……」
「黙れ!」
皇帝の一喝に、声を上げた大臣は肩をすくめて口をつぐむ。
だが――その場にいる誰もが心の底で気づいていた。
自分たちが勝手に「生贄」と思い込み、都合よく解釈して姫を差し出しただけだと。
だが皇帝は、その誤りを決して認めはしない。
「面子が潰れた……!“人間の姫を魔族の王妃にした”などと!我が帝国は笑い者だ!長年、対魔族の旗頭として強硬姿勢を貫いてきたというのに……!」
声は荒れ、怒りに燃える双眸がぎらりと光る。
重臣たちは互いに顔を見合わせ、重苦しい沈黙に包まれた。
やがて、ひとりの老臣がかすれた声で呟く。
「……陛下。この屈辱……必ず取り返さねばなりますまいな」
その言葉に、皇帝ザルガドの目が怒りと憎悪でさらに燃え上がった。
「然り……! 奴ら蛮族に、恥をかかされたままでは済まぬ!」
玉座の間の空気は、さらに重く淀んでいった。
誰もが知っている――この怒りは、必ず次なる災いを呼ぶ、と。
同じ宮殿の、装飾も控えめな廊下。
そこを、ひとりの若い男が退屈そうに歩いていた。第四皇子ロドリオ。緩やかに巻いた金髪を手で弄びながら、従者を一人従えている。
「なぁ、おい。知ってるか? あの魔族に渡したマリィ姫、実は俺の婚約者だったんだぜ?」
「は、はい……存じております」
従者が苦笑いを浮かべると、ロドリオはその答えを待たずに唇を歪め、にやりと笑った。
「最後に会ったのはガキの頃だ。周りから“優秀な淑女”だの何だのって持て囃されて、生意気だったんだ。だから俺がどうしたと思う?」
「……」
従者は曖昧に笑い、心中でため息をついた。
「水をぶっかけてやった!小賢しい女って、鬱陶しいからな!」
笑いながら胸を張るロドリオに、従者は慌てて口を合わせる。
「まことに……! 皇子陛下は勇敢であられます」
だが内心では辟易していた。
ロドリオという男は、皇子という地位こそあるが、少年の頃から品性も知性も欠け、成長らしい成長を一度も見せなかった。
唯一の変化といえば、肥満体型から“ただの中肉中背”へと変わったことくらいである。
「退屈だ…。地下娼館に行くから、馬車を回せ!」
「は!」
従者は深々と頭を下げる。
――そして心の中で、この日十度目となるため息を落とした。




