第十九話 想いを馳せる
天気は澄み、朝の光が城の石畳を柔らかく照らしていた。
郊外視察に向かう準備を整えたオルクの前に、マリィはそっと歩み寄った。
「オルク様……あの、昨日の間者のことなのですが」
彼女は言葉を選ぶように、遠慮がちに口を開いた。オルクは一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかい声で答えた。
「心配いらねぇよ。あいつはしかるべき場所に収監された。お前にこれ以上関わることはない」
本当のこと――口封じの呪いで既に息絶えたことは、オルクの口から告げられることはなかった。
マリィはわずかに眉を寄せ、それでもその言葉を信じるように小さく頷いた。
「……そう、なのですね」
マリィの瞳には言いようのない不安がにじんでいた。オルクはその視線に胸を刺される。昨日の恐怖を乗り越えきれていない彼女を残していくことが、心底気がかりだった。
それでも王としての務めを果たさねばならない。
「すぐ戻る。だから、お前は安心して待ってろ」
「……はい」
マリィは小さく微笑んだものの、その声はどこか名残惜しく震えていた。
オルクは振り返ったあと、視線を前へ向けて歩き出した。
背後からじっと見送るマリィの気配を、後ろ髪を引かれる思いで背中に感じながら――。
昼下がりの陽光がサンルームに差し込み、薬草の葉を緑に透かしていた。
マリィは講義の復習を終え、手を休めることなく摘み取ったハーブを瓶に分けていた。
学びや作業に集中している間は気持ちが乱れることもない――だが、ほんのひと息ついたとき。
ふと、頭の奥に浮かぶのは、あの低く力強い声。真っ直ぐに自分を見つめてくる黄金の瞳。
「……っ」
マリィの頬がかっと熱を帯び、慌てて顔を俯けた。胸の奥がじんわりと疼き、何かを思い出すたびに鼓動が早まる。
こんな気持ちになるのは初めてだった。
切なく、けれど心が温かくなる。
だが――居ないとわかると、余計に募る。
「……はぁ……」
思わず小さなため息を漏らしたマリィは、手を止めると横に控えていたミラに声をかけてしまった。
「ねえ、オルク様のご帰還は……いつ頃の予定だったかしら?」
何気ない問いかけのつもりだった。
だが、ミラとサフィーは目を合わせ、口元を抑えきれずに綻ばせる。
「ふふ……すぐに、でございますよ」
「ご安心を。マリィ様が退屈なさらぬうちに、きっと」
からかわれたように感じてマリィの顔はさらに赤くなり、慌てて視線を逸らした。
※※※
ーー男爵領・ミルガ村
乾いた風が頬を打ち、舞い上がる砂が視界を霞ませていた。
ドルドの背に跨がりながらオルクは険しい表情で地を見下ろす。田畑はひび割れ、青々と茂るはずの穀物は黄色く枯れかけていた。井戸の周囲には村人たちが列をなし、干上がった桶を虚ろな目で見下ろしている。
「……酷ぇな」
低く呟くオルクの声に、同行する男爵が慌てて頭を下げた。
「陛下、このような有様、誠に申し訳ございません……。近隣の村からも支援を仰いでおりますが、とても追いつかず……」
地に降り立ったオルクは、ひび割れた畑を踏みしめるように歩く。村長が杖をつきながら進み出て、必死に訴えた。
「水を……水をどうか……!このままでは冬を越せませぬ……!」
オルクは片膝をつき、掴んだ土を指で砕く。乾ききった土が風に乗り、ぱらぱらと流れていく。
「……土が死んでやがるな」
立ち上がったオルクは、背後の部下へと視線を向けた。
「備蓄をすぐに分け与えろ。それと魔法士を派遣して水脈を探らせるんだ。獣人の兵たちは井戸の掘り直しと運搬を手伝わせろ」
「はっ!」
