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■第10話 『ファンじゃなくても、あなたを愛してる』


静かな午後、都心から離れた小さな海辺の町。

ふたりの姿は、観光客も少ない桟橋の先端にあった。


潮風に吹かれながら、綾瀬ほのかはサングラスとキャップを軽く外す。


「……やっと、呼吸できた気がする」


佐伯瞬は、少し照れくさそうに笑って、缶コーヒーを差し出した。


「お疲れさま、国民的女優さん。

この町じゃ誰も君に気づかない。安心して、ただの“俺の妻”でいて」


「うん。そうさせて」

そう言って微笑む顔は、テレビの中の“綾瀬ほのか”ではなく、

佐伯瞬の隣に生きる、ただのひとりの女性だった。



結婚発表から数週間。

彼女は詳細を語らず、会見以降メディアへの露出を抑え、仕事も最小限に絞った。


誰にも明かさなかった“本当の結婚相手”――佐伯瞬。

それでも彼女は、何も後悔していなかった。


結婚式もしていない。指輪もつけられない。

それでも、二人は心でつながっていた。



「そういえばさ、式……結局しないままでいいの?」


瞬がぽつりと聞くと、ほのかは小さく首を振った。


「ううん。……したいよ。

でも、“みんなに見せる式”じゃなくていい。

私たちだけの、世界で一番小さくて、一番幸せなやつ」


「たとえば?」


「この町の小さな教会で。牧師もいなくていい。

代わりに、瞬くんが私の目を見て――“愛してる”って言ってくれたら、それで」


沈黙。


瞬は数秒間、空を見上げてから、彼女に向き直った。


「じゃあ、今ここで言うよ」


ほのかが一瞬、目を見開いた。


「なに言って――」


「ファンじゃなくても、あなたを愛してる。

俳優でも、女優でも、ファンでもなくて――

ただの男として、ただの女として、……俺は君を、一生愛する」


彼の声はまっすぐで、どこまでも静かで強かった。


ほのかの瞳に、涙が浮かんだ。


「……うそつき。そんなの……式よりも、ずっと泣けるじゃん」


瞬は、ポケットから取り出したものを、そっと差し出した。


小さな、小さな、木製の指輪だった。

通販でも買えるような、安くて、でも優しい素材のペアリング。


「有名人の奥さんに、これじゃ恥ずかしいかもしれないけど…………俺にできる精一杯の贈り物。」


ほのかは、涙をこらえながら笑った。


「ううん。最高。いちばん綺麗な指輪。

だって――“あなたにもらった”ってだけで、世界にひとつだもん」



ふたりは、指輪を交換した。

証人も、カメラも、記念写真もない。

けれどその指輪は、誰にも壊せない“約束”になった。


「これからも、秘密のままでいるの?」


「うん。しばらくは。

でも…… もしいつか、あなたが“堂々と一緒に歩きたい”って思ったら、そのときは――私が、全部投げ出してでも、あなたを選ぶよ」



海風が、やさしく吹く。

誰にも知られず、誰にも見えない場所で、

ふたりだけの“結婚式”は、ひっそりと幕を下ろした。


そして――物語は、静かに始まった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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