第十話 ジャスティン王子
バルメギア帝国──城下町の宵
城壁の影が長く伸び、空は茜から群青へと移り変わっていた。
高く積まれた石造りの街路は、人と荷車で混み合い、夕刻の喧騒に包まれている。焼き串の脂が落ちる音、花を売る少女の甲高い呼び声、そして喉を焼くような香辛料の匂いが空気を満たしていた。
広場の片隅では瓦版売りの少年が、印刷のにおいがまだ残る紙束を片手に叫んでいる。
「号外ー! 魔族がまた辺境に疫病をまいた!」
「討伐軍、皇帝陛下の名のもとに快進撃中!」
その声に足を止める者もいれば、鼻で笑って通り過ぎる者もいた。
大通り中央の大劇場では、真紅の緞帳が上がり、太鼓と笛の音が鳴り響く。
舞台では「勇者」が銀の剣を振り下ろし、異形の魔族を倒すたび、客席からは拍手と歓声が湧き上がった。
外に出た子どもたちは棒を剣に見立て、「魔族退治ごっこ」に夢中になっている。
だが、裏路地の奥にある古びた酒場は、別の熱気を孕んでいた。
低い天井、煤けた梁、満ちるのは麦酒の芳香と煮込み肉の濃厚な匂い。
一階の片隅では農民や職人たちが肩を寄せ、酒に口をつけながら噂を交わしている。
「おい、ルミナフローラの姫の話、知ってるか?」
「ああ、魔族の侵攻を鎮めるため、自ら人柱となって魔界へ行ったって話だろ? ……泣けるよな」
「だがよ──あれ、実はうちの政府が圧力かけたって噂もあるぜ」
「ハッ、ありそうな話だ。あの連中ならやりかねねぇ」
その時、外から軍靴の音が響き、窓際の客が顔を上げた。
通りでは旗を掲げた兵士たちが行進の訓練をしている。
「明日の軍事パレードの準備だとよ」
「ったく……不況続きなのに、どこに金を使ってやがる」
農民の男達は酒混じりのため息をついた。
階段を上った二階席では、黒い外套の政府役人たちがテーブルを囲みながら杯を傾けていた。
「あー……疲れた。俺らの給料、上げてくれなきゃやってらんねぇな」
「エネルギー大国なんて言ったって、豊かなのは王族と貴族だけだ。軍備に金を吸われて、俺ら庶民は干からびる一方だぜ」
「おい、声を抑えろ。近衛に聞かれたら反逆分子扱いだ」
ボリボリと豆の素揚げを口に運び咀嚼する
「上等だ。常勝って言うくせに、いつまで戦ってんだよ」
不満を込めて酒杯をドンとテーブルに強く置く。
「常勝なんて看板だろ。魔族も俺たちと同じくらい発展してるって噂だ。……庶民が割を食うのは、まだまだ続くな」
「そういや生贄として魔界に行ったルミナフローラの姫…生きているらしいぜ?なんと魔族の王が見初めたとか言う話も…」
どっと笑いが沸き起こり、何人かは嗤いながらテーブルを叩いた。
「ガハハ!まさかだろ!魔王も俺等と変わらねぇ男ってか!あ、噂といえばバルメギア第四皇子のスネカジリが…」
杯がぶつかる音と、低く押し殺した笑い声。
外では行進の掛け声が響き、内では民の鬱屈した吐息が溜まっていく。
その夜の城下町は、煌びやかな灯りに照らされながら──影の濃さを増していた。
※※※
魔界大陸・ファングレイヴ城内…
白鳳の塔──黒壁が陽光を吸収し、塔の影は長く石畳に伸びていた。
一日の学びを終えたマリィは、木製の重い扉から出ると、ふわりと木の葉かおる風に迎えられる。高く澄んだ空気に、遠くの鐘楼の音と鳥のさえずりが混じって響く。
彼女は両腕を天に伸ばし、肩をほぐすように背伸びをした。胸いっぱいに吸い込む空気には、木々の匂いがあった。
「お疲れ様ですマリィ様ぁ。少しこの中庭で休憩いたしましょうかぁ」
眠気を誘うようなのんびりとした声は側仕えのサフィー。
中庭の真ん中、枝ぶりのよい樫の木の下に据えられた石造りのベンチへと、彼女はゆっくり歩み寄る。懐から大判の布を取り出し、ベンチの上に丁寧に敷いた。白布の端が風に揺れ、緑の芝生にかすかに触れる。
「ありがとうサフィー。私が寄れば、貴方も座れるから座って頂戴ね?サフィーだって私の側でずっと授業を受けているようなものだもの」
マリィの声には、労わりの色があった。
「私は側仕えですし〜、マリィ様の護衛でもありますからいいんですよぉ。
……でも、お言葉に甘えちゃいます〜」
サフィーがそっと腰掛けると、陽の光が白い頬を照らし、その肌にほんのりと紅が差した。
