第76話
「ハクちゃん。私、顔を洗ってくる。このままじゃちょっと……」
私はハクちゃんの膝から降りた。
自分から降りた。
さっきと違って、素早くさっさと行動した。
私はこれからも、彼と一緒にいられるのだから……。
「顔を洗う? なぜだ、もう寝るのか?」
私が降りるとハクちゃんは長い足を組み、ソファーの背に両腕を……ふんぞり返ったその姿は、さっきまでのしおらしいめそめそ君の面影はゼロだった。
切り替えが早すぎです。
でも。
その切り替えの早いところに、私はとても救われているのだと思う。
「違うよ。いっぱい泣いたし、それに……ぐずっ」
鼻をすすった私に、鼻水なんかとは無縁に違いないハクちゃんは……。
「りこ、鼻水が少し垂れとるぞ? 鼻水、りこの鼻水……よし! 責任を取って我が舐めるか!?」
鼻水垂れっ……気がつかないふりとかできないのかな、この人は!
「そういうことは、女性にはっきり言わないの! しかも、舐めるなんて……ばっちいでしょう?」
やたらなんでも舐めるのは、やめなさ~いっ!
「ばっちい……汚いという意味か? りこはばっちくない。鼻水が垂れようが、涎が出ていようが我のりこは綺麗で愛らしぞ? 安心するが良い、りこが鼻水を垂れ流しにしようと我の愛は変わらん」
「あ……ありがとう、ハクちゃん」
そのお顔で鼻水って単語を連発ですか。
しかも微妙に論点がずれてるし……私自身が汚いんじゃなくて、鼻水がって意味で言ったのに。
それがなんで、鼻水垂れ流しにからませての熱烈愛情宣言になるのかな?
なんかこう……複雑な気分というか。
ん? よだ……!?
涎を垂らした覚えなんか、私にはなーいっ!
「とにかくっ! 私は顔を洗ってくるから。洗顔したらカイユさんのところに行って、2人で謝ろうね?」
「謝る? はて……何故だ?」
首を傾げるとその動きに合わせて、長い髪が揺れた。
本当に綺麗な髪の毛……なんて言ってる場合じゃない。
ハクちゃんって……ううっ。
しらばっくれてるんじゃなくて、本気で分かってない所が本当に困っちゃう。
「ハクちゃんは、さっきカイユさんの首を絞めたでしょ!? あれはとってもいけない事なの。怪我してるかもなんだよ!? 私もいろいろ謝らないと……言いつけ、破っちゃったし。あぁ、もうっ! 恥ずかしいこと、いろいろ言っちゃたよぉ~」
あわわぁ、思い出すと脳が沸騰してしまいそう!
「とにかく、あやまっつ……わわっ!?」
温室と居間の間の扉が激しい音をたてて開いた。
私がそこで見たのは……。
「トリィ様! トリィさ……トリィ、トリィ! 母様が迎えに来たわよ! 母様とお家に帰りましょう!? 離せ、この役立たず!」
カイユさんがダルフェさんに後ろから羽交い絞めにされつつ、上げた右足を下ろす姿だった。
「よ、よう姫さん! ほら、大丈夫だって俺は言ったろうハニー……ぐがぁああ! 腕抜けたー!!」
扉を蹴って開けたカイユさんが、自分を抑えていたダルフェさんの両腕をぐいっと変な方向にひっぱると同時にダルフェさんがしゃがみ込んだ。
あっけにとられて固まった私を、走り寄って来たカイユさんがぎゅっと抱きしめて言った。
「怪我は無い!? あぁ、無事で良かった。可哀想に、たくさん泣いたのね……泣かされたのね」
前半はとっても優しい声で、後半はまさにブリザードだった。
水の妖精さんみたいなカイユさんだけど、時々……まるで<氷の女王様>みたいな雰囲気に変わる。
セイフォンでもセシーさんやミー・メイちゃんを見る眼は、私に向けるものとはあからさまに違っていた。
その理由を、私は知ってしまった。
カイユさんは、この世界の人間を憎んでいる。
お母さんを裏切った人間という生き物を、嫌悪している……。
「カイユ、ごめんなさい。いろいろ心配かけて、ごめんなさい……母様」
カイユさんの‘思い込み‘は出産後も変わらなかった。
かえってひどくなった気がする。
前よりも【自分はトリィの母親】だという意識が、こうしてはっきりと表面に出てしまっている。
「さっき、ハクちゃんが酷いことをっ……! さあ、謝ってハクちゃ……えっ?」
カイユさんの腕の中で、くいっと顔だけハクちゃんに向けて言った。
さっきまでソファーでふんぞり返っていたハクちゃんは、なんと……。
「な、何やってるの?」
居間の中央で体育座りをしていた。
2メートル越えの大きな身体で、ちょこんと体育座り。
あ、床からちょこっとお尻が浮いてる……。
「ん? 人型でも‘ころころ‘ができるか、試そうかと思ってな」
ころころ……前転のこと?
