第5話『おまじない』
9月6日、火曜日。
いつもと同じくらいの時間に目が覚め、いつも通りの平日の朝の時間を過ごしていく。すぐ近くにいる人が風邪を引いたのもあり、こうして健康な状態で一日を迎えられることを幸せに感じる。
朝食を食べ終わって自室に戻ったとき、
「……そうだ。あおいに体調は大丈夫かどうか訊いてみるか」
昨日の夕方の時点で結構元気になっていたけど。念のために、あおいに体調についてメッセージを送ろう。
ベッドの枕の側に置いてあるスマホを手に取り、スリープを解除すると……画面上にあるステータスバーにLIMEマークが表示されている。誰かがメッセージを送ったのかな。
ステータスバーを下にスライドすると、5分前に愛実からグループトークにメッセージが送信されたと通知が表示される。
愛実が朝にメッセージを送るなんて。珍しいな。もしかして、俺と同じであおいの体調を訊いたのかな。そう思って通知をタップすると、いつもの6人がメンバーとなっているグループトークが開き、
『風邪を引きました。なので、今日は学校を休みます』
「えっ」
まさか、愛実が風邪を引いてしまうなんて。予想もしない内容だったので、思わず声が漏れてしまった。
昨日、俺と一緒にいたときは愛実は元気そうだった。そんな愛実が今日になって風邪を引くとは。
考えられる原因の一つは……あおいの風邪がうつったことかな。昨日はあおいの家に2時間以上いたし。その間に、あおいが何度か咳をすることもあったから。愛実は課題をしたり、あおいにノートを写させてあげたりしたときはあおいの近くに座っていたし。
原因は何であれ、愛実が風邪を引いたことは事実だ。
『分かった。学校に行く前に様子を見に行くよ』
というメッセージを送った。様子を見に行くことで愛実が元気になったら嬉しいな。
また、あおいに向けて、
『あおいの方は体調は大丈夫か?』
とメッセージを送る。愛実が風邪を引いたと知ると、あおいが再び体調を崩しているかもしれないと心配になる。
あおいに向けたメッセージを送ってすぐに『既読1』とマークが付き、
『私は元気ですよ、涼我君。なので、今日は学校に行きます。ただ、その前に私も一緒に愛実ちゃんの様子を見に行きます』
と、あおいから俺に向けられたメッセージが送られた。
あおいは学校に行けるほど元気になっていたか。それを知って凄く安心した。
『分かった。この後、一緒に愛実の様子を見に行こう』
とメッセージを送った。あおいはトーク画面を開いているのか、すぐに『既読1』とマークが付き、了解の旨のメッセージが送られた。
また、その直後にあおいからメッセージが送られたと通知が届く。その通知をタップするとあおいとの個別トーク画面が開き、
『学校に行くとのことですが、涼我君は大丈夫ですか? 愛実ちゃんが風邪を引いたのは私が風邪をうつしてしまったからかもしれないと思いまして』
というメッセージが表示された。
昨日は自分が風邪を引いていたんだ。お見舞いに来てくれた愛実がこのタイミングで風邪を引いたと知れば、自分がうつしてしまったのではないかと考えるのは無理もない。何回かあおいは咳をしていたし。愛実と同じ時間滞在していた俺の体調も気になるのだろう。
『俺は平気だ。健康だよ』
『良かったです。あと、予防のためにマスクを付けて、愛実ちゃんの家に行きましょうか』
少しの間だけど、マスクを付けた方が確実だな。
あおいからうつったのが原因だと決まったわけではない。ただ、だいぶ元気になっていたとはいえ、お見舞いに行ったときにはあおいの咳は少し残っていた。マスクをするか、短時間で帰るかすれば、愛実は今も元気だったのかもしれない。反省だ。
身だしなみと持ち物チェックをして、俺は自分の部屋を出る。いつもは部屋の窓を開けて愛実と少し話すけど、今日はそれもなく。だから、ちょっと寂しい気持ちになった。
お弁当と水筒を入れにキッチンへ向かう。
キッチンに母さんがいたので、今度は愛実が風邪を引いたと母さんに伝える。今日は昼前からパートがあるので、午前中に愛実の様子を見に行くという。
リビングには箱入りの使い捨てマスクがあった。箱から1枚取り出して、マスクを付けた。また、追加でマスクを3枚取り出し、ビニール袋に入れて、予備のマスクとしてバッグの中に入れた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
家を出ると、家の前には制服姿でマスクを付けているあおいが立っていた。
「おはようございます、涼我君」
「おはよう。早いな」
「愛実ちゃんの様子を見に行きますからね」
「そうか。あと……マスクを付けたあおいを見るのは初めてかも。新鮮でいいな」