「ふぅ……いちから魔界大陸の歴史を勉強するのは壮大で大変だわ。知らないことを知るのはとても面白いけどね」
「私が聞いてもわからない事だらけですぅ、マリィ様とても勤勉で…無理なさらないでください〜」
「ええ、ありがとうサフィー」
マリィは軽く笑いながらも、疲れの残る目頭を指先で押さえる。
枝葉の間を抜ける風が二人の髪を揺らし、淡い花の香りが漂った。噴水の水音が遠くから絶え間なく響き、庭の小道を小鳥が横切る。
ここだけは、白鳳の塔の重厚な学び舎とはまるで別世界のように、やわらかく静かで、緑に満ちた時間が流れていた。
「きゃあ〜!」
静かな空間には似つかわしくない、複数の女性の明るい声が重なった。
マリィはサフィーと顔を見合わせ、小首をかしげて視線を渡り廊下へと向ける。数人の側仕えが集まっていた。
「何かなぁ…あれれ〜?ミラ?」
サフィーが目を凝らして呟く。
渡り廊下の先には、薄青色のさらりとした髪を揺らし、薄灰色の耳を揺らす猫獣人の側仕えミラがいた。彼女は他の側仕えの娘たちと楽しそうに盛り上がっている。
その視線の先には、一人の若い男性が立っていた。
「…誰かしら、騎士団の方?」
彼が身に着けている銀色のスマートなミドルアーマーは、西ファングレイヴ王国のものではなかった。
男は辺りを見回し、やがてマリィに気づいてゆっくりと近づいてくる。サフィーが咄嗟に席を立つと、マリィもそれに倣って立ち上がった。
「ま、マリィ様ぁ、あの方は…」
「こんにちは!」
その男はマリィのすぐ目の前に立ち、高さはおよそ180センチ。スラリとした背丈でありながら威圧感はなく、爽やかな声と微笑みを浮かべていた。
燃えるような紅い髪が風になびき、白い肌に映えるそばかすが整った甘い顔立ちを彩っている。
先に跪いたサフィーが丁寧に挨拶を述べる。
「東エルグランド王国、ジャスティン・エルグランド王子殿下…ご健勝で何よりと存じ上げます」
マリィは表向きは平静を装うが、内心は驚きで揺れていた。
(この方が…!教えてくれて、ありがとうサフィー!)
「はじめまして、ジャスティン・エルグランド王子殿下…お目にかかれて光栄です。ルミナフローラ王国第三王女、マリィ・ド・ルミナフローラと申します」
マリィが跪きながら口上を述べると、ジャスティンは目を細めて懐っこく子どものように笑った。
「へえ!キミが、あの姫さん!」
王子にしてはビックリするほどラフな話し方でマリィは目を見開いたが、前例がある。…オルクと初めて会話した時のことを思い出していた。
「うふふ、はい…おそらく『あの』姫で間違いないかと」
マリィの返答に、ジャスティンはフハッと吹き出し、頭をかいた。
「あ、いけね!他国の姫さんに…言葉遣いにびっくりするよな?でも俺、公の場ではちゃんとできるからさ!
…オルクの奴が姫を呼んだって聞いて、仕事の話ついでに挨拶に来ようと思ってたんだよ。
でも、肝心のオルクがいなくてさ…まぁ、アポは取ってなかったからなんだけど」
マリィはサフィーに顔を向けると、サフィーは柔らかく言葉を紡ぐ。
「オルク陛下は、今は軍務会議中かと思われますぅ」
「あー……やっぱ、アポなしの俺が会議室にいきなり入れないよなぁ」
その声音には少し残念そうな響きが混じっていた。確かに、他国の王子が単独で会議に乱入してきたら、大臣たちが腰を抜かす光景は容易に想像できる。
「じゃあ、オルクが来るまでお話しない? マリィ姫、もちろん羊の君もな」
白い歯をちらりとのぞかせる笑顔は、まるで童話から抜け出してきた理想の王子そのもの。長く豊かな睫毛、すっと通った鼻筋、絹糸のようにさらさらとした赤髪が光を弾く――
(……そりゃ、側仕えの娘たちが騒ぐのも無理ないわね)
マリィは、頬を真っ赤に染めて恥じらうサフィーを横目で見やる。
その少し離れた場所では、ミラたち側仕えが羨ましそうにこちらを眺めていた。
「ジャスティン陛下……お話は、たくさんのお花がある方がきっと楽しいですわ」
マリィが手招きすると、ミラたちは戸惑いながらも嬉しそうに近づき、ジャスティンの前で跪き、頬を染めながら礼をした。
「ハハハッ!マリィ、やるなぁ!」
「いえいえ、私はただ……他国から来た私にも親切に尽くしてくれる側仕えたちを、自慢したかっただけですわ」
「んにゃ……」
