第十八話 葛藤と確信
舞踏会の翌日。
東エルグランド王国を発つ馬車の前には、なんとレグノス王とメリル王妃、そしてジャスティン王子までが揃って見送りに来ていた。
「もっとここで遊んで行けばいいのに!」
名残惜しそうにマリィの手を取るメリル王妃。その溌剌とした笑顔に、マリィの胸は温かくなる。
しかしすぐ横でレグノス王が豪快に笑いながら、肩をすくめてみせた。
「お前なぁ……オルクは子どもじゃないんだからな。ま!ならこうしよう。儂らがファングレイヴに遊びに行けばいい!」
「父上……何度仕事を抜け出すおつもりですか」
呆れたようにジャスティン王子がため息をつくと、そのやり取りに場の空気がさらに和やかになる。
豪奢な王宮の階段に並んだ親子のやり取りを見つめながら、マリィは自然と微笑んでいた。
――なんて温かくて、親しみやすい方たちなのだろう。
この国を離れることに一抹の寂しさを覚えるほどに、マリィは彼らを心から好きになっていた。
ファングレイヴへの帰路、豪奢な馬車の窓から見える景色は刻一刻と変わっていった。遠くにそびえる黒き山脈が近づくほどに、マリィの胸は不思議と高鳴っていた。
舞踏会の夜――バルコニーで「特別だ」と囁かれたあの瞬間が、どうしても頭から離れない。思い出すたびに頬が熱くなり、心臓が早鐘を打つ。
「……マリィ、疲れてないか?」
隣に座るオルクが、不意に気遣うように声を掛けてきた。
その横顔はいつも通り堂々としていて、だが視線は心配そうに柔らかい。
「いえ……全然。むしろ、なんだか胸がいっぱいで……」
口にしてから恥ずかしくなり、マリィは慌てて視線を逸らす。
――こんなふうに優しくしてくださるから。私はますます……。
胸の奥で熱が溢れ、舞踏会の夜の言葉がふたたび蘇る。
「特別」――。
ただの社交辞令ではないと、今なら確信できる。
一方で、オルクはと言えば。
(あー……やっちまったかもな、俺……)
膝の上で指を組みながら、ひとり青ざめていた。舞踏会の夜、マリィの表情が固まったように見えたのを思い出しては胸の内で呻く。
(引いたか?ドン引きされたか?踏み込み過ぎたか俺…?!いや、でも笑ってたよな? いやいや、笑ってたのは作り笑いか?)
(でもあの時のマリィ…最高に可愛くて美しかった…!だからつい…)
豪胆な魔王と恐れられる男が、心の内では必死に自己弁護と反省を繰り返しているとは、誰も想像しないだろう。
「オルク様?」
マリィが小首を傾げて見上げると、彼は慌てて笑顔を作った。
「お、おう。なんでもねぇ。……帰ったらしばらくゆっくりできるからなマリィ」
その不器用な笑顔に、マリィはまた胸が高鳴る。
(やっぱり……私、好きなんだわ)
馬車の中で揺れる沈黙は、互いに違う理由で胸を熱くしていた。
※※※
西ファングレイヴ王国の門をくぐると、長い旅路の疲れを一瞬忘れるほどの温かな歓迎が待っていた。家臣たちは揃って整列し、凛とした佇まいでありながらも、目の端に微かな笑みを浮かべている。
厳格な女官長ヘレナは、すぐにマリィに近づき、丁寧に一礼しながらもその声にはあたたかみが混じっていた。
「お戻りなさいませ、マリィ様。旅路はお疲れでございましょう」
「ぴー!ぴー!」
そしてヘレナの足元で待ち切れない様子のピコは興奮したようにクルクルと回ってマリィの腕の中に飛び込んだ。
「ピコったら…ヘレナ殿ありがとうございます」
マリィは軽く頭を下げ、心底ほっとする。まるでこの国そのものに守られているようだった。
オルクの傍らでは、宰相オルフェールが翼をはためかせオルクにいそいそと近付いた。
「オルク陛下、どうでしたか?何か進展はありましたでしょうか?」
と小声で囁かれると、オルクは眉をひそめ「んだよ」と返し、目がキョロキョロと動く。どうやら舞踏会の件が気になって仕方ないらしい。
