28 不利な状況で
パスカルは斧を振りぬいた。
斧はプロスペロの頭に命中し、パスカルも頭蓋骨を潰した感覚を覚えていた。手ごたえはあったはずだが――
プロスペロの傷口から流れ出る血液。それはみるみるうちに赤い粘液へと形を変えてゆく。パスカルは思わずイデアの壁を展開したが、すぐに今の選択が間違いだったと気づいた。
プロスペロの身体全体が赤い粘液と化し、崩れる。と、次の瞬間。
「残念だったな。狙いは悪くなかったがな」
パスカルの背後からの声。
本体は後ろにいた。
パスカルはすぐさまその身を翻し、さらに広範囲に向けて斧を振り回す。この一撃で多方向から襲い掛かって来た粘液を振り払うことができたが。
「分裂した!?」
パスカルは気づいた。
これまでパスカルが斧で振り払ってきた粘液はすべて、斬られていた。さらに、斬られた粘液――否、赤いアメーバは斬られるたびに分裂。最初は2体だったアメーバは今や30体ほどにまで増えていた。
焦るパスカルを前にしてプロスペロは口角を上げた。
次の瞬間、赤いアメーバがパスカルに襲い掛かる。パスカルは斧を捨てた。
「焦って判断を誤ったか。だが、お前は強かった。この――」
「ロムは私の得意なことを言っていなかったのね」
と、パスカル。
彼女がそう言ったとき、すでにプロスペロの懐に飛び込んでいた。プロスペロは咄嗟にアメーバを防御に回したが、遅い。パスカルの右ストレートが腹部にヒット。
「ぐおお……!?」
よろめき、のけぞるプロスペロ。さらにパスカルは畳みかけようとしたが、間にヴァルトが入り込む。彼は晃真を閉じ込めた瓶を盾にする。
「いいのかな? プロスペロに何かあれば、こうやって僕が介入する。このままいけば誰も生きては帰れない」
不敵な口調でヴァルトは言う。
「構わない」
と、パスカル。
そんなとき、彼女の背後からアメーバが。パスカルは後ろに手を伸ばしてイデアの障壁を張る。さらに、横からのアメーバは持ち前の身体能力を以てして躱す。そんな中でパスカルは左手首に爪を立て、血が出るくらいの強さで引っ掻いた。
「はは、君は馬鹿だ! それに何の意味がある!」
自傷したパスカルに向けて、その意図を読んだうえでヴァルトは言った。
が、パスカルは無言。無言でアメーバの攻撃を躱し、ヴァルトとの距離を再び詰めようとする。
そんなパスカルが気に入らないのは、プロスペロ。ターゲットを自身からヴァルトに切り替えたことは、プロスペロとしても非常にまずい。プロスペロは拳銃を抜き、発砲する。
弾丸はパスカルの脇腹を貫き、パスカルは痛みに顔をしかめる。
「お前の相手はこっちだ!」
プロスペロは叫んだ。
が、パスカルはそれでターゲットを変えなかった。
「……これで、勝てる。イデア能力はよほどのことがない限り、死ねば解除される。本当はやりたくなかったけどね、吸血鬼相手ならダンピールだけの勝ち方がある」
血を拭わないままパスカルはヴァルトへと距離を詰める。
左手首から流れる血は掌全体を濡らす。手を激しく動かせばその血飛沫が辺りを汚すだろう。
襲来するアメーバはすべてイデアの障壁やパスカルの蹴りではじかれる。
「ねえ、吸血鬼くん。ロムから離反してくれるなら、これ以上何もしないけど」
パスカルは言った。
「誰がするって? 僕もプロスペロも死ぬまでロムの手足。世界を壊すまで僕たちは止まらないよ。君こそ、ロムの配下になればいいのに」
パスカルが懐柔を試みるとヴァルトは返した。
パスカルは答えそうになるが、言葉を飲み込む。反論した晃真を瓶に閉じ込めたあたり、少しでも否定的、あるいは反抗的な言葉を選べば瓶詰にされてしまう。沈黙は金だ。
パスカルは無言でヴァルトの懐へ。
「は……」
声を漏らすヴァルト。
パスカルは彼に向かって血を飛ばしたのだ。これが意味すること。ダンピールの血の性質を知るヴァルトは一気に青ざめる。
「駄目だ……こんな猛毒……プロスペロ!」
ヴァルトは飛びのき、パスカルの飛ばした血を躱す。ヴァルトの隙はできた。と思いきや、発砲音。激しい痛みがパスカルを襲う。撃たれたのは、腰。歩けはするが、このまま戦えばいずれ失血死する。
やはり、まずはプロスペロから片付けなくてはならない。パスカルは障壁を展開したと思えば、身を翻してプロスペロの方へ。
「任されたぞ、ヴァルト!」
プロスペロはそう言うと、アメーバに粉薬を投げる。すると、赤いアメーバから時折バチバチという音がするようになったではないか。
警戒しながらも、突撃するパスカル。そんな彼女の前に立ちふさがるアメーバ。先ほどよりも動きが速くなり。
「!?」
パスカルに初めてアメーバが触れた。
電撃を受けたような感覚が全身を走り、パスカルは一瞬だが動きが止まる。その瞬間をプロスペロは見逃さず、発砲。だが、この攻撃ばかりはパスカルがイデアの障壁で止めた。
「……厳しい。いえ、せめて晃真だけでも助けないと。それでも」
呟いている間にも、側面から挟むように襲い掛かるアメーバたち。パスカルは曲がったような障壁を展開してその進行を防ぎ。突破口は見えなくても、再び斧を拾った。殴り合いはしない。
そんなときだ。
「誰だ!」
ヴァルトが叫ぶ。
「名乗りはしない。とにかくプロスペロを出すんだ」
その声はパスカルにとっても、晃真にとっても聞き覚えのあるものだった。