兵士たちが一斉に応じる。
オルクはさらに男爵へと視線を向けた。
「お前は村長と協力しろ。灌漑の施設も検討するんだ。原因が自然か、それとも人為的か……徹底的に洗え」
「は、はい! 必ずや!」
男爵は深々と頭を垂れる。
村長の瞳に、わずかな光が戻った。
「陛下……!この村は、まだ……生きられますな……!」
オルクはふっと鼻を鳴らした。
「死なせるわけがねぇだろう。俺の領民だ」
その言葉に、周囲の兵たちが誇らしげに胸を張る。
一行が村を後にする頃、背後では村人たちが手を取り合い、涙ながらに空を見上げていた。ドルドに跨がった従者が、次の行程を思い出したように声を掛ける。
「陛下、この後は――聖域の確認となります」
オルクの眼差しがわずかに鋭さを帯びる。
「……ああ。忘れちゃいねぇ。まずはメイシア殿への挨拶が先だな」
ひび割れた大地の向こう、彼らの視線の先に、未だ秘密の帳に包まれた“聖域”が待っていた。
しばらく森の道を走ると怪鳥ドルドの羽音が森の静寂に溶け込み、オルクは湖畔に差し掛かった。手を挙げ合図をすると兵士たちが自然と足を止め休憩を取る。水面に映る空は淡く橙色に染まり、湖畔の木々がそよ風に揺れる。
オルクは腰を下ろし、手綱を緩めてドルドを落ち着かせた。ふと目をやると、対岸に小さな花畑が広がっている。赤や青、黄色の花々が柔らかな光に揺れ、まるで湖の水面と一体化しているかのようだ。
「…綺麗だな」
呟きながら、オルクは無意識に湖面と花畑をぼんやりと眺めた。その目は次第に遠くの記憶へと向かう。
あの日のこと——マリィの姿を初めて目にした瞬間のことを。
3年前の――
今思えば、かなりぶっ飛んでいて危険な行為だった。だが、あの時は好奇心に突き動かされていた。
『ちょっと、人間の国に忍んで行ってみねーか』
ジャスティン王子の言葉に、オルクは瞬時に心を動かされる。慎重に行動すべきだという理性はあったが、冒険心がそれを押しのけたのだ。
小型のステルス型飛空艇をジャスティンが用意し飛び立った。
対魔族同盟の中でも穏健な国とされるルミナフローラ王国――だが魔族にとってはやはり人間の国であり、敵の領土である。
目立たぬよう魔力を完全に消し、姿も人間の素行悪そうな若者に変えて潜入する。
『どうだ?どっからどう見ても荒くれ者の傭兵って感じだろ?』
オルクの獣耳と尻尾は完全に消えて、人間の耳が備わっている。
『…おう!獣の耳と尾が消えただけの…オルクそのまんまだな!』
ジャスティンも尖った耳が丸くなっただけで大して普段と変わらない。
―春の陽が穏やかに大地を照らす。
ルミナフローラ王国は、名の通り花と緑に満ちた国だ。その城下は、大祭のためにいつも以上の賑わいを見せていた。
石畳の通りには色鮮やかな花輪や花飾りが掛けられ、家々の窓辺にもリースが飾られている。広場には屋台が並び、地元のチーズや肉料理、焼き立てのパンや果実酒が山と積まれていた。
楽師たちがリュートや笛を奏で、太鼓の音に合わせて人々は笑いながら歌い、踊る。甘い花の香りと芳醇なワインの香りが入り混じり、国全体が祝祭の空気に包まれていた。
『すげぇ良いところじゃねーか!』
ジャスティンが目を丸くしながら声を上げる。オルクも辺りを見渡しながら感心していた。
そのとき、民族衣装を纏った恰幅の良い男が声をかけてきた。オルクは咄嗟に身構えたが、男はにこやかに笑って言った。
『やあ!兄ちゃん達、なかなか男前じゃないか。恰好からするとギルドの傭兵かい?』
『おー……そんなとこ!』
オルクが曖昧に答える。
『ははっ、やっぱりな!この国は観光でも人気だから、傭兵や商人がよく来るんだ。今日は年に一度の大祭だ、特に人が集まってるさ!』
