第十四話 ピコレット
ファングレイヴ城の朝は、いつも通り穏やかに始まった。
高い窓から差し込む光が、磨き上げられた白い石床を柔らかく照らす。
その光の中を、マリィはゆったりと歩いていた。背筋は伸び、衣の裾も淀みなく揺れている。行き交うメイドに微笑みを向ければ、その声色も明るい。
けれどその笑みは、陽光に揺らめく水面のように脆く、どこか頼りなげであった。
「マリィ王女殿下、今朝もお元気そうでございますね」
そう言われ、マリィはええ、と穏やかに頷いた。声は確かに朗らかだったが、その瞳の奥には小さな陰りが宿っていた。
午前の講義の広間に入ると、マリィは椅子に腰を下ろし、吐息をひとつ漏らした。
だが、すぐに誰にも気づかれぬよう唇に笑みを浮かべ直す。
――ただ、その笑みが形を結ぶのはほんの僅か遅れてのことだった。
(ああ…昨日、エルゴ先生から教わったことが頭から離れないわ…)
人間の歴史の中で覆い隠されていた、目を覆いたくなるような惨い事件。
あまりにも残酷な事実を知ってしまったことで、マリィの心は静かに揺れ続けていた。
彼女は気持ちを切り替えようと懸命に意識を集中させる。けれど――今日はどうにも、元気が出なかった。
(ダメね…こんな顔じゃ、きっと皆に心配をかけてしまうわ)
マリィは両手で頬を軽く押さえ、少しだけ表情を持ち上げてから、サフィーとミラへ明るく声をかけた。
「……マリィの様子、いつもと違うな」
オルクはマリィに潜む揺らぎを敏感に感じ取っていた。
気になるが、彼女が隠そうとしているものを無理に引きずり出すのは違う――そう考え、あえて黙していた。
マリィの指が、ほんの僅かに震えている。その細やかで儚い震えは、彼女の内にまだ消えぬ痛みがあることを雄弁に物語っていた。
やがてオルクは執務室へ向かい、報告書へと視線を落とす。無言のまま、次々と書類をめくっていく。
けれど胸の奥には、ちくりとした違和感と、形にならない心配が消えずに残り続けていた。
※※※
サンルームには朝の柔らかな光が降り注ぎ、ガラス越しに庭園の緑が輝く。
マリィはお気に入りの場所であるこの空間に座り、手で触れるたびに柔らかく揺れる花や葉に指先を滑らせながら、物思いにふける。
ふと、頬にひらりと冷たい花びらの感触が触れる。
「きゃっ!」
驚いて顔を上げると、入口に立つオルクがにやりと笑っていた。
どうやら先ほどの悪戯な花びらは、オルクの簡単な魔法によるものらしい。
「へへ、悪ぃな」
オルクは頭をかきながら小さくつぶやいた。
「うーん…やっぱ俺、魔法苦手だぜ。コントロール、上手くいかねぇ」
そして視線をマリィに向け、真剣な顔で言った。
「なぁマリィ、少し遠乗りに行かねぇか」
「遠乗り……ですか?」
オルクに誘われるままにマリィは厩舎の前に到着する。
従者が手綱を引いて巨大な怪鳥を連れた。
「たしか…ドルド…?」
マリィが入国の際、城までの移動車を牽引していたのがこの鳥だ。しかし、間近で見るとその存在感は圧倒的で、羽毛の艶や爪の鋭さまで、手に取るように分かる。
「私、乗馬ならできますが……」
騎乗経験はあるものの、ドルドは普通の馬とはまったく異なる生き物。乗りこなす自信はない。
オルクは羽毛に手を沿わせ、ドルドを見やって躊躇いなく撫でる。
「乗馬…?ああ、人間が乗る動物か。ドルドはそれよりも速くて面白いぜ。……その、良ければ二人乗りは……ダメか?」
「いいえ! ダメだなんて……ご迷惑でなければ…」
その瞬間、オルクの顔がぱっと綻び、尻尾はパタパタと揺れる。
緊張のなかマリィは手伝って貰い、ドルドの背にまたがった。少し硬い羽毛が触れて、心臓が高鳴る。
「……大丈夫か?」
オルクが後ろからそっと手を回し、ドルドの手綱を握る。距離は自然と近くなり、マリィはその温もりに思わず体を強張らせる。
「はい、大丈夫……です」
声は小さく、少し震えた。しかし、彼の安心させるような微笑みに、わずかな勇気をもらう。
ドルドが低く羽ばたくたび、二人の体は微かに揺れる。近い距離で肩が触れ、息遣いが混ざる。
「……嫌だったり怖かったらよォ、すぐ言ってくれよ」
