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魔界王妃ノ浪漫譚  作者: 竜ヶ崎
第一章
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第十五話 諜報のネズ


 ファングレイヴ城の中庭に、ピンク色のモチモチした小さな生き物――『ピコレット』、通称『ピコ』が短い四本の脚でちょこちょこと歩いていた。まだ朝日が柔らかく庭を染める時間帯で、石畳に落ちる影が小さく揺れる。


「ぴ、ぴ…」


 無意識に漏れる声が、朝の静かな空気にほのかに響く。本人は気にも留めず、ただ楽しげに歩き回っている。


 ピコは思いがけない跳躍力も持っており、地面にしっかり力を入れると、ぴょんと軽やかに噴水の縁へ着地した。胸を少し張り、得意げに「ぴ!」と鳴く。

 噴水の清い水で顔をざぶりと洗い、喉を潤す様子はまるで小さな仕草のひとつひとつが愛らしい生き物そのものだ。


「んぐんぐ…」


 そのとき、噴水のそばに人影が現れた。黒と紅の厳かなローブを纏った女官長ヘレナだ。ピコの上に立つ彼女の視線は厳格で、表情を崩すことなく小さな魔獣を見下ろす。


 ヘレナは片手を袖から伸ばし、ふわりとした羽根でピコの頭をひと撫で。カサリ、と柔らかい羽の音が立ち、ピコは顔を上げ、キョトンと見上げた。


「ピコレット殿、濡れたままで室内に上がってはなりませんよ。

 前回も噴水で水浴びしたあと、室内に入ったそうですね?城内のグリムヴァルド産絨毯が濡れてしまいました」


「ぴーぃ?」


 濡れた口元をペロリと舐め、首を傾げるピコ。その仕草に、思わずほんの少し頬が緩むヘレナ。


「コケ!…なんですか、聞いているのですかっ」


 ヘレナは両翼でそっとピコの両頬を挟む。小さな顔が羽に包まれ、もっちりとした頬が軽く変形するたび、ピコは驚きつつも嬉しそうに鳴いた。


「ぴぎゅう?」


「んんっ…フフフ…」


 ヘレナは笑いを漏らし、胸元から紙に包んだ甘酸っぱいプラモの実を取り出すと、ピコに差し出した。ピコはそれを目ざとく見つけ、喜び勇んでかじりつく。小さな手足で器用に押さえながら、ぷくっと膨らんだ頬で食べる仕草は、頬が緩む可愛さだ。


「さて…朝礼の準備をせねば…」


 ヘレナは優しくピコの頭をもう一度撫でると、すっと姿勢を正し、滑るような足取りで城内へ向かう。

 振り返ることなく去っても、ピコはまだ噴水のそばで「ぴ!」と小さな声を上げ、丸い目でしばらく見送っていた。

 その場に残されたピコのちょこちょこと跳ねる姿は、中庭に穏やかな朝の空気と、ほんの少しの愛らしさを運んでいた。



※※※


 サンルームには、朝の光が植物の葉に反射して、柔らかな緑の輝きを散らしていた。

 マリィは剪定ばさみを手に、夢中で草花の世話をしていたが――


「え、わ、私も……ですか?」


 突然の誘いに驚き、動きが止まる。

 目の前に立つオルクは、ばつの悪そうな顔で、獣耳をぴくぴくと揺らす。


「ああ……合同軍事演習のあとに、宴があってな。ダンスの相手が必要なんだ。

 俺にはペアがいねぇし……お前がいてくれた方が、いいし……」


普段なら強気な口調の彼が、慎重に言葉を選んでいるのがかえって不器用で、マリィの胸がくすぐったくなる。


 北グリムヴァルド王国、東エルグランド王国と定期的に行われる合同演習――今回の開催地は盟主国エルグランド。

 その場に、マリィを同行させたい、というのだ。


「ですが、オルク様……私は人間の国の王女です。その立場で参加すれば、批判や反発を招くのでは……」


 彼の厚意は嬉しい。だが外交問題を引き起こしてしまっては、と心が揺れる。


「大丈夫だ!」


 オルクは力強く言った。


「もうアイツらには話を通してある。

 お前に嫌な思いは絶対させねぇ。

 それに……俺たちだって、いつまでも人間と敵対したままじゃダメだって思ってるんだ」


 真剣な眼差しを受け、マリィは胸の奥で静かに考える。


(オルク様は人間への対抗ではなく、和解を見据えている……。私がここにいる理由は、きっとそこにある。私が架け橋になれるなら……)