なんで今、このタイミングで!?
「あ……後でにして。ころころ実験は、後回しにして下さい。謝るのが先」
「嫌だ。我は今、やってみ……」
「ハクちゃん! カイユの首を絞めたこと、ちゃんと謝って!」
ハクちゃんはしゃがんだままで、立ち上がる気配は無かった。
そのままの格好で、私を見上げていた。
「……カイユの首を触っ……絞めて‘ごめんなさい‘なのだ」
ハクちゃんは、上目使いでそう言った。
この上目使い……おちび竜の時とそっくり。
悪役決定みたいな容姿の人型だって、かわゆい小竜と同一人物なんだから動作は何気に似ているのだ。
ちょっと……ふふっ、かなり可愛いかもっ。
そう思ったんだけど。
「ひぃっ……こっ、こええぇ~よ旦那! 俺達の心臓、止める気ですかぁ!? 勘弁してくださいよ。ハニー、大丈夫か?!」
両腕を大きく回しながら、ダルフェさんはハクちゃんに抗議した。
「え、ええ。なんとかっ」
カイユさんは軽く頭を左右に振ってから、心配そうなダルフェさんにそう返事をした。
あ……あれれ? 意外と不評みたいです。
ころころ実験を中断し、ソファーに戻ったハクちゃんの向かいにはダルフェさんがちょっと引きつった笑顔で座っていた。
ハクちゃんは相変わらずの好感度ゼロな俺様的態度で、彫像のようにぴくりとも動かない。
作り物のような冷たい美貌はダルフェさんに向けられて、黄金の眼球だけがゆっくりと私とカイユさんを追って動いていた。
「さあ、トリィ様。お顔を洗いましょう。御髪も整えましょうね?」
そんなハクちゃんの視線を綺麗にスルーして、カイユさんは私の手を引いて寝室へ向かった。
カイユさんは歩きながら、そっとハンカチで私の鼻を拭いてくれた。
うう~、情けない。
顔を洗ってから会うつもりだったのにな。
カイユさんはドレッサーの前に私を座らせて、琺瑯の洗面器にお湯を入れてきてくれた。
柔らかな布をお湯に浸し、軽く絞って丁寧に顔を拭いてくれた。
私は小さな子供のようにされるがままで……。
温かで優しい手の感触に、絡まった糸くずみたいだった心の奥がほぐされていく。
「……ありがとう、カイユ」
鏡に映る自分の姿は、なりたかった‘大人の女‘とはかけ離れていた。
涙の後を<お母さん>に拭いてもらい、髪を梳かしてもらって……すっかり安心したように<お母さん>に全てを任せ、甘えている私がいた。
小学生の時の私が、鏡の向こうに見えた気がした。
そんな自分を見たくなくて、眼をぎゅっと瞑った。
「……トリィ様」
洗面器を片付け、私の髪を梳かしてくれていたカイユさんの手が止まった。
こつんという、小さな音。
ドレッサーに置かれたブラシの木製の柄が、そこにあった口紅にあたった音だった。
カイユさんがくれた……ハクちゃんが似合うと言ってくれた口紅だった。
そう言ってくれたハクちゃんの口元にも、この口紅がちょっと付いていて……。
ハクちゃんも意外と似合うねと、私は笑った。
「カイユの前でなら、お泣きになってもいいのです」
貴方とたくさんキスした。
「……貴女は私の娘なのだから。母様の前でなら、いくら泣いてもいいのよ?」
これからも、いっぱいしてもらえる。
こんな私なのに、側に居させてくれる。
でも。
だから。
約束した。
子供の事では、もう泣かないと。
なのに、私は。
「ううぇっ、うう……カイユ、カイ……私は産みたかった! ハクの……あの人の赤ちゃんがっ」
この涙は、絶対に会えない私と貴方の子供への……さよならの涙。
さよなら。
さよなら、赤ちゃん。
