一
それは、大学に入学して、オカルトサークルに入ってすぐの頃のことだった。
俺はラウンジでだらだらと、初めて講義で出された課題をやっていた。
だが、俺のノートには一文字も書かれていない。
意識がすぐそこの会話に持っていかれていたからだ。
『あなたのことをずっと見てました』
『あなたが好きです』
「恋文じゃないか」
一つ上の先輩――英は、話を聞いて少しばかり呆れたように言った。
俺も全く同意見だ。
だが、俺には口を挟む勇気も女子を相手にそんな強気なことを言う勇気もない。俺はそわそわしながら様子を見ていた。
英の言葉に、俺と同学年だというその子――安藤里佳子は悲しそうな顔をした。
「それが、おかしいんです」
大学デビューとは縁遠そうな黒いおさげを揺らし、安藤は彼女の友人に起こったことを話し出す。
「封筒に差出人も何もないからって、莉奈は放置してたんです。そしたら、なんだか見られている感じがするって言い出して」
ストーカーだろうか。しかし、それならこんな場所で言うような話でもあるまい。だとすると――
「その次は、手紙を見せた莉奈の彼氏が変な視線を感じるって言い出したんです」
彼氏、という単語に俺の耳は引っかかった。
「視線の相手は男じゃないの?」
思わず俺の口が開いていた。英が横目で俺を見る。
やってしまった、と少し慌てた俺だが、彼女は俺が英と同じサークルだと知っていたのか、特に気にせず答えてくれた。
「わからないんです。そのまま彼氏とは連絡取れなくなったみたいで……莉奈は大学にも来れなくなっちゃって」
「それで、様子を聞いてみたらそんな話が返ってきたと……」
「はい……でも、家を訪ねても出てきてくれないし、詳しく聞いてもあまり答えてくれなくて」
「それは心配だね……警察には行ったのかい?」
殊更に優しく先輩が言うと、縋るような目を向けた。
「それが……莉奈のお兄さんが警察官だから見せたら、全く同じことが起こったらしくて……」
また、男を監視し始めたというのか。いや、もしかしたら莉奈の周りの男に目をつけているのではないだろうか。
このようなストーカー被害はあまり警察沙汰にならなさそうではあるが、今回は被害者が被害者、ということで何かしらの動きはあってもおかしくない。
「警察官相手にもってことなら、もう捜査は始まってるんじゃないかな? きっと犯人はすぐ見つかるよ」
励ましも込めたつもりだったが、俺のそれはお望みの回答ではなかったらしい。安藤は諦めたように肩を落とした。
俺はその様子を見て少し焦り、自ら口を挟んだ癖に頼れる先輩の尊顔に視線を移した。
「その手紙が莉奈さんに届いたのはいつ頃? 何かきっかけはあったのかな」
「一週間前、目を離した隙に鞄に入ってたそうなんです」
「なるほど。他の人にはこの話はしたのかい?」
「いいえ」
ふんふん、と英は頷く。
「渡井にもしてないんだよね?」
「はい。探したんですけど捕まらなくて……」
あのオカルト好きな先輩は大抵、このサークル共用ラウンジで胡散臭そうな本や雑誌を読んでいる。
その情報は、あっという間に新入生の中に浸透していた。
それが見つからないとは、一体何があったのだろうか。もしかしたらどこぞのUMA情報を鵜呑みにして山にでも入っているのかもしれない。
「わかった。それじゃあ少し調べてみよう」
その言葉に、俺だけでなく安藤も驚いていた。
「手紙は今どこに?」
「え、あ……ゴミとして捨てたって……」
「……捨ててもまだ続いているってことか。手紙の他には何かなかった? メモとか」
「メモ? いえ、特に何も言ってませんでした」
顔を顰めた英は、それから何か考え込んでいる。俺も安藤も、黙ってそれを見ていた。なんせ、俺に場をつなぐような話術はないのだ。
英は、一言で言えばイケメンだ。少しばかり垂れた目尻が優しげな印象を与えているも、嫉妬するのも憚られるほど整った顔はどこか近寄り難い雰囲気を醸し出している。笑顔がなければ尚のこと、進んで彼に話しかける勇気のあるものはなかなかいないだろう。
そんな英に関する噂として、オカルトサークルに入っているのにオカルト嫌いだというものがあった。