「ありがとうございますっ。涼我君も新鮮でいいですね」
「ありがとう」
あおいは目を細める。きっと、マスクの下ではあおいの口角が上がっていることだろう。
「さっそく愛実ちゃんの家に行きましょうか」
「そうだな」
あおいと俺は愛実の家の前まで行き、あおいがインターホンを押した。
――ピンポー。
『はい。……あっ、涼我君にあおいちゃん』
インターホンの音が終わる前に、愛実の母親の真衣さんが応答してくれる。
「涼我です」
「あおいです。愛実ちゃんの様子を見に来ました」
『ありがとう。すぐに行くね』
それから程なくして、玄関の扉が開かれる。
中からはロングスカートに半袖のブラウス姿の真衣さんが姿を現した。真衣さんは俺達のことを見ると、いつもの優しい笑顔を見せてくれる。
「2人ともおはよう。あおいちゃんは元気そうね」
「はいっ。一日休んで元気になりました!」
「良かったわ」
穏やかな笑顔で言う真衣さんのその言葉に俺は頷く。あおいの体調が良くなったのは嬉しいことだから。
「真衣さん。愛実の具合はどんな感じですか?」
「熱が37度8分あって、喉の痛みと鼻水がちょっと出るみたい。あとは体がだるいって」
「そうですか」
「鼻水以外は昨日の私と症状が同じですね……」
昨日のことを思い出しているのか。それとも、うつしてしまったかもしれないと思っているのか。あおいは少し暗い表情になる。
「今日はパートがないから家にずっといるし、いつも行っている病院に連れて行くから安心して」
「そうですか。分かりました。あと、母は昼前からパートがありますが、午前中に様子を見に行くとのことです」
「お母さんも午前中にお見舞いに行くと言っていました。りんごのすり下ろしを作るとも」
「そうなのね。分かったわ」
真衣さんは柔らかな笑顔でそう言った。母さんと麻美さんがお見舞いに来てくれることが心強いのだろう。
あと、麻美さんがりんごのすり下ろしを作るのか。あれは美味しいから、食べたらきっと愛実も早く元気になれることだろう。
「どうぞ上がって」
「はい。お邪魔します」
「お邪魔しますっ」
俺とあおいは愛実の家に上がり、2階のある愛実の部屋の前まで向かう。
コンコン、と俺が部屋の扉をノックし、
「涼我だ。様子を見に来たよ」
「来ましたよ、愛実ちゃん」
俺達は部屋の中にいる愛実に向かってそう声を掛ける。
『……はい』
部屋の中から愛実の声が聞こえてきた。体調が悪いからか、いつもよりも元気がない。
俺が部屋の扉をそっと開けると……昨日の朝のあおいの部屋のように、中は薄暗くなっており、エアコンで涼しくなっていた。
ベッドの方を見ると、愛実はベッドで横になりながらこちらを見ている。頬を中心に顔が赤くなっていて、少し息苦しそうにしているけど、俺達と目が合うと微笑んだ。
「リョウ君、あおいちゃん、来てくれたんだね。ありがとう」
「いえいえ。学校に行く前に愛実の顔が見たかったからな」
「私もです」
「……あと、あおいちゃんは元気になったんだね」
「はい。おかげさまで、普段と変わりないところまで快復しました」
「良かった」
愛実はあおいに優しい笑顔を向ける。風邪を引いて苦しいだろうに。愛実は本当に優しい女の子だ。
「真衣さんから聞いたよ。38度近くまで熱が出て、喉や鼻の調子が悪いんだよな。あとは体が重いとも言っていたか」
「うん。昨日、あおいちゃんはこんな感じだったのかなって実感してる」
苦笑しながらそう言う愛実。症状は昨日のあおいと結構似ているからな。
あおいはバッグと体操着入れを床に置いて、愛実のすぐ近くまで向かう。そんなあおいは申し訳なさそうにしていて。
「……ごめんなさい、愛実ちゃん。咳の症状が少し残っていたので、昨日は涼我君にゼリーを食べさせてもらった後にマスクをしておくべきでした」
ごめんなさい、とあおいは愛実に向かって深く頭を下げた。昨日の今日だし、あおいは自分がうつしてしまったせいで愛実が風邪を引いてしまったと思っているのだろう。
「俺もごめんな。症状が残っていたけど、あおいの体調が良くなったことに安心して、マスクしようとか考えてなくて」
あおいに倣って、俺も愛実に向かって頭を下げた。
「ふ、二人とも顔上げて」
愛実がそう言うので、あおいと俺はゆっくりと顔を上げる。目の前には穏やかな笑顔で俺達を見る愛実がいて。
「気にしないで。まあ……あおいちゃんから風邪がうつった可能性もあるね。ただ、私もあおいちゃんの元気な顔を見て安心したのもあってマスクを付けなかったし。あおいちゃんに課題を渡して、ノートを貸して、理沙ちゃん達が来るまで私とリョウ君は一旦家に帰ることだってできた。だから、今回はお互い様ってことで。次からは気をつけようよ」
