二
さて、渡井という男はラウンジによく出没する。渡井どころか英の連絡先も知らない俺は、あんぱん片手に張り込みをしてみることにした。
それから数日後。
すっかりあんぱんに飽きた俺は、人生初のレポートに取り組みながらうっかり寝ていた。
「……い、おい」
真っ黒な意識の中、ふと誰かに呼ばれたような気がしてぼんやりと明るい世界に浮上する。
「おい、お前こんなとこで寝てて良いのかよ。佐田のレポート今日までだろ?」
――佐田、レポート……今日!?
思考が真っ白になった頭を小突かれ、俺は完全に目が覚めて飛び起きた。
「起きた起きた。おはよう、しのくん」
「え、な、なん……渡井先輩?」
目の前で、つり目が楽しげに細められる。
この渡井という男の見た目は、一言で言うならつり目美人である。目つきの悪さは近付きにくい印象を与えるも、その内面はとても人懐っこく、笑うと一気に人当たりが柔らかくなる。
キツネ村にいた遊び好きなキツネを思い出しながらも、俺はレポートについての記憶を呼び起こしていた。
大丈夫、佐田のレポートは来週までのはず……安心感に力を抜くも、緊張感で飛び跳ねていた心臓はバクバクと落ち着かないままだ。
「ふ……ふっふふふ……」
そしてそんな俺の様子を見て、渡井は堪えきれないように口を押さえる。
自分の顔に何かついてるのか、と俺は無意味に顔を抑えた。
それを見てさらに渡井は堪えきれなくなったらしい。他のラウンジ利用者に気遣っているのか必死に笑いを抑え、腹を抱えて机に突っ伏してしまった。
「ああ……腹いてえ。しのくん最高」
呆然とする俺の前、やっと笑いを収めた渡井はスマホを構えた。やはりまだ寝惚けていたのか、パシャリと音がして初めて俺は撮られたことに気付いた。
「ほれ」
見せられたそれは勿論、前髪が折れ曲がり鋭角を作り出し、おでこにくっきりとノートの文字が写った丸い目の冴えない顔である。それと並ぶ渡井の楽しげな顔と比べてしまい、ますますパッとしない顔だと内心落ち込んだ。
とにかくトイレに向かい、顔を洗ってきた俺を横目に、渡井は愛用らしい肩掛け鞄から紙を取り出した。
「すまんすまん。お詫びにこれをやろう」
何某かの胡散臭い呪いの紙かと一瞬身構えたものの、よく見ると今やっている講義の過去レポートである。
「後輩に頼まれて持ってきたんだが……渡そうとしたら写す気満々だったもんで取り上げた。しのくんも、参考程度に頼むぜ。佐田はそういうのうるさいから」
気の抜けた声で礼を言った俺に何故か敬礼して、渡井はそそくさと立ち上がる。俺はそこで慌てて呼び止めた。
「え? もう帰るんですか?」
「ああ。この後野暮用でな。誰かいるかなって久々に寄っただけ」
しかし、俺にはどうしても話したいことがあった。
「ちょっとだけ! ちょっとだけ話聞いてください」
「ええ? レポートに関しては何も言うことないぞ」
「ち、違うんです。呪いの……」
その一言で、渡井はするりと椅子に戻る。
「何?」
「呼び止めた俺が言うのも何だけどあんた本当にそれで良いのか」
思わず敬語が吹っ飛んだが、幸いにも渡井はそんなことを気にするような人ではなかった。
「いーのいーの。ほら、早く聞かせて」
そうして聞かせたあの話だったが、呪いの手紙についてあろうことか渡井は全く知らなかった。
本人が一番愕然としていた。
「英でさえ知ってたのに……」
「ま、まあ。たまたま英先輩の友達が他校にいただけでしょうし、俺は知らなかったですし……」
「……そりゃしのくんは他大学に友達なんていないだろ」
「ひでーなあんた」
事実だが、そんなストレートにいうことはないだろう。
その人懐っこい笑顔で男女問わず仲良くなれるような御仁と一緒にしないで欲しい。
「まあまあ、そんなことより……その手紙だ。是非見たいね」
「ええ……」
渡井という人は、好奇心の塊だった。それも、オカルトへの好奇心だ。
この反応を英が予測できないはずがないと思った俺は、これは嫌がらせの一つかと疑ってしまった。
「良いんですか? 変なのにずっと見られるかもしれないってのに」
「どうにかなるよ多分」
多分、という曖昧なものでおかしなことに首を突っ込むのはやめた方が良い。後々、絶対後悔するのだ。
だが、そんなことを言ってきく先輩ではなかった。
「どこの大学の話だ?」
「え、と……それはわからないですね。そもそも噂なんてどこからどうやって広まるかもわからないじゃないですか」
最近はSNSも普及しているのだ。怖い話だってそこら辺に転がっている。
「確かに不特定多数が見られるネットもツールとして優秀だが……英は他大学の奴に聞いたんだろ?」