「ホ!?なんですか!何かあったのですか?!」
オルフェールは爺心丸出しで、オルクを心配そうに小言を言うのも微笑ましい光景だった。
門の脇では、召使いたちが手際よく荷物を運び出す。重い箱を抱えて走る者、軽やかに品物を並べる者、走るのが間に合わず小さな笑い声を漏らす者もいる。
働く姿には疲労の色もあるが、皆、誇らしげに胸を張り、国に戻った主たちを心から迎えていることが伝わる。
マリィはその光景を眺め、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。ここには、オルクが大切にしてきた人々がいる――自然に実感するのだった。
ファングレイヴに帰国してからもマリィは度々物思いにふけっていた。
外を眺めながら、マリィは胸の奥で何度も同じ言葉を反芻していた。
――「特別」
舞踏会の夜、バルコニーでオルクが告げた言葉。あの低く、温かな声が耳から離れない。
思い出すたびに頬が熱くなり、心臓がどうしようもなく跳ねてしまう。
(私…オルク様のことを、こんなにも…)
それを認めた瞬間、甘く幸せな気持ちに包まれる。けれど同時に、逃げ場のない問いが胸に押し寄せた。
オルクのマリィの見る目は外交のカードとしてではなく好意を向けてる目だった。いや舞踏会の時に限ったことではない。
(思い返せばオルク様は最初からずっとお優しかった。ずっとあの優しい目で私を見ていてくれてたのね…)
オルクの気持ちに気付いたら辻褄が合う。
本来敵対する人間の国の王女をわざわざ得て、その王女を手厚く扱う…
最初から外交のカードとしてのみ使うつもりなら他国との舞踏会にペアとして連れて来ないだろう。
(でもなぜ私を王妃にするつもりなら、最初から強制をしてこなかったのかしら……いや、そんな方法を好まない方々だものね。)
――もし、王妃になるのだとしたら?
オルク様の隣に立つと決めたなら、私は人間をやめて、魔族になる。
エルゴ教授の言葉を思い出す。
『番とは、心を寄せ合うだけの関係ではありませぬ。互いに魂を分け、魔力をわかち合う。存在そのものを補い合うのです。ゆえに番が成立したとき、ふたりは真に“ひとつ”となる。
そして……もし魔族と人間が番った場合。魔族の魂と魔力の強さに引かれ、人間は“魔族化”し、共に悠久の時を生きるのです。』
『その片割れを失ったならば。残された者は大きく弱体化いたします。力を削がれ、時に生きる意味すら失うこともあるのです。』
長い時を生きる存在へと変わり、家族や生まれ育ったものとのつながりは、きっと遠く霞んでいく。
(……本当に、そんな覚悟ができるの?)
けれど、ファングレイヴで過ごした日々が脳裏に浮かんだ。
いつも気さくに声をかけてくれる兵士たち。
優しく世話を焼いてくれる側仕えのサフィーとミラ。美しく豊かな街並み…
そして何より――、不器用で、大胆で、誰よりも自分を守ろうとしてくれるオルク。
(離れたくない……。でも、怖い)
恋と不安が入り混じり、マリィの心は揺れ続けていた。
午後の中庭に差し込む柔らかな光の中、マリィは足早に歩を進めていた。
女官長ヘレナの文化についての講義の時間に遅れまいと、意識はそちらに集中していたが、ふと視線の端に気になる影が映る。
帽子を目深に被った庭師――普段見かけるふくよかなモグラの獣人ではなく、痩身の若い男性だった。
その姿に、ほんの一瞬だけ胸がざわつくが、「今は講義の方が大事…」とマリィはすぐに思考を切り替えた。
だがその痩身の庭師は、手元の薔薇を不器用に、バチンと鋏で切り落としてしまう。サフィーとミラも互いに目を見合わせ、声にならない疑問符を浮かべる。
今日は庭師が入る予定だったっけ…?