「……私では役不足かもしれませんが、謹んでお受けいたします」


 微笑みを添えて答えると、オルクは一瞬きょとんとし――次の瞬間、ガッツポーズを作った。


「ほんとか!」


 尻尾がマントの下でぱたぱたと揺れているのが見えて、マリィは思わず口元をほころばせた。

 少し離れた場所では、側仕えのミラが気配を消して花の手入れをしていたが、猫耳だけはぴくぴくと反応させる。


(陛下必死にゃ……!頑張れ!押せ押せにゃ!)


 そっと、ミラがマリィの背後に現れてにゃあと笑う。


「マリィさま、そうと決まればドレスを新調いたしますにゃ。さっそく採寸を――」


「あ、あの……持参したドレスで十分ですわ」


 マリィは遠慮がちに申し出るが、その言葉を遮るように、サンルームの扉が勢いよく開かれた。


「コケーーー!! そうはいきません!」


 突き抜ける声に、オルクとミラの耳がビンと立ち震える。現れたのは女官長ヘレナ。


「な、なんだよ……ヘレナか。声でけぇんだよ……」


 オルクのぼやきなど聞き流し、ヘレナはマリィの前に仁王立ちした。


「マリィ様。オルク陛下と同行されるということは、ファングレイヴの顔になる、ということ」


「は、はい……」


 威圧感にマリィは気圧され、小さく返事をする。


「さらに、マリィ様はファングレイヴが保護したルミナフローラの姫、という名目でのご同行。堂々と振る舞っていただきます」


「だからマリィは遠慮しなくていい。ヘレナ、ミラ、頼んだぜ」


 オルクが二人に目配せすると、女官長と側仕えは息を合わせて一礼した。


 こうして、マリィの「初めての外交同行」が正式に決まったのだった。



※※※



 ピコは中庭を駆け回りながら、目を輝かせて小さな獲物を追い回していた。


 その獲物とは一匹の鼠――いや、鼠の獣人だった。二足歩行で、背丈は15cmほどだが身のこなしは驚くほど俊敏。黒のタイトなスーツのような軽鎧に身を包み、燕尾服めいた裾がひらりと揺れる。


