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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

野ざらし姫

春はあけぼの。

やうやう白くなりゆく山ぎは、

少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

        

          「枕草子」冒頭より

貴族様の侍女をお務めなさった叔母様は、昨年、享年三十八で儚くなられた。ご子息が二人いらっしゃった。私の従兄弟にあたる彼らもまた、侍従としてそのお家がお入りになった。

私が商家へ奉公に出ている間、次男様の行方が分からなくなった。三日ほど経った早朝に東山の荒野で亡くなられた状態で見つかったという。

涙が溢れることはなかった。二度か、三度しか会ったことのない人だったからだ。叔母様に似て、上品な振る舞いをなさる方、以外の印象はなかった。従兄弟だとしても生きる場所が違った。生まれた身分と品格は異なるのだ。


次男様が見つかったのは東山の荒野。野に骸を置かれた。死体というのは実に汚らわしく、触れてはいけないモノなのだ。野ざらしと呼ばれそのまま放置される。高貴なお方は美しき炎の中で躰ごと永眠なさるが、どこで生きようと所詮平民ではその野に置かれたこと自体が光栄の極まりである。しかし、そちらへ赴こうと思い立ったのは全くの偶然であった。自らが進んでいく場ではない。


「御兄様…」

鼻の中を抉るような匂いの中、麗人がそこにお立ちになられていた。まるでその場所だけ柔らかな春の風が吹いているようだった。けれどその足元には、まだ白骨になりきれていない骸があった。

「そちらのお方はもしや……」

凪いだ目がこちらをじっと見つめる。

「我が最愛の弟よ」

ヒュッと息を呑んだ。あまりにも、惨たらしい有様。


一歩、足を進めた。

それは私の中で最も醜い行動だった。

「御兄様」

その人は穏やかな笑みを絶やさない。

また一歩と足を進める。

「御兄様」

香が焚きしめられた袖が少し動くだけでも、その香りが辺りを包む。私の足元にも、もうその骸はあった。


ーー御兄様の胸はとても温かかった。

 顔をそっと埋める。


御兄様も穏やかに微笑んだまま、私を抱きしめた。

「なぜ、この方は……」

顔を御兄様の胸にうずめながら問うた。

「我が弟があまりにも美しかったのだ」

見上げた先にもまたこの世のものとは思えぬ美しいお顔があった。

「お前は間男というものを知っているかい?」

私は知っていたけれど、そのお声をもっと聞いていたくて「いいえ、いいえ御兄様。わたくしには分かりませぬ」とそう答えた。

御兄様はわたくしが知っていることを悟っていた。当たり前のことだ。仏のような御兄様に分からぬことがあるはずがない。

「我が主は女を愛さない。奥方様もそれを知っていらっしゃる。奥方様は母上を信用なさっていた。だから我が弟を奥方様の侍従頭に、私を旦那様の側仕えとして雇うてくださったのだ。その意味が分かるか。母上を信用して、『浮気をしても目を瞑れる愛人』をお作りになられたのだ。私たちはね。彼らが初めて互いに贈りあった、贈り物なのだよ。けれど、弟はあまりにも美しくて純粋だった。旦那様には内緒で、奥方様は弟と何度も夜を重ね、身籠られた。弟の子よ。弟は純粋だったのだ。“奥方様を身籠らせたのは私の責任。この御子は私が全てを尽くしてお育て致します”奥方様にそう言ったのだよ。旦那様にもその旨を伝えていた。人の醜い心を知らぬのだ。子は宝。当然に奥方様は喜ぶのだろうと。彼女は泣いたよ。“私にはもう尽くさぬのだな”旦那様は弟の頬を張り飛ばした。“私たちから逃げるためにあやつの子を育てるだのと申したのだな”