「は、はい……」
お互いの目が一瞬合う。言葉にせずとも、互いに心が少しずつ震えているのがわかった。
オルクは背後からマリィを支えながら、ドルドの手綱をぐっと引いた。
「よし、少し速度を速くすんぞ!」
ドルドが力強く蹴りだすと、丘の小道を駆け抜ける風が二人の髪を揺らした。
「えっ!きゃあ!」
マリィは驚きの声を上げる。しかしその声には恐怖だけでなく、どこか楽しさが混ざっていた。笑いが自然に漏れる。
「あははっ、速い!速すぎます!」
マリィは目を輝かせる。胸の奥に高揚感が走るのを感じた。
「楽しんでるな、マリィ」
「はい......!こんなに速くて、でも不思議と怖くないです。楽しい!」
ドルドが羽毛を光らせて低く鳴くたび、二人の笑い声と歓声が丘に響き渡った。
風を切る爽快感と、互いの近さが、マリィの心をふわりと軽くしていく。
丘の上。城下を見渡す草原には、風が吹き抜け、草をなでるたびに青と緑が波のように揺れた。
小さな敷布を広げ、バスケットから簡素な昼食を並べると、マリィはようやく張りつめていた肩の力を抜いた。
「気持ちいいよな、ここ。俺もよく気分転換に来るぜ」
「…オルク様、私のことを気遣ってくれてたのですね。私ったら…」
仰向けになっていたオルクは上体を起こした。
「いや、なんつーかそういう嗅覚は強いんだよ俺は。気にすんなよ、俺も丁度遠乗りしたかったんだ。
でもよ…言えたらでいいが、理由があったら言って欲しい」
再びオルクは仰向けになって空を見上げる。空には2人を護衛する鳥獣人の騎士が旋回し飛び交う。
「……昨日の授業で、番のことや……戦争で利用された話を学びました」
マリィは膝の上で指を重ね、視線を伏せた。
「そのことが、どうしても頭から離れなくて……。だって……人間の歴史書には、どこにも書かれていなかったのです。
……その非道を隠していた」
マリィは自分の胸の奥にある罪悪感を、ようやく言葉に変えた。
「……私は王族として生まれました。人間である私が、このことを知らなかったのは……罪深いことだと感じてしまうのです」
丘を渡る風に、マリィの髪がふわりと舞うなか、彼女の瞳は潤み、けれど逃げずにオルクを真っすぐ見つめていた。
その表情には、隠せぬ痛みと、それでも学ぶことをやめない強さが同居していた。
オルクはしばらく彼女を見つめ、黙って空を仰ぐ。大きな手が、そっと地面の草をちぎっては風に乗せる。
「……マリィ」
低く、穏やかな声。マリィが顔を上げると、オルクの瞳がまっすぐ彼女を捉えていた。
「それは……お前が背負うことじゃねぇ。
あの戦で非道をしたのは、お前の国じゃねえし、お前じゃない」
マリィの胸がきゅっと締めつけられる。けれどオルクは言葉を重ねた。
「それに……歴史書に書かれてなかったからって、お前が恥じる必要もねぇ。
知ろうとしてることの方が、ずっと大事だ」
オルクは手の中の草を風に放り投げた。小さな緑の欠片が空に舞い、すぐに消える。
「……俺はな、マリィ。お前が隠さずに考えて、話してくれたことも、それで十分だと思ってる。
背負う必要なんかねぇんだ。お前は――ただ、お前でいればいい」
その言葉に、マリィの瞳から小さな涙がこぼれ落ちた。
だがそれは、罪悪感の涙ではなかった。胸の奥の重しが少しだけ外れて、代わりに温かな光が差した涙だった。
丘の上で風に揺れる草を背景に、オルクは包みをマリィに差し出した。中には手作りのハムサンドが入っている。
オルクの瞳は柔らかく、言葉よりも優しさが滲んでいた。
「さ、食おうぜ!」
「はい!」
風の音、草の擦れる音、ドルドの羽ばたき……それ以外に聞こえるものはない。
そのとき、マリィの目にひとつの異物が映る。小さな丸い、ぷくぷくしたピンク色の生き物が、彼らの視線に気づいたように首をかしげていた。
「…え?きゃっ!」
「ぴ? むぐむぐ……」
体長はおよそ40センチほど。柔らかなピンク色の短い毛に覆われ、手足は短く、丸みを帯びた体を器用に使ってハムサンドの包み紙を剥がし、口に運んでいる。
「マリィ、離れろ。魔獣の幼体かもしれねぇ…近くに親の個体はいねぇみたいだが…」