微かな違和感が胸に残るものの、マリィは振り返らずに足を進めた――この時は、まだ何も起こらないかのように見えた。
そして講義が終わって夕暮れの柔らかな光が中庭を黄金色に染める。
マリィは少し疲れた頭と体を休めるべく、石造りのベンチに静かに腰を下ろした。微風が肩越しに亜麻色の髪を撫で、遠くの噴水のせせらぎがかすかに耳に届く。木々の葉が揺れる音と、金色に光る花びらの香りに包まれた。
「ふぅ…講義はやっぱり疲れるわね」
「無理も無いですにゃ、ヘレナ女官長スパルタですにゃあ…」
「傍に控えてる私達にも質問飛んで来ますからねぇ」
3人仲良く背伸びをして笑い合う。そんなときだった。
帽子を目深にかぶった若い痩身の庭師が、手に数本の薔薇を抱えて静かに近づいてくる。歩みは緩やかだが、その視線はしっかりとマリィを捉えていた。
「こんにちはマリィ王女殿下、この薔薇をご覧ください。とても珍しい特徴を発見しまして…」
声は柔らかいが、どこか硬く、目深に被った帽子から覗く黒目はどことなく周囲を見ていた。ミラとサフィーは無言のまま立ち位置を固め、眉をひそめる。
(王族に気軽に話しかける…?)
「まあ…真っ赤な薔薇…」
不意に立ち止まったマリィは、無下にもできず微笑みを浮かべながら手を伸ばす。薔薇の花びらに触れたその瞬間、庭師の動きがスッと鋭く変わった。手には、光を反射する短剣――それは、日常に潜む危険の象徴のように冷たく光っていた。
「っ!」
マリィの心臓が跳ねる。思わず息を呑むその瞬間、ミラとサフィーが反射的に飛び込み、マリィを力強く抱き寄せる。庭師の短剣は空を切り、無情にも光だけが宙に走った。寸前で、襲撃は阻まれた。
しかし、庭師を偽った間者は諦めず素早い動きでマリィに近付こうとする。
「しつこいにゃ!」
ミラの爪が鋭く変形し、ナイフのように光る。間者の短剣と打ち合う金属音が、中庭の静寂を裂く。
「ぴぎー!!!」
何処からともなく現れたピコが間者の足首に噛み付いてバランスを崩れさせた。
その間、サフィーは素早く魔法を展開し、マリィの周囲に透明なシールドを張った。小さく狼煙を上げ、上空の警備に信号を送る。ピコは振り払われてゴム毬の様にバウンドして転がりながらマリィの胸に飛び込んだ。
「ぴ〜ひ」 「ピコ!!」
「西中庭にて不審者あり!西中庭にて不審者あり!相手は武器を所持して攻撃中!至急応援せよ!!」
鳥獣人の兵士たちが滑空し、中庭は騒然となる。
その知らせが聞こえ、オルクは執務室で血の気が引いた。窓の外に目をやると、間者に襲われるマリィの姿が、確かにあった。
「マリィ…!!!」
オルクの身体は反射的に動く。窓枠に脚を掛け、今にも飛び下りようとする。腕と脚に全身の力を込めると、窓の石枠がひび割れ、粉塵が舞った。
「何してんだテメェーーーーー!!!」
数十メートル先の中庭に向かって、オルクは一気に跳躍した。空中で風を切る音、髪とマントが翻る。
鳥獣人の兵士が間一髪でよけるが、オルクの視線はただマリィに向けられていた。
「オルク様!」
マリィは、上空から迫る影――それがオルクだと瞬時に悟る。彼の鋭い瞳と、全身から溢れる圧倒的な存在感に、思わず息を呑む。
オルクは跳躍の勢いのまま、身に付けていた飾り紐を引き千切って手のひら大の獣牙を手に取り、渾身の力で間者の顎に叩きつけた。
「ぐぅおっ!!」
間者はくぐもったうめき声をあげ、膝を落としてバランスを崩す。
地面に重く響く着地音とともに、オルクは軽やかに中庭に降り立った。瞬時に鳥獣人や警備の兵が駆け寄り、間者を捕縛する。
オルクはマリィに駆け寄り、その腕をそっと抱く。胸の高鳴りが伝わる距離で、彼の目は冷静だが、確かに守る意志で光っていた。
「大丈夫か?」
「は、はい…!」
オルクは深く息をつき、ミラとサフィーに視線を向ける。
「…お前らもよく護ってくれたな。感謝する」
「はっ!」
二人は自然と背筋を伸ばし、張り詰めた緊張を少しだけ解いた。
