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■第2話『ファンです、とは言えない応援席』


四月の終わり。

東京・六本木の映画館には、熱気があふれていた。


舞台挨拶――主演女優・綾瀬ほのかの完全復帰作。

恋愛映画『白昼の月、君を待つ』の封切り当日。

華やかなドレスに身を包み、満面の笑みを浮かべたほのかがステージに立っていた。


客席の最前列。

そこにいたのは、誰にも気づかれないようフードを深くかぶった佐伯瞬だった。


“妻”が、スクリーンの中で恋をしていた。

“夫”である自分は、舞台下で“ただのファン”としてその姿を見ている。


――なんて、皮肉なんだろう。


けれど、それでも見たかった。

彼女が再び“女優”として輝く瞬間を。



舞台挨拶後、関係者専用の出入口付近。


瞬は廊下の柱の影で、スタッフに気づかれないよう息を潜めていた。

やがて現れた、グレーのロングコートに身を包んだ女性。

マスク越しでもわかる、たったひとりの人。


ほのかが立ち止まり、誰もいない空間でそっと言う。


「……来てくれてたんだね」


「うん。君の“晴れ舞台”だし」


「見てて、どうだった?」


「正直……ちょっと、嫉妬した」


「ふふ、どこに?」


「画面の中で、他の男とキスしてたとこ」


ほのかは、ふっと目を伏せ、そして笑った。


「でも、ちゃんと演技に見えた?」


「見えたよ。……でも、俺は知ってる。

君の“本当のキス”は、あんなもんじゃないって」


ふたりの間に、静かな熱が生まれる。

けれど、人の気配を感じた瞬間、ほのかは表情を戻した。


「じゃあ……また家で。

今夜は“ファンじゃないキス”、してあげる」


瞬は、頷くだけで精一杯だった。



夕方。

大学の構内。

食堂でいつもの仲間たちと遅めの昼食を取る瞬。


「今日、午後の授業出てた? 瞬、どこ行ってたんだよ?」


「え、あぁ……ちょっと、用事で」


「まさか彼女とか?」


「いないって言ったろ。……まだ」


“まだ”。


その言葉の裏に込めた意味を、誰も気づかない。


彼女は、スクリーンの中では別の男と恋をしている。

でも、現実では自分だけに向けて、

“いってらっしゃい”も“おかえり”も“おやすみ”も言ってくれる。


誰にも言えないその日常が、

瞬にとっての“いちばんの誇り”だった。



夜。

帰宅した瞬を出迎えたのは、

キッチンでカレーを温めていたエプロン姿のほのかだった。


「おかえり、大学どうだった?」


「忙しいよ、でも……君の舞台挨拶よりは緊張しなかった」


「ふふ、それなら良かった」


ふたりは並んでカレーを食べ、

食後にソファに座ると、ほのかが唐突に言った。


「ねえ……“ファンのふり”するのって、しんどくない?」


瞬は少し考えてから、首を振った。


「君が“女優”として戻ってくれたなら、それでいい。

ただ……帰ってきたら、俺の“奥さん”でいてくれたら、それでいいよ」


その言葉に、ほのかは目を伏せて、そっと唇を寄せた。


そしてその夜――

誰にも見せない、本当のキスを、ふたりは交わした。


甘く、長く、深く。

言葉よりもずっと濃密に、想いが伝わるほどのキスだった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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