オルクは反射的に後ろにマリィを下げ、視線を周囲に巡らせる。上空の騎士たちにも小さな手信号を送り、警戒を固めた。
だが、幼獣はマリィの方を見て小さく首をかしげる。
「ぴ?」
マリィは息をのんだ。あまりの可愛らしさに、自然とため息が漏れる。
「か、可愛い…丸くてモチモチだわ」
幼獣は軽やかにクルクルと回った後、マリィに向かって駆け寄る。小さな体を膝に擦り付け、喜びを全身で表していた。
「ぴぴい!」
「あら、よしよし」
マリィは幼獣の小さな頭を撫でる。オルクはその様子を見て、つい笑みを漏らした。
「こんな魔獣見たことねぇな……ピンクで丸くて、子豚みたいだな」
「ぴぎぃ!」
幼獣はオルクに“子豚”と呼ばれ、気分を損ねたのか、足元に突進する。しかし、その小さな体は跳ね返され、無防備に地面に伏してしまう。
「ぴぐぅ…」
「この子、元気がないみたい……」
マリィはそっと抱き起こすが、幼獣は座り込んだままだ。薄ピンクの毛には砂埃が絡んでおり、保護されなければ生存は困難だろう。
「運が悪かったな…これも自然の摂理だ。マリィ、そろそろ帰るぞ」
幼獣が悲しげな声を上げる。
オルクは目を伏せたマリィを見た瞬間、心が一気にぐらついた。
「うぐっ……」
「ぴーーい……ぴーーい……」
「………ったくよォ…ズルいぜ。おいピンク、お前、運が良いな。ただし、マリィに危害を加えたらドルドの餌だ!」
「ぴ!」
幼獣は小さい尾を振り駆け寄る、
どうやら賢いようだ。
「良かった…ありがとうございます。」
マリィは幼獣を包み込むように抱き寄せたその瞬間、幼獣はマリィの手の甲に甘噛みをしてしまった。
「かぷっ」
「あっ」
オルクの目が鋭くなり、マリィの腕から幼獣を片手で鷲掴みにすると、幼獣の口から潰れたような声が漏れる。
「ぴぎゅう〜」
ドルドが大きく羽を震わせ、幼獣を丸呑みにしようと喉を震わせる。
「テメェ、言った傍から…ドルド、口を開けろ!」
「ぴひーーーー!!」
幼獣は短い手足をバタつかせて抵抗する。マリィは自ら回復魔法を唱え、噛まれた手の傷を浄化した。
「大丈夫です!甘噛み程度なので、傷も治りましたから!ね?」
オルクは表情を少し緩めた。
丘の上の風が二人と小さな命を優しく包む中、ピンクの幼獣は安心してマリィの腕の中で丸まり、か細く鳴く。
「……マリィに感謝しろよな!」
城へ戻ると、マリィが抱えるピンク色の幼獣に、ミラとサフィーの視線が釘付けになった。
「にゃ?!こ、こんな魔獣、初めて見ましたにゃ!」
ミラは思わず声を上げ、サフィーも目を丸くする。
「丸くて、モチモチ……!」
ピコは二人の驚きに気づいたのか、丸い瞳をキョトンとさせ、舌をちょこんと出したまま首をかしげた。
「「か、かわいい〜!」」
城内は一気に歓声で包まれる。側仕えたちは、ピコを前にきゃあきゃあと盛り上がり、手を伸ばして撫でたくて仕方がない様子だ。
一方、オルクはまだマリィの手のかすり傷を気にしている。
「本当に大丈夫か?」
「はい、かすり傷なので大丈夫ですわ」
マリィは笑みを浮かべ、傷の痛みはすでに消えたことを告げた。そして少し顔を輝かせて続ける。
「オルク様、私、あの子の名前を決めました。『ピコレット』通称は『ピコ』です」
「ああ、それっぽいな。『ピコ』か。わかりやすいぜ」
マリィはピコを抱き寄せ、優しく撫でるとほんのり温い。それだけで癒される。
「さ、ピコ……一緒にお風呂で綺麗にしましょうね」
オルクは思わず眉をひそめた。
「は?一緒に……?」
マリィは微笑みを返し、ピコを何度も撫でながら話す。
「きっとお風呂で綺麗になったら、もっと毛並みが良くなりますわ。オルク様も撫でてみてくださいね?」
マリィに抱かれたピコは、安心したように小さく鼻を鳴らし、丸い体をゆっくりと揺らす。側仕えたちも笑顔でその様子を見守りながら、城内に消えていった。
オルクは少し目を細め、歯を食いしばり、遠ざかるピコを見つめる。
「ピコ……あいつ、マジで運がいいぜ」
風に揺れる城の窓辺で、ピコの小さな命は、マリィの手の中で穏やかに生きていた。