地面に座り込んでいたマリィに、オルクは手を差し伸べる。彼女の足が微かに震えているのが、抱き寄せる腕の感覚から伝わる。
「す…すみません」
「無理もねぇよ。部屋まで行こう」
オルクは迷わず、優しくマリィを抱き上げる。その腕の中で、マリィは先ほど閃いた刃の一瞬の光景を思い出して、手が震えた。
「オルク様…」
その声は小さく、震えていたが、彼女の視線には信頼が込められていた。
オルクは控えていた騎士に冷静に指示を出す。
「…警備を倍にしろ。出入り口、上空すべてに配置を追加、間者の残党がいないか、周囲を厳重に監視しろ」
その声には威厳と落ち着きが同居し、即座に命令は伝わる。
マリィはその指示を耳にしながらも、オルクの腕の中で少しずつ心を落ち着けていった。
オルクはマリィの部屋にたどり着くと、天蓋付きのベッドにそっと彼女を降ろす。
オルクの後を付いて来たピコも抱き上げマリィの横に降ろしてあげた。
ピコはマリィの腕に「ぴい」と小さな声を出し何度も擦り寄る。
「怖かっただろう。今日はしっかりと休め」
マリィは震えこそ消えていたものの、なお辛そうな表情で俯く。
「私がもっと気を付けていれば…抵抗できたら…オルク様にご迷惑を…」
オルクは豪快に笑い飛ばした。
「ハハハ、何言ってんだよ。迎え討つ王女なんて聞いたことないぜ?護るために兵士や…俺がいるんだ。気にするな」
マリィの表情が、ほんの少しだけ緩むのを見て、オルクは胸の奥で安堵した。そして指先でそっとマリィの前髪に触れ、柔らかく撫でる。
「さあ…少しでもいい、休むんだ」
「…はい」
マリィはピコを優しく撫でてから静かに目を閉じ、暖かい安堵の空気が部屋を包む。
オルクは部屋から退室し、後にする前に扉の前に控えていた女騎士に視線を向けた。
「マリィの部屋の棟は特に厳重に警備を配置しろ…いいな?」
女騎士は背筋を伸ばし、敬礼した。
目を鋭く光らせるオルクの姿に、静かな決意と威厳が滲む。
※※※
雨漏りの音が時折ぽつり、ぽつりと地下牢の石床に落ちる。湿った空気にカビの匂いが混じり、古びた壁面がひんやりと肌を撫でる。
鉄格子の中には、四肢を拘束された間者の男がうずくまっていた。隣には尋問係が控え、松明の灯りが揺れるたびに影が壁に揺れ動く。
石造りの通路に、オルクのブーツがコツコツと一定のリズムを刻む。歩を進めるたび、薄暗い空間に緊張が漂う。
牢屋の前で歩みを止めると、傍らの兵士が瞬時に敬礼する。オルクは一瞥をくれただけで、その視線は間者へと向けられた。
兵士が声を張り上げた。
「起きろ!王の御前であるぞ!」
「う…」
間者は、やつれた瞳でオルクを見上げる。そこには光も温もりもなく、ただ虚無だけが漂っていた。オルクは無言のまま、冷たい視線で見下ろす。
「…身体検査は済んだか」
「は!毒物を含め、危険物は所持しておりません。ただ…非常に強力な読心防御魔法が掛かっております」
「そうか…」
オルクが目配せすると、兵士が間者の猿轡を外す。すでに舌を噛んで自死するのを防ぐ魔法も施されている。
「…どこの者だ」
間者は微動だにせず沈黙した。
「なぜマリィを狙った」
返答はない。オルクは深いため息を吐く。
「まぁ…素直にゃ話さないわな…」
部屋の隅、兵士が炉で鉄の棒を焼く音だけが静寂を切り裂く。
「お前は取り押さえられた時に『裏切り者の姫め』と呟いたそうだな…バルメギア帝国か」
その言葉に、間者の顔色が土気色に変わる。
「が……っぐ…」
黒の紋様が顔全体に浮かび、目の白い部分には赤い血管が走る。四肢を拘束する金具がガシャガシャと鳴り、身体をよじる。
「が…あ…あ…」
兵士たちは慌ててオルクの前に出て構える。次の瞬間、間者の目は見開かれたまま、口の端からどす黒い血が一筋垂れて絶命した。
「な、なんという高度な口封じの呪い…!」
兵士が間者の顔に浮き出た禍々しい紋様に恐々と反応する。
(敵にとっちゃコイツは使い捨ての駒か…)
オルクは間者だった者の憐れな姿に悲哀をこめて舌打ちをした。