男は太っ腹に、木製のカップを二人に押し付けるように手渡した。
『ほら、王様からの振る舞い酒だ!タダだタダ、飲みな!』
受け取ったカップには濃い紅のワインがなみなみと注がれている。ひと口含むと、辛口で香り高く、後味は驚くほどすっきりとしていた。
『……うまいな』
『これでタダかよ!』
とジャスティンが目を輝かせる。
すると、二人の子どもが恰幅の良い男に抱きついてきた。
『父ちゃん!パレードが始まっちゃう!はやく!』
『パレード?』
ジャスティンが首を傾げると、子どもは胸を張って答えた。
『花の大祭では、王様とお妃様がパレードをするんだ! それに、他国に嫁いだ王女様も戻ってきて参加するんだよ!』
『王女さまは全員で四人!みんなすっごく綺麗なんだ!』
『はいはい、今行くぞ!』
男は笑いながら子どもたちに引っ張られ、人混みに消えていった。
オルクはワインを飲み干し、にやりと笑う。
『……ここまで言われちゃあな。行くよな?』
『当たり前だろ!』
ジャスティンも笑い返し、二人は大通りの方へと歩を進めた。
――陽光がきらめく大通りに、花びらが舞い落ちる。
祭楽団の笛と太鼓が鳴り響き、人々の歓声がそれに重なる。
城に続く大通りの方向から来たのは、白馬に牽かれた豪奢な馬車。純白の天蓋と金の装飾が陽光を反射し、眩い輝きを放っている。その中で国王ロアンは堂々と手を振り、王妃カトレアは優雅に微笑んで観衆に応える。
続いて現れるのは四台の馬車。そこにはこの国の誇りである四人の王女が乗っていた。
第一王女セラフィアは凛とした姿で、手を振る仕草に気品と威厳が宿る。
次の馬車の第二王女ヴィオラは扇を手に、観衆をからかうように艶やかに微笑む。
その同じ馬車には一番幼い第四王女リリーが花冠を被り無邪気に愛くるしく手を振っていた。
――歓声が嵐のように響く中、オルクは自然と視線を巡らせていた。
観衆の熱気が一段と高まった瞬間――三台目の馬車が視界に入った。
そこに座していたのは、白を基調とした花刺繍のドレスを纏う一人の少女。
亜麻色の髪は陽光を受けて淡く輝き、花飾りがそれに優しく彩りを添える。
緊張しているのか、少しぎこちなく、それでも真っ直ぐに民へ手を振る。その仕草には派手さはない。だが、誰よりも真摯で清らかで――。
『……』
息をするのも忘れ、ただその横顔を見つめる。笑顔に変わる瞬間、眩しさに目が焼けるようで、けれど視線を逸らせない。
――ああ、この日からだ。
己が誰を求めるのか、魂が決定づけられてしまったのは。
人々の歓声と音楽の中で、第三王女マリィは一際目を惹いていた。彼女は手にした小さなブーケを群衆へと差し出す。
前に出てきた子どもに目線を合わせ、優しく微笑みながらブーケを渡すその姿は、誰よりも柔らかく、凛としていた。
その瞬間、オルクの胸に稲妻のような衝撃が走った。
――なんだ、この感覚は。
息が詰まるほどに美しく、見てはいけないものを見てしまったような気すらする。それでも目を逸らせなかった。
(……俺は、あの笑みを、今でも忘れられない)
「――陛下」
近衛兵の声にハッと我に返る。視線を向ければ、湖面に映っていたのは己の険しい顔。
「ご気分でも…?」
「いや、大丈夫だ」
森の湖畔での休息は、もう終わり。
装備を整える兵らを見ながら、オルクは深く息を吐いた。
「……このまま黙っているだけじゃ、何も変わらねぇ」
低く呟いた声は、誰にも届かず静かな森に消えた。オルクは拳を固める。
視察が終わったら――必ず、マリィに想いを伝える。決意を胸に、彼は再び前を見据えた。




