第二話 襲う理不尽
バルコニーで飲む秋の新茶は芳醇な香りで、ルミナフローラ王国の誇る農産物の一つだ。
マリィはふぅとひと息ついてカップを置く。先ほどこの王城に来たバルメギア帝国の使者の存在が心に引っ掛かり、マリィの顔に少しばかりの陰りを落とした。
「…ずいぶんとバルメギア帝国は急に来るのね。事前に通達してもいいのに」
マリィがそう呟くと、側で控えていたエルダーは弧を描く眉を歪めて憤る。
「あの国はいつもいつも無礼が過ぎますよ!以前だってこのような事はありましたわ!
我が国はバルメギア帝国の同盟国であって属国ではありませんっ」
「そう…そうね。バルメギア帝国が失礼なのは相変わらずよね。またエネルギー制限をちらつかせて無茶な要求を通そうとしてるのかしら…」
バルメギア帝国は人間界の大陸の中でも屈指の軍事大国で、高度な魔導技術を持っている。ルミナフローラを始めとした各国に輸出し、莫大な利益を得ているのだ。
「マリィ姉様…私あの国なんだか怖い…姉様は本当にあの国に嫁いでしまわれるの?」
リリーの呟いた言葉に、マリィは胸の奥が詰まる思いがして苦しい。
辛い現実であるが、マリィはバルメギア帝国の第四王子と婚約することが決まっていたのだ。もちろんその婚約も、帝国の外交圧力によるものだが。
「ああっ忘れもしませんわマリィ様!ええ、忘れてなるものですか!あの皇子ときたら初めての顔合わせの時に…!」
エルダーは湧き上がる怒りのせいで風船のように丸い顔を真っ赤にした。血圧がみるみると上がったようだ。
10年前…マリィが8歳の頃だ。王子と初顔合わせのため、母親である王妃カトレアとバルメギア帝国に来訪した。
幼いマリィには、婚約が外交による政略結婚となる理由すら解らない。ただ手を繋いでくれたカトレアの手が僅かに震え、優しい顔が曇っていたのを覚えている。
(今なら解るわ…お母様のお気持ちが…)
バルメギア帝国の離宮で対面した皇子は名前をロドリオといい、10歳の丸々と肥った金髪の少年だった。顔の肉が盛り上がっているせいか、目が細く釣り上がっている。
マリィは大国の皇子に失礼の無いように、何度も練習した挨拶を緊張しながらも行った。
『はじめまして、わたくし、ルミナフローラ王国の第3王女、マリィ・ド・ルミナフローラでございます』
丁寧に膝を折り、重なったフリルのスカートを少しだけ持ち上げながら跪く。
そんな健気な幼い姫に、控えていたバルメギア帝国の家来たちは目尻を下げてしまうほどだ。
しかし、ロドリオ皇子は…なんと手元にあったグラスの水をマリィに掛けたのだ。
バシャリと無慈悲な水音が響き、マリィの髪の毛からポタポタと水が滴り顔を濡らす。
『キャアアッ!マリィ!』
カトレアは布を裂くような悲鳴を上げる。濡れたマリィを抱き寄せ、家来たちも焦りの声を上げた。しかし、当のロドリオ皇子はゲラゲラと笑っている。
その母親である第3側妃ミランダは謝る事なく、溜め息だけついて扇をパタパタと扇ぐだけで、席から立とうともしない。まさに、無礼を絵に描いたような親子だった。
その時、マリィはカトレアに抱き着きながら涙が出そうになるのを懸命に耐えていた。
もちろんその出来事にマリィの父である王ロアンは怒り、すぐさま抗議文を出したのだが、返ってきたのは『お子のする戯れ事なので致し方ありません。』と素っ気ない返事のみ。
その日以降は顔を合わせる事もなかったが、マリィにとって苦々しい思い出だ。
「大国の皇子にご無礼を承知の上ですが、あんっな痴れ者にマリィ様は勿体無さすぎでございます!」
怒りが収まらないエルダーは口を尖らせる。
「…幼い頃だもの、今は皇子だって成長しているはずよ。私はいつか嫁いでしまうけれど、そうすることでルミナフローラ王国への風向きを変えられるかもしれないわ」
そう半ば自分に言い聞かせるように、マリィは紅茶を一口飲んだ。憂鬱な気持ちとは裏腹に、喉をすっと通る柔らかな紅茶の味が心地良い。