俺は黙って頷く。
「時にはそう言った口伝の方が臨場感が出て、周囲に拡散しやすくなるんだ。チェーンメールに類似した怪談なら尚のこと、手紙という実態を伴って伝播していくはず。加えて、俺が知らないくらいだ。噂されて日が浅いか、余程限定的な広まり方をしているんだろう」
そういう渡井は自分の情報網を過大評価している気がする。どうやら、知らなかったことが余程悔しいらしい。
「こういう場合、噂の出所を辿るに限る」
そう言って、渡井は立ち上がった。
「しのくんも行くぞ」
「え、どこに?」
渡井は悪戯っぽく笑った。
俺は慌てて鞄を引っ掴む。
「英のバイト先」
「いらっしゃいま……せー」
30分後、突如襲来したミサイルに対してちょっと言葉に詰まる程度で済んだ英を、この時俺は本当に尊敬した。
そこは、コーヒーの香りがいっぱいに広がる喫茶店だった。
英の他には、カウンターの向こうに気難しそうなマスターっぽい人が一人。他は主婦らしき二人組がテーブル席で話し込んでいるくらいだった。
赤っぽい暖色系を基調とした店内はレトロな雰囲気を醸し出している。チェーン店のカフェしか知らない俺には、ミルが置いてあるだけで本格的だと思えた。
これでレコードでもあれば雰囲気が出るが、残念ながらそこはちょっと古めのラジオだった。砂粒みたいな音が混ざるクラシックが流れている。
「喫茶店で働いてたんですね」
「ええまあ……ご注文が決まったらお呼びください」
接客スタイルを崩さないプロの鑑だ。だが、その視線は頑なに俺に向けられていて、渡井には一切向かない。
「店員さん店員さん、俺はアイスカフェオレとチーズケーキが欲しいな」
そんな英の反応を楽しんでいるように、渡井は最高の笑顔で早速注文している。いい歳した男の前で語尾に☆をつけられても反応に困る。
「……かしこまりました。お客様はお決まりですか?」
「あっえーと……」
聞かれて、俺は慌ててメニューを開いた。コーヒーが豊富なのはわかるが、品種まではよくわからない。
「……アイスコーヒーで!」
結局、品種も何も書かれていないアイスコーヒーというものを注文した。
「いやー楽しみだね! しのくん!」
現在進行形でとても楽しそうな渡井とは対照的に、カウンターに入る英は背中に黒いものを背負っているように見える。
それを見た俺はひたすらに恐縮していた。
「いや、あの……ますます嫌われちゃいますよ?」
小声でそう言うと、ムッと唇を尖らせる。
「嫌われてないもん」
「こんなにかわいくねえ「もん」初めて聴いたよ俺」
「言うねぇしのくん」
そう言ってまた笑い出す渡井は、失礼な後輩の言葉すら楽しんでいるようだった。
「お待たせしました」
それからは、しばらく冷たいコーヒーを楽しんでいた。
砂糖増し増しの渡井のカフェオレは市販のそれのように甘いだろう。英が引き攣った作り笑顔でそれを見ていた。
そして、主婦二人が会計を済ませてカランカランとベルを鳴らし……渡井は英に顔を向けた。
「英。ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「……はあ」
英は一気に気の抜けた顔でため息を吐き、マスターに一言断ってこちらへきた。お茶目なマスターはこっちにウィンクしている。
「ここには来るなって言ったのに……」
彼は完全に店員の皮を脱ぎ捨てて愚痴っていた。
「いやー驚いたぞ。まさか英が友達とあんな面白そうな話をしてたなんて」
「僕だって色々と人間関係は築いてるからね」
「いやーそんな話、俺は聞いたことないけどな」
「いや……君だってあそこに知り合いくらいいるでしょ。むしろなんで知らなかったの?」
何故だかネチネチと問い詰めるような渡井に、英は少しばかり冷や汗をかいているようだ。
「さーねえ。まずそれはどこの友達なのかな?」
英はしまった、という顔をする。どうやら言い忘れていたことに気付いたらしい。
「坂口医科歯科大」
「へえ……ちなみにそれは俺の知り合い?」
「いや、知らないと思う、けど……?」
嫌な予感がするのか、英は怪訝そうに渡井に視線を向けた。
それに対し、渡井はにっこりと笑った。まあ背景に花が見える極上の笑みだ。
「じゃあ連れてって」
そして渡井はじっと俺を見た。
「しのくんは、どうする?」
俺には選択権があるが、渋い顔の英にはないらしい。
さて、オカルトにあまり興味がなく、ヒーロー願望もない俺が、それが何故こんなサークルに入っているのか。
それは勿論――
「行きますよ」
この両極端な面白い先輩たちに興味を持ったからだった。