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魔界王妃ノ浪漫譚  作者: 竜ヶ崎
第一章
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第二十話 あなたと共に


城門の前は、すでに帰還を待つ人々で静かな熱気に包まれていた。

騎獣ドルドの群れが地を踏みしめる重い音が、遠くから次第に近づいてくる。

やがて土煙をまとって現れた隊列の先頭に、漆黒の外套を翻すオルクの姿があった。

マリィは胸の奥が熱を帯びるのを感じながら、一歩前へ。

少し煤けた彼の顔に目を奪われたまま、ゆっくりと裾を摘み、深くお辞儀する。


「……おかえりなさいませ、陛下」


その声音はいつもどおり澄んでいたが、瞳の奥に宿る潤みが隠しきれない。

オルクはそれに気付いた瞬間、まるで心臓を掴まれたかのように動きを止めた。

あまりの愛らしさに、返す言葉が一瞬、どこかへ消えてしまったのだ。


「……お、おう」


我に返った声は、やや掠れていた。


その時だった。

ピコが甲高い声を上げ、オルクの背後に向けて突進してきた。


「ぴーぴひ!」 


「ぅお!?」


――ドンッ。

不意を突かれた衝撃で、オルクの身体が前のめりに傾く。

ほんの刹那、彼の腕の中にマリィの華奢な肩が飛び込み、柔らかな髪が頬に触れそうになる。


抱き締める。

その衝動に従えば、どれほど楽だろう――

だが、寸前で理性が鋭く制した。


オルクはぐっと踏みとどまり、頬を赤らめながら声を張った。


「た、ただいま!」


驚きに目を丸くしたマリィと、狼狽した彼の姿。そして遊んでと伝えるようにオルクの足元を前脚でカリカリと引っ掻くピコ。

その甘酸っぱい光景に、傍らの家臣や兵士たちは思わず口元を綻ばせる。


「……ふふ」


小さな笑い声がいくつも漏れた、その時。


「持ち場に戻りなさい!さっさと!」


羽を大きく広げ、鋭い声音で女官長ヘレナが一喝した。バサバサと羽音が響くと同時に、兵たちは慌てて姿勢を正し、緩んだ空気は一気に引き締まる。

だがその場に残った、互いに視線を逸らし合う二人の間だけは――

まだ淡く、熱を帯びていた。


夕餉の席が終わり、控えていた側仕えたちが食器を片づけていく。広間に残るのは、まだ漂う温かなスープの香りと、淡く揺れる燭台の灯りだけ。

 マリィは膝の上で指を組み、胸の奥で波打つ鼓動を必死に抑えようとしていた。けれど、どうしても落ち着かない。唇をきゅっと結び、深呼吸をひとつ。


「オルク様……」


 声をかけると、豪胆な王はゆっくりと振り返った。金の瞳が静かに射抜いてくるのを前に、マリィは視線を落としながら続ける。


「……少し、お時間をいただけますか?」


 一瞬、場の空気が止まった。

 オルクの瞳がわずかに大きく見開かれ、次の瞬間、彼は言葉を探すように喉を震わせる。


「……お、おう。もちろんだ」


 それはいつもの豪胆さとは違う、どこか戸惑いを含んだ返事。

 マリィからの“初めての誘い”――その事実が、彼の胸を強く打ったのだ。


 背後で控えていたミラとサフィーは、その様子を見逃さなかった。

 顔を見合わせ、口元を押さえて小さく笑みを漏らす。


「(絶対に邪魔しちゃだめだよ!)」


 「(わかってるにゃあ!)」


 周囲の側仕えたちにも小声で念を押し、彼女たちは一気に浮き立つような空気を共有していた。


 やがて二人は、月明かりが差し込む回廊を並んで歩く。

 静かな靴音が石畳にこだまし、夜の冷たい風がマリィの髪を揺らす。オルクは横顔を盗み見ることもできず、ただ胸の奥で高鳴る鼓動を必死に押さえていた。


 ――どうしたんだ俺は。マリィに誘われただけだろ…。


 やがて、サンルームの前に辿り着いた。扉の前で立ち止まったマリィは、振り返り、恥じらうように目を伏せる。



「……オルク様。目を、閉じてください」



 その言葉に、オルクの心臓が一際大きく跳ねた。

 脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。――彼女を驚かせようと、目を閉じさせてサンルームを贈ったとき。驚き、そして花のように笑ったマリィの表情。