「マリィ王女様、リリー王女様、失礼致します」
女官がバルコニーに入室し、丁寧にお辞儀をしたが、チラリと見えたその顔色は強張っている。それがとても心に引っ掛かった。
「マリィ王女様…玉座の間に起こし下さいませ。陛下と…バルメギア帝国の使者がお待ちにございます」
「私が…?」
エルダーが戸惑うマリィを心配するように視線を送っているのがわかる。帝国の使者に名指しで呼ばれる事は初めてのことで、不安と妙な胸騒ぎに襲われた。
「お呼びでしょうか…」
マリィは丁寧に頭を下げた。玉座の上で、両親である王ロアンと王妃カトレアはどこか浮かない顔をしている。
その間を遮るように、一歩前に出た男がいた。痩身の長身に黒い軍服、銀の勲章。バルメギア帝国の外交使節団長だ。氷のような冷たい視線でマリィをジロリと見たあと言い放つ。
「ルミナフローラ王国第三王女
ーーーマリィ・ド・ルミナフローラ殿下」
彼は無感情に淡々と語る。
「数日前に勃発した魔族との戦闘において、我が軍は戦略的撤退を選択いたしました。
ですが…その戦場にて、魔界大陸・西ファングレイヴ王国が貴国に対し、ある“要求”をしております」
マリィは小さく息を呑んだ。王と王妃は、まるで時が止まったように固まっている。
「――獣人王オルク・ファングレイヴは、マリィ王女を引き渡す事を条件に、侵攻停止を認める構えを示しました」
(…え?)
帝国使者の言葉に、頭の中に霧がかかったようだった。視界がぐらりと揺れ、足元が遠くなる。
「殿下には、西ファングレイヴ王国に渡っていただきたい」
心臓の鼓動が次第に強くなっていく。
…なぜバルメギア帝国と魔界の国との戦争に、私が引き合いに出されるのだろう。
様々な疑問がマリィの脳裏に溢れ、言葉を失ってしまう。
「…なぜだ使節団長殿…なぜ我が姫を差し出さなくてはいけないのかっ!」
ロアン王の悲痛な声が謁見の間に響く。しかしバルメギア帝国の使者団長は眉一つ動かさず、その機械じみた表情を崩さない。
「詳細は此方も分かりかねます」
男は目も逸らさず、冷たく言い放つ。
「ただ、貴国は我らバルメギア帝国が盟主を務める“対魔族同盟”の一員。
その身で我らに物資を供給しながら、“無関係”とは申しますまい」
カトレア王妃の悲痛な泣き声が漏れ、女官が慌てて駆け寄る光景がマリィの目の端に映る。
「野蛮な魔族のこと…この条件を受けなければさらなる侵略が予測されます。
マリィ王女殿下のご決断に、この人間界の領土と人命が掛かっているのですよ?」
こんなに理不尽な事があるだろうか。
同じ同盟国であるはずのバルメギア帝国は、予告も相談も無しに魔界の大国と戦をした。
そのあげく、負けて魔族の要求を飲めと言っている。
その要求の条件が、バルメギア帝国に直接の損害が無いから尚更なのだろう。
「…使節団長殿」
マリィは震えをどうにか抑えながら声を絞り出し、思わずドレスを握り締める。
「私は貴国の第四皇子ロドリオ様と以前より婚約関係であったはずですが…」
「ええ、勿論その事については我が皇帝ザルガド様も存じた上にございます。
魔界側の条件を受け入れる場合、婚約解消は――民の命を守るために、致し方ないことだと」
湿度を帯びた重苦しい空気と圧が、容赦無くマリィの身体に伸し掛かる。
「…では私どもはこれで失礼いたします。マリィ王女殿下の賢明なご判断を期待しております」
使節団長たちは玉座に向かって簡単な礼をした後にコツ、コツ…と、退室していく。足音が異様なほど大きく感じられる。
それはまるで、この国の命運をマリィの背に乗せていったかのようだった。
――玉座の間に静寂が降りる。
唯一響くのは、王妃の泣き声と、マリィの耳鳴りのような心臓の鼓動だけ。
(私が…魔界に行く…?)
マリィは胸元を押さえながらその場に立ち尽くした。
バルメギア帝国はかなり強権で自己中気質。
ルミナフローラ王国はかなり穏健な農業大国です。