「肉団子に捕まるほど、俺ァ間抜けじゃねぇさ!」


 渋い声を響かせて鼠は石壁をひょいと駆け上がり、ピコの追撃をひらりとかわす。


「ぴひ?」


 角を曲がったところで獲物を見失ったピコが首を傾げる。


 次の瞬間、その背に影が落ちた。鼠は壁から飛び降り、ピコの背中にしがみついた。


「そ〜ら、俺の勝ちだぜ、肉団子!」


 ピコは驚いて何度も跳ね上がったが、鼠は落ちない。器用にピコの耳を掴み、勝ち誇ったように言葉を続ける。


「お前は誰だ?俺の情報網にゃまだ入ってない顔だぜ。それともオルク陛下の今晩の食材が逃げ出したか?んん?」


「ぴひーーー!!」


 耳を引っ張られ、ピコは悲鳴を上げた。だが次の瞬間、何かを思いついたように走り出し、鼠を背に乗せたまま一直線に庭の外へ突進する。


「ピコ、ここにいたのね?」


 声を掛けたのはマリィだった。しゃがんで迎え入れると、ピコは助けを求めるように彼女の足元に頭を擦り付ける。


「ぴひー!ぴぴー!」


「まあ…ネズミさん?」


 マリィの声に鼠はハッと顔を上げた。素早くピコの背から飛び降り、身だしなみを整えるように軽く服の裾を払う。そして、片膝をついてうやうやしく頭を下げた。


「これはこれは…麗しいマリィ王女殿下。お初にお目にかかります。ファングレイヴ王国直属諜報部隊の頭領、ネズ・エヴァンズと申します。お見知りおきを」


 その渋い声に反して、つぶらな瞳はどこか愛嬌があり、マリィは思わず「可愛らしい」と口から出そうになる。


「まぁ…ネズ殿、よろしくお願いします」


 マリィは握手のつもりで手を差し出す。

するとネズは片膝をついたまま、その指にそっと小さな手を添え――唇を寄せた。


「おお…美しき王女殿下」


 ちゅ、と小さく口づけ。そしてまた二度、三度と続ける。


「ふふっ……」


 少しくすぐったくて、マリィは小さくわらう。だがその空気を裂くように低い声が響いた。



「おう、コラ」


 次の瞬間、ネズの首根っこがぐいと掴まれる。足をバタつかせながら宙吊りにされる小さな身体。


「あら、オルク様」


「ひ、ひえっ!陛下!」


 オルクに目線を合わせられたネズは、引きつった笑顔を浮かべて声を絞り出した。


「へ、へへ…オルク陛下!本日はお日柄も良く!」


「そうでもねぇよ。ネズ、女好きも大概にしとけ」


そう言ってからネズを地面に降ろし、ピコの目の前へ突き出す。


「ぴ?」


 ピコは鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、ネズの服の裾をぱくりと噛んだ。


「お、おい肉団子!やめろっ、これは特注なんだぞ!下ろしたばっかりの服なんだぞ!」


 必死に裾を引っ張り返す姿は、どうにも威厳がない。オルクはそんな様子を鼻で笑う。


「……で、ネズ。お前がわざわざ姿を見せたってことは、何か成果があったんだろうな?」


 ネズは裾を払い、軽く毛並みを整える仕草をして渋く頷く。


「もちろんですぜ、陛下」


 ネズはするするとオルクの衣をよじ登り、その逞しい肩にひらりと身を移した。

その想像もつかない軽快さに、マリィは思わず目を見張る。


 ネズはオルクの耳元へ顔を寄せ、低く渋い声で囁いた。

 マリィは耳を澄ませたが、言葉の一つも聞き取れない。せいぜい、かすかな吐息混じりの声が聞こえるだけだった。



「バルメギア帝国はルミナフローラ国境で集中的に軍事演習を行っています。

 従来の倍ほど火薬や武器も導入している……もしかすると、また侵攻を予定しつつ、こちらの合同訓練への牽制かもしれやせん。

 そんで――バルメギアの貴族どもの間じゃ、マリィ王女殿下がファングレイヴの生贄じゃなくて『王妃』になるって噂で盛り上がってるようで……」


ネズの耳打ちにオルクはわずかに眉をひそめ、深くため息をついた。


(そもそも、俺は最初からバルメギアにそう打診してたんだろーが……。今さらそんな噂に踊らされやがって。

だが、アイツらのことだ。最初と話が違うと騒ぎ立てて侵攻の口実にするかもな。

 バルメギアだけでなくルミナフローラ周辺にも諜報を増員しとくか)


「……というわけで、陛下。ご用件は以上です。ついでに、王女殿下…そのお美しい瞳をもう一度拝ませてくださると、私の任務成功率は二割増しになりますんで」


 オルクはふぅと息を吐くと、肩に乗るネズの首根っこをひょいと摘んだ。


「おいネズ、仕置きだ」


「おっと陛下、俺は真剣そのもの——」


 と言い訳をする間もなく、オルクはネズをピコの口元へポンと置いた。



「ぴー!」


 ピコは友好の証のつもりなのか、小さな舌でネズの顔をベロン、とひと舐めした。


「うおお!?やめろ肉団子!ちょ、見ろ!この一張羅が涎まみれじゃねぇか!」


 ネズはあんぐりと口を開け、必死にジタバタする。小さな手足をバタつかせて抵抗する。そのやりとりに、マリィは思わず口元を手で押さえ、くすくすと笑い声を漏らした。


 オルクは肩をすくめ、まるで何事もなかったかのように歩き出す。


「おら、ネズ、ほかにもあるんだろうが、報告書がよぉ、来い!この女たらし」


しかし、マリィの方をふと優しい目で見やると、声が照れくさそうに小さくなる。


「あー…マリィはまたあとでな」


「はいっ」


 そのやりとりの様子を、ネズは横目で見てにやりと笑った。

――まったく、若いねぇ。









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