ミラは猫耳をぺたりと倒す。他の側仕えたちも、照れ隠しなのか耳や尻尾を小さく揺らしていた。
「ファングレイヴの家来たちは忠誠心が高いからな。良い主には、良い家来が自然と集まるってことだ。な、マリィ姫」
そのとき――
「あーーーー!!!」
中庭に野太く大きな声が響き渡った。
その瞬間、どこからともなく影が落ち、巨躯が『上』から舞い降りる。
地面がダンッと震え、舞い上がる土埃の中から現れたのは、見慣れた獣人の王――オルクだった。
突然のことに側仕えたちは皆驚き、何人かは小さく悲鳴を上げる。
見上げれば、上階の窓から近衛騎士たちが青ざめた顔でこちらを覗き込んでいた。
(あ、やっぱり……飛び降りたのね)
「おう、オルク!遅ぇぞ」
「ゴルァ!ジャスティン!てめ……ま、マリィに……その……」
ジャスティンとマリィの間に割って入ったオルクは、睨みつけるように相手を見たものの、気まずそうに視線をそらし、口ごもる。
「ああ!別にちょっかい出してねーよ!他国の姫だしな」
「じゃあ……いいけどよォ」
あっさりと引き下がったオルクにジャスティンは軽く蹴飛ばしたが、オルクの身体は1ミリも動かなかった。
「おら、行くぞ!狩猟しながら軍事会議だオルク!付き合え!…じゃあなマリィ姫!君達もな」
ジャスティンは宝石のように煌めく緋色の瞳でマリィ達にウィンクをすると、側仕えたちが頬を染めて「きゃあ〜!」と黄色い悲鳴をあげた。
オルクはマリィの顔をチラリと見ると、顔色を変えることなく跪いて礼をしているだけだったので、安堵してジャスティンとその場を後にした。
※※※
西ファングレイヴ王国から怪鳥ドルドに乗り30分ほど…広大な森の端に広がる深い谷。ところどころ岩肌が剥き出しになり、無骨な表情を見せている。風が木々の葉を揺らし、そのざわめきが谷全体に響き渡る。
遠くからは魔獣の咆哮が幾度となくこだまし、不気味な緊張感を漂わせていた。
草の匂いと湿った土の香りが入り混じるその場所は国が所持する狩場で、兵士の訓練場のひとつである。
ジャスティンは谷を見下ろしながら、口の端を吊り上げた。
「オルク…まさか“あの時”の姫を本当に呼ぶとはね。いいじゃねぇか。可愛くて、賢そうだしな。で?もうあの姫さんは、番になるって頷いたんだろ?」
彼は鞘から長剣を抜き、陽光を受けて銀色の刃が鏡のように光を放った。
「……いや、まだだ」
「は?婚姻を前提に来たんだよな?なのに意思はないって?!」
驚きに目を丸くするジャスティンを、オルクは視線を逸らしながら答えた。
「色々と行き違いがあった。でも改めて申し込んで、マリィに頷いてもらう」
「……拒否されたら?」
「諦めずに、頑張る!」
気まずそうに呟くその姿は、一国の王というよりただの恋に不器用な青年だった。ジャスティンは思わず吹き出す。
「ガキかよー。でも、獣人族にとって番ってのは相当なもんなんだな。
……ま、いいさ。相談くらい乗ってやる。それより――今度の三国合同軍事訓練、俺ん所の国でやるだろ?マリィも連れて来いよ」
ジャスティンの緋色の瞳が爛々と燃える。どうやら親友の恋の成就に、ひと肌脱ぐ気らしい。
その時、茂みから音もなく、1メートルはある獰猛な齧歯類の魔獣――イービルラッタが飛びかかってきた。
だが二人とも視線すら向けない。ジャスティンが軽く剣をかざすと、魔獣の体から炎が吹き出し、次の瞬間、一閃で地に伏した。
「エルグランドも悪くねぇな。マリィの気分転換にもなるだろ」
オルクの脳裏には、国特有の花や植物が浮かぶ。彼女への贈り物にすれば、祖国から離れた寂しさを少しは和らげられるかもしれない。
ふと横を見ると、ジャスティンがニヤニヤと緋色の目を細めてこちらを見ていた。
「……なんだよ、その顔は」
「いやぁ? 狩りと鍛錬大好きな脳筋が、今じゃ恋する乙女みてぇだなって!」
オルクの獣耳と尻尾がピンと立ち、鋭い視線がジャスティンに突き刺さる。
「てめぇ!ジャスティン、調子に乗んな!」
「おっと、捕まえられるもんなら捕まえてみろ!」
魔獣の唸り声と木々のざわめきに混じり、谷に響くのは騒がしい男二人の声だった。
魔界では戦場育ちは王族であれ言葉荒れがち。人間界の王族ではあり得ないことでしょうが…まぁ世界が違うので…