その二
何年振りの電話だろう。
ここ十年は年賀状だけのやり取りになっていた。
互いの年賀状に電話番号やメールアドレスは乗っていたが、わざわざ大袈裟に電話やメールでやり取りすることはない、そのうち会おうと思い、そのうちそのうちといつしか時間ばかりが過ぎていったのだった。
画面に映る名前を見つめているうちに、ふっとたかちゃんの子供の頃の顔が脳裏に浮かび、懐かしさに、画面をタッチする手に力がこもった。
やぁ、久しぶりです。
お互いに月並みな挨拶を交わす。
たかちゃんどうしたの。
思わず子供の頃のあだ名が出た。
聞いてみれば、今は出張で此方に来ているという。では一緒に飲もうとなり、場所を伝えた。
十分位で行くという。
電話を切り、彼はにわかに落ち着きを失ない、やけにそわそわする。十年ぶり位だろうか。会ったらなにを話そうか。いやその前に寒いなか来てくれるのだから暖かいものを用意しておこう…。
お爺さんにおでんと熱燗を二本頼んだ。やはりうきうきしていた。
どうしたの。お友だちかい?
ええ、久しぶりなんです。そいつは良かった。
お爺さんもお婆さんも良かった良かったと喜んでくれた。
友あり、遠方より来る。うきうきせざるを得ない。
そわそわと時計を何度か見た。やがて十五分ほどたっただろうか、ガラガラと戸が開いて、小柄ないがぐり頭の男が入ってきた。
ぱっと見て、判った。
たかちゃんだった。
やぁ。
彼の方を見て、小さな顔をくしゃくしゃにして笑った。
彼も嬉しくて、久しく見せたことの無いにこにこ顔をしながらたかちゃんに手招きする。
隣の席に座ったたかちゃんは彼の肩をポンと叩いて訳もなくはは、と笑った。
久しぶりです。
互いに照れたように笑い合い、まずは一杯と、用意しておいた熱燗を酌み交わす。
たかちゃんの口からホッとため息が出た。
寒い日はこれが一番だね。本当に。
暖かいうちにどうぞ。
お爺さんが頼んでいたおでんの盛り合わせを出してくれた。
彼とたかちゃんとほかほか湯気のたっている大根からつつく。出汁がしっかり染み込んでいて、口のなかでハフハフしているうちに自然とその形がほぐれてきて旨味が口一杯に広がっていく。
ああ、うまい。
彼とたかちゃんと同時に感嘆の声が漏れた。
顔を見合せて、クスリと笑う。
十年は長いようであっという間だった気もする。
互いの容貌はそれなりに十年分老けて、もうすっかりおじさんである。彼も四十になって体力的にはまだなんとかなっているが、気力が随分弱くなった。何事にも根気がなくなり、何かに夢中になれなくなった。
たかちゃんは昔からのいがぐり頭にいくらか白髪が見えていた。
年取ったなぁ、と思う。
それでも、心自体はそんなに変わらないものである。ましてや美味しいお酒があれば、二人の間の十年はあっという間に酒の肴になる。
元気かい、なんとか。結婚はまだ、はは、彼女もいないよ。仕事はどう、ぱっとしないね。故郷の景気はどう、はっきりいって良くない。魚も最近はなかなか取れなくてね…。小中学校の同級生のその後について、あいつは離婚して独り身だとか、大人しかったあいつが今じゃ五人の子持ちだよ…等々、時にはうなずき、時には笑い、時にはしみじみと、積もる話はなかなか尽きなかった。
こんなに夢中になって誰かと話すのは何年ぶりだろう。
あれやこれやと話しているうちに、彼の脳裏にふと懐かしい顔が浮かんだ。
小中と同じ学校だった、ゆう子というスラッとしたえくぼの可愛い女の子がいた。
生まれつき一寸脚の悪い彼女は左足を少し引きずるように歩いていた。
その歩き方が彼女の儚さを一層引き立てるような感じもあって、彼女は小さな田舎には珍しい色白の大人しいお姫様のような気品を漂わせた存在であった。
病弱でしばしば学校を欠席するような彼女はやはり運動も苦手だったので、体育はいつも休んで校庭のすみっこで目立たぬよう静かに本を読んでいた。その儚いたたずまいが今眼前に見えるような気がした。
同時に彼は甘酸っぱいような古いときめきに胸の奥の方がキュッと締め付けられるのを覚えた。
たかちゃんと彼と、クラスの男女数人で小高い丘の上にある彼女の立派な家にお呼ばれしてちょいちょい一緒に遊んだものだ。彼女の家にはコリー犬がいた。遊びにきた彼等を見て、いつも尻尾を軽く振っていた。彼女に似て儚い美しさのお母さんは、脚の悪い娘の事が心配だったのだろう、帰り際にいつも、また遊びに来てやってね、ゆう子をよろしく、と彼等に頭を下げた。コリー犬が門扉まで見送りに来てくれるのだ。
つまり、一寸ばかり彼等よりも上品なお家であった。
彼女の家ではトランプやファミコンやオセロをしたり一緒に宿題をしたり本を読んだり寝転んだり。また彼女は本をよく読んでいたので博識であり、彼等の知らない話を面白く教えてくれたりもした。
また彼女のお母さんが作ってくれるおやつや紅茶の美味しいことったら無かった。彼女に会いたい遊びたい気持ちにはいつもいい香りの紅茶のイメージがついてきたものだ。
彼女はクラスの男子の一部にとって憧れのマドンナであった。
そうだ。彼女は彼の遠い初恋らしき相手でもあったのだ。
けれども、彼等の世界と彼女の世界にはほんの僅かなカーテンがあった気もする。深窓の令嬢。高嶺の花。その生活の格差。そんな気配を子供ながらに感じていたのかも知れない。