そのようなお方たちなのに、我が弟は彼らを共に愛したのだ。可哀想な人たちだ、と。あろうことか、貴族を憐れんだのだ。無償の愛と共に」

御兄様は私を抱いたまま、静かに野に腰を下ろした。私は彼の上にのっていた。私の頭を彼は話しながら、撫でていた。

「弟はね。自ら命を絶ったよ。私に赤子の預け先だけ伝えて。あとはお願いします。その子の名は兄上にお任せ致すと」

彼は野に横になった。私の唇は彼の首元にあった。

「ねぇそうだろう。赤子はどうだい?美琴」

私の顎にしなやかな指先がかかった。

「もぅっ!御兄様ったら意地の悪いこと」

「それはすまないね」

「元気に過ごしておりますわ。乳が出るように、わたくしも男を雇って身籠り、あの子にあげているのですわよ」

「ありがとう。弟に代わって礼を言うよ。でも、お前。愛した男以外の子は生まぬと言っていたのではないか?」

「えぇ。愛した男の子がこの腹の中にいますわ」

「私の驕りだったようだね」

「いいえ?わたくしは貴方をお慕しゅう想っております」

「では……?」

「わたくしの幼馴染よ。父様が雇ってくださったの。私は平民でも、父は貴族だから」


「愛するひとを決められなくて、誰が女と言えますか」


「さぁ、御兄様。お眠りのお時間ですわよ」

麗しき唇に接吻をした。

「あぁ、そうだね」

「心配事はありませんわ。今頃、わたくしの幼馴染にお貴族様は熱を上げられているようですから」

「君の計らいだね」

「まぁ、面白いことをおっしゃること。彼が行きたいと言っておりましたのに」

「そういうことにしておこう」

「御兄様」

「なんだい?」

「あの女狐に接吻されたところはどこですの?」

「心の臓の上のあたりだよ」

「あらぁ!誓いでも交わすつもりかしら。あの女」

「かもしれないな。なにしろ、弟をずっと探していのだから。似ているからね、私は」

彼の胸元から少しずつ着物を崩した。

「こちらでよろしくて?」

「あぁ」

いやらしく、接吻をした。


「そろそろ、あの子が泣く時間だから行くわ。御兄様」

「うん。ありがとうね」

「……愛していますわ。わたくし、貴方だけは決められませんでしたの」

「なんともまぁ、情熱的な告白だね」

「それくらいしないと、貴方は目を逸らしますもの」

「その通りだ。俺をよく分かっている」

「俺だなんて」

「最後は、ね」

「そうですわね。では」

「あぁ。頼んだよ」

目を瞑り、野の上で眠った。





美琴という女には、二人の子がいた。

一人は見目麗しい男で、

もう一人は、愛らしい女だった。

美琴とはとても狡猾な女だったが、加えて思慮深く、慈愛深い女でもあった。

彼女は子を慈しみ、夫を愛した。

とある貴族の愛人として生きる夫は、

朝は彼女を酷く罵り、夜明け前に帰ってきた頃には、眠る彼女の頬に愛おしげに接吻を落とした。

彼女は自分がいかほどに罪深いかをよく理解していたし、夫も彼女に騙されていることを了承した上で、愛人として通っていた。毎日、家に帰れているのも、彼女が貴族に丸一日、土下座をして頼み込んだからだ。

けれど、彼女の夫の心は疲弊していた。

子供が成人して、夫婦で一息ついていたころ、夫は、二人のとある貴族を殺した。

そのときに、彼女の夫は兵に首を飛ばされた。

夜明け前に彼女の元に帰ってきたのは、夫の首だった。

「わたくしの罪よ」

そう言って、彼女が自ら衛兵に自分の首を切るように言った。

彼らは躊躇った。美琴は殺された貴族の異母妹だったからだ。しかし、庶子だった。

そこで、彼らは問うた。「どのように死にたいか」

彼女はこう答えたと、記録に残っている。

「東山の野で、夫の首を抱いて死にたい」

しかし、首を切って死ぬとか、毒で死ぬとか具体的な死に方を言わなかった。

そして衛兵たちはもう一度、問うた。

「どのように死にたいか」

彼女はこう答えた。

「睡眠薬で眠ったまま、狼に喉笛を噛みちぎられたい」

記録に彼らは残さなかった。


そしてそれは実行された。

彼女は狡猾だった。

愛する男二人の横で死んだのである。

加えて、彼女は愛することのできる女だった。

かつての幼馴染を抱いて、盗賊に高貴な衣を剥ぎ取られて全て骨の見える従兄弟に背を向けて眠った。

もう別れを告げた。愛したことも伝えた。

だから、彼女は最後まで夫を愛して死んだのだ。



ただ、予想外だったのは睡眠薬が切れるまで狼が彼女を見つめるだけだったことだ。

卯月。

夜が明けたとき、彼女は目を覚ました。

もう一度、瞬きしたとき。

彼女の視界は血で覆われて、そのままこと切れた。

享年三十二。

その女は死んだ。









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