ついこの前、俺たちが入ってすぐのオカサーの新入生歓迎会があった。そこにいつの間にか参加していた見知らぬ女学生が彼を肝試しに誘ったのだが、「石の塊見に行ってどうするの?」とその場を墓石の如くカチカチにしたのは記憶に新しい。
何故、彼がこんなオカルトサークルに参加しているのか……それこそ1番の怪奇現象だと俺たち同期は話していた。
「……とりあえず、その友達が視線を感じなくなったら教えてほしい」
そんな英はやっと顔を上げるとそれだけ言い、連絡先を教えて安藤を帰した。
安藤はおっかなびっくりで連絡先の書かれたメモを摘んでいた。
気持ちはわかる。そんなものを持ってると知られた後には、人が群がるだろうから。
「良いんですか? どう見ても警察案件なのに引き受けちゃって……」
何度も頭を下げていた安藤の後ろ姿を見送りながらも、俺は早速聞いていた。
かくいう俺自身も、こんなサークルに入っているし、面白いことは好きなものの、オカルト的なものに傾倒しているわけではないしヒーロー願望もない。警察に厄介になるような刃傷沙汰はごめんである。
「まあね。気になることもあるし、警察沙汰になったところで解決しないだろうから」
「……先輩、オカルト嫌いじゃなかったんですか?」
俺は思わず聞いていた。英は大仰に首を振る。
「そりゃあ嫌いだよ。――オカルトにのめり込んで信じきって思考停止するような人がね」
オカルト好きが嫌いなのか。となるとやはり『もう一つの噂』は事実だろう。
俺は安易にそう考えていた。
「だからと言って、僕はオカルト否定もしてない。本当に何かしらの被害にあった人がいるなら、その原因は確かに存在するからね」
ただし、UFOだの未確認生物だのはメディアの脚色もあって胡散臭過ぎて純粋に嫌いらしい。むしろ存在してほしくないのだとか。
それが高じてオカルト嫌いとして噂が広まったのか、あるいは単に、肝試しという名目で誘ってくる女性をシャットアウトしたかったからわざと噂を広めたのかのどっちかだろう。
「……渡井先輩が聞いたら泣きそうですね」
英に関するもう一つの噂――それが、同学年で同サークルである渡井と不仲である、というもの。
実際、歓迎会でもラウンジでも頑なに同じ席につかなかった。
「あいつの興味はまたちょっと違うところにあるんだけど……まあ泣かせとけば良いよ」
だから俺はその言葉に苦笑するにとどめ、少しだけ話を逸らしたのだ。
「そういえば、さっき言ってた気になることってなんですか?」
「……君、冷めてると思ってたけど、結構好奇心旺盛だね」
否定はしない。面白いことは好きである。
英は視線を落とす。西日がその顔に黒い影を落としていた。
「この話、多分……他大学で密かに伝わってる呪いの手紙のことだよ」
「チェーンメールみたいなものですか?」
「確かにそれも似てるね。あれはメールを広めないと悪いことが起こるけど、どうもこれは読んだ瞬間に始まるようだし、何かが違う気がするんだよね」
本質は一緒だけど、と英は頬杖をつく。そんな仕草もとても絵になっていて、こんな時に不躾だが俺は美術品を見ている気分になっていた。
「この手の怪談で一番怖いのは、手紙そのものじゃないんだ。……わかるかな?」
そんなことを聞かれ、ふと我に帰って首を捻ると、英は不思議な笑みを浮かべた。女の子でなくともどきりとすること間違いなしの、西日に溶けてしまいそうな笑みだった。
「わからないなら大丈夫だよ」
ますますわからない。
俺が口を開こうとした時、英はそれに被せるように言った。
「この話、渡井に伝えて欲しいんだ。あいつなら話を聞いたら真っ先に動くだろうから」
「え……」
中途半端に開いた口からは中途半端な声しか出なかった。
「僕はちょっとバイトがあってね。代わりに頼んだよ」
それだけ言うと、にっこりと極上の笑みを浮かべた彼はさっさと立ち上がってラウンジを出て行ってしまう。
取り残された俺はしばらくしてやっと我に帰り、誰もいない空間に盛大に文句を言うしかできなかった。
「なんで!?」
後になってわかったことだが、英は、こうやって俺を巻き込んだのだ。