「……わかった」


 低く答え、オルクはゆっくりと目を閉じる。次の瞬間、彼の大きな手に、そっと小さな手が重ねられた。


 「失礼いたします……」


 控えめな声とともに、マリィがその手を導く。


 柔らかくも確かな温もり。

 オルクは顔を伏せ、見えないはずの胸の内を隠すかのように、唇を固く結んだ。

 ――彼女が何を見せてくれるのか。何を伝えたいのか。

 期待と緊張が渦を巻き、胸がざわめいて仕方がなかった。


「……目を、開けてください」


 マリィの小さな声に促され、オルクはゆっくりと瞼を上げた。


 視界に広がったのは、闇ではなかった。

 灯り一つともっていないはずのサンルームの中が、柔らかな光で満ちていた。

 天井まで伸びた蔦の葉に、小さな星屑のような光が点々と瞬いている。

 蛍草――淡い青と緑を帯びたその光が、幻想的な揺らめきを描きながら、部屋全体を優しく照らしていた。


 昼間とはまるで違う、夢の中の庭園。

 オルクは思わず息をのむ。


「……すげぇ…綺麗だな…」


 知らずにこぼれた言葉は、彼の胸に湧き上がる感動そのものだった。

 振り返れば、マリィがそこに立っていた。 頬をわずかに染め、けれどどこか誇らしげに微笑んでいる。照れくさそうに視線を落としつつ、彼女は静かに口を開いた。


「このサンルーム……オルク様がくださった時、本当に驚きました。

 でも、驚きよりも……どれだけ救われたか、言葉では言い尽くせません」


 彼女の声は柔らかく、しかし胸の奥底から溢れ出すような真摯さを帯びていた。


「私にとってここは、心を休められる場所であり……慰めでもあります。

 そして――薬にもなるこの蛍草を、大切に育ててきました。繁殖に成功して……この時期だけ、こうして光を灯すんです。どうしても、オルク様に見ていただきたくて……」


 その想いがどれほどのものだったか、言葉ではなく彼女の震える指先が伝えていた。


 オルクはただ、その光景とマリィの横顔を見つめるしかなかった。


「……この国に来てから、私はずっと不安でした。何も分からない場所で、祖国からも離れて……。

 けれど、家臣の皆さんは優しくしてくれて、オルク様が慰めにこのサンルームをくださって……草花に触れていると、不思議と心が落ち着いて……救われていたのです」


 蛍草の光がマリィの横顔を照らし、真摯な瞳を浮かび上がらせる。


「オルク様は常に民と家臣を大切にされて、王としての責務を背負いながら……こんな私にも優しさをくださる。

 そのお姿を見て、気づけば……尊敬だけではなく、もっと深い感情を抱いていることに気づきました」


 言葉が途切れ、マリィは胸元をぎゅっと握りしめる。やがて決意したように、真っ直ぐに彼を見上げた。


「……私、魔族と人とをつなぐ橋渡しになれるのなら、国のために役立てるのなら……。

この想いは、決して偽りではありません」


 その一言に、オルクの胸が強く打たれた。

 ――これ以上、何を迷う必要がある。


 彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。


「……マリィ。

 本当はな、三年前……お前を初めて見たときから、俺の心はお前に奪われていた」


 マリィの瞳が揺れる。だがオルクは視線を逸らさず、己の想いを紡いだ。


「このまま何もしなければ、お前はバルメギアに嫁ぐことになる。それだけはどうしても耐えられなかった。

 だから俺は戦に勝ち、要求し……半ば攫うようにしてここへ連れてきた。……祖国から引き離して、本当に悪かった」


 苦渋を滲ませながらも、オルクは一歩近づく。蛍草の光がその横顔に陰影を落とし、瞳に決意を宿らせた。


「だが……お前と共に過ごし、言葉を交わし、想いを知るたびに、確信した。

 俺は一人の男として、お前を愛している。

 そしてこの国の王としても……お前に隣に立ってほしい。王妃として、この国を導き、俺と共に歩んでくれ」


 差し出された大きな手が、蛍草の光を受けて淡く輝いた。

マリィは蛍草の光に包まれながら、目に涙を浮かべ、微笑んでオルクを見上げた。


「……はい。私も…オルク様の隣に在りたいです」


オルクの大きな手にマリィの手がそっと重なった。言葉が零れた瞬間、オルクの心臓が大きく脈を打った。抑えきれず、彼はマリィを腕の中に引き寄せる。

 その抱擁は大きく力強いのに、どこまでも優しかった。まるで壊れ物を扱うように――けれど決して離さないという意志を宿して。


「……マリィ。好きだ……」


 掠れるような声が、彼女の耳元で震える。

 マリィは胸に顔を寄せ、背に回した手をぎゅっと握りしめた。


「……私も」


 淡い光に照らされながら、二人はただ静かに、互いの温もりを確かめ合った。

サンルームを後にした二人は、夜の廊下を並んで歩き出した。

 オルクの逞しい腕に、マリィの白い手がそっと触れる。彼女は一歩ずつ歩調を合わせ、控えめに寄り添う。


(……私、幸せだわ。こんなにも……とても)


 胸の内で小さな囁きが生まれる。言葉にはせずとも、互いの鼓動が甘やかに響き合い、静かな空気を満たしていた。


「……足元、気を付けろよ」


「はい…」


 たったそれだけのやり取りなのに、世界が塗り替えられたように感じられる。目が合えば頬が熱を帯び、ほんの一瞬の視線の交わりさえ、胸の奥を波立たせる。


 廊下に灯された柔らかな明かりが、二人の横顔を優しく照らしていた。どちらの頬も赤く染まり、互いの存在を確かめ合うように寄り添いながら歩みを進める。

 やがて、マリィの部屋の前に辿り着くと、自然に足が止まった。

 扉を背に、マリィはゆっくりとオルクを見上げる。瞳は潤み、名残惜しさと幸福を湛えていた。


「……おやすみなさいませ、オルク様」


「……ああ。おやすみ、マリィ」


 視線が絡み、離れようとしない。やがて、そっと扉が閉じていく。

 最後の瞬間まで、きらめく瞳がオルクの心を強く引き寄せ――そして扉の向こうに消えた瞬間、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。


 オルクは大きく息を吐き、扉から一歩離れる。振り返らずとも、自分の尻尾がぱたぱたと揺れているのを感じながら。

こんな夜がずっと続けばいい――そう願わずにはいられなかった。







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