愛実はとても優しい口調でそう言ってくれた。
あおいだけじゃなくて、愛実と俺が不注意な部分もあった。俺達がマスクを付けたり、汗拭きと着替えをして、ゼリーを食べさせた後に一旦帰ったりすれば愛実の風邪は防げたかもしれない。
「そうだな、愛実」
「そうですね」
「それに、あおいちゃんが元気になったのが嬉しいし、リョウ君も変わらず健康で安心したよ。そんな2人の顔を見られて嬉しいよ」
その言葉が心からのものだと示すように、愛実は嬉しそうな笑顔になる。その笑顔を見てか、あおいの顔に笑みが戻る。
「今日はバイトがないので、放課後になったらすぐにお見舞いに行きますね。涼我君はバイトなど予定はありますか?」
「俺も今日もバイトはないよ。だから、一緒にお見舞いに行こう」
「はいっ」
「ありがとう、2人とも」
「昨日のあおいのときみたいに、帰る途中でコンビニで何か買ってくるよ。お腹の調子はどうだ?」
「お腹は大丈夫だよ」
「良かった。じゃあ、冷たいものを買ってくるよ。何がいい?」
「そうだね……いちごゼリーがいいな。昨日、あおいちゃんがぶどうゼリーを食べさせてもらうのを見たから、果実系のゼリーが食べたくなって。いちごは特に好きだし」
「ははっ、そうか。愛実らしいな」
愛実は果物系の味のスイーツやお菓子はどれも好きだけど、特にいちご味のものは好きだ。それは出会った頃から変わらない。
「分かった。じゃあ、帰りにいちごゼリーを買ってくるよ」
「うんっ。楽しみにしてる」
愛実は可愛らしい笑顔でそう言った。早く体調が良くなって、いつでも愛実が笑顔になれるといいな。
――プルルッ、プルルッ。
スラックスのポケットに入れているスマホが鳴る。ただ、この鳴り方からして鳴っているのは俺のスマホだけではなさそうだ。その考えが当たったようで、あおいがスカートのポケットからスマホを取り出していた。
俺もポケットからスマホを取り出して確認すると……海老名さんからグループトークにメッセージが届いたと通知が。通知をタップすると、いつもの6人のグループトークの画面が開き、
『今度は香川か。お大事に。桐山は治って良かったな』
『驚いたぜ! お大事にな! 今日も部活帰りにお見舞いに行くぜ!』
『あおいが元気になったのは嬉しいけど、今日は愛実が風邪を引いたのね。ゆっくり休んで。お大事に。部活が終わったら3人でお見舞いに行くわ』
と、海老名さん達からメッセージが届いていた。おそらく、朝練が終わってメッセージが届いていることに気付いたのだろう。
愛実もベッドで横になりながらスマホを見ている。
『分かったよ。ありがとう』
と、グループトークにメッセージを送っていた。今日は愛実の部屋で初めて6人が一緒になれそうだ。
「では、そろそろ学校に行きましょうか」
「そうだな。いってくるよ、愛実」
「いってきますね、愛実ちゃん」
「うん。いってらっしゃい」
まさか、2日連続で学校へ行くときに別々の幼馴染から「いってらっしゃい」と言われるとは。
あおいが愛実の頭を撫でる。気持ちいいのか、愛実の笑顔が柔らかいものになる。
その後に俺も愛実の頭を優しく撫でる。そして、俺はマスクを下にずらして、
――ちゅっ。
と、愛実にキスをした。愛実が風邪を引いているので、一瞬、唇が触れる程度のキスを。
唇を離すと、驚いたのか愛実は目を見開きながら俺を見つめている。
「恋人になってから、学校に行くときにはキスをするから。今日もキスしたくて。あと、早く元気になりますようにっていうおまじないだよ。愛実はキスをすると嬉しそうだから」
そう言い、俺はマスクを元の位置に戻す。
キスした意図が分かったからか、愛実の赤い顔には恍惚とした笑みが浮かぶ。
「そういうことだったんだね。キスされるとは思わなかったから驚いたけど……凄く嬉しいよ。気持ち的に元気になるよ。ただ、ドキドキして体がもっと熱くなってきたけど」
「そっか。もし、熱が下がらなかったらごめん」
「きっと大丈夫だよ。早く治るおまじないをかけてもらったから」
と、愛実は優しい笑顔でそう言ってくれた。そのことにキュンとなる。頬がちょっと熱くなって。
「素敵なおまじないをかけてもらえて良かったですね!」
あおいは楽しそうな様子でそう言う。
愛実は可愛らしく笑って、「うんっ」と首肯した。この様子からして、愛実の言うように気持ちは元気になってきているようだ。
「じゃあ、いってきます、愛実」
「いってきます。放課後にまた会いましょう」
「うん。いってらっしゃい」
あおいと俺は荷物を持って愛実の部屋を後にする。昨日のあおいのように、放課後にお見舞いに来るときには体調が結構良くなっていますように。