名前をいっぱい考えてた……日本語でこっそり書いていたノートは、暖炉で燃やそう。
1人で夢見た【家族】の未来は、捨ててしまおう。
2人だけの未来で、もう充分だから。
さよなら。
ハクの……私の赤ちゃん。
「あ~あ。泣いてますねぇ、姫さん。こんなときは耳の良さが恨めしいっつうか。旦那、行かなくていいんですか?」
竜族は人間の数倍の聴力がある。
会話の詳細は分からなくても、厚い扉の向こうで姫さんが号泣しているのははっきり分かる。
「行ってどうなる」
「へ?」
かなり、驚いた。
「なんつうか、意外ですねぇ。旦那がねぇ~。子ができねぇって、こんな形でばれちまったこと……後悔してんですか?」
姫さんが泣いてんのに、この態度。
大人し過ぎて、かえって不気味だな。
何があったんだ……旦那は姫さんに、何をしたんだ?
「後悔? 後悔などしたことが無いので分からん。だが、反省はしとるな」
さっき。
旦那はハニーに謝ったんじゃない。
姫さんに言ったんだ。
「反省ねぇ」
竜騎士であるカイユにとって、あれくらいはなんともない。
しかも、あの<ヴェルヴァイド>がちゃんと手加減までしてくれたんだ。
でなけりゃ、俺んとこには死体が転移してきたはずだ。
「我は加減を誤った」
だから、俺もカイユも感謝はしても恨んだりはしない。
だが、旦那の想像以上に姫さんはショックを受けた。
‘自分には優しいハクちゃん‘がカイユにしでかした事に対し、ショックを受け……悲しい思いをしたに違いない。
旦那はまだ、姫さんを分かっちゃいないんだ。
この人には、永遠に分からないのかもしれない。
「その様子じゃぁ、他にもなんかしちまったんじゃないんすかぁ?」
姫さんを悲しませた。
それはちゃんと分かってるんだな。
「ダルフェよ。お前は<赤>に、母親に似ているな」
で、反省か。
「……苛つくほどに」
旦那はそう言って、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
微かな動きなのに。
とんでもなく艶やかで。
目にした者全てが魂まで捕らえられ……恍惚状態のまま、地獄に引きずり込まれて行くような。
<白金の悪魔>……<冷酷なる魔王>の笑み。
「……そりゃ、親子ですからねぇ」
俺達の部屋に転移させられ、取り乱すハニーをなだめて話を聞いた時。
やられた。
そう思った。
俺はあの人が、子を望んでいないと知っていた。
俺はカイユには言っていなかった……言えなかった。
旦那が<黒の竜帝>に言った言葉を、姫さんと同じ女で‘母‘であるカイユには言えなかった。
竜騎士であるカイユは旦那には逆らえないはずなのに、カイユは支店で旦那に刃向かおうとした。
【娘】を傷つけられた母親としての想いが、あの時は本能を超えた。
だから、言えなかった。
カイユを……アリーリアを守るために。
俺は、カイユにはあの事を喋らない。
「我はお前達を利用する、お前も我を利用する。それでいい」
旦那はそれが‘分って‘いたんだ。
この人は、やはり恐ろしい。
「お前は自分の大切な者達のために、我を……正確に言うならば我のりこを、利用する。死に逝くお前には<りこ>という我を御する……動かせる存在が必要なのだ。ゆえにお前は、りこを裏切らない……裏切れない」
そうだ。
カイユが……アリーリアが望むなら、俺は姫さんの父親を演じきる。
‘2人の子‘を持つ<色持ち>の竜として振舞う。
<色持ち>のつがいであるアリーリアには、‘2人の子‘が必要だ。
アリーリアの心を守るためなら、俺はなんだってする。
「……旦那、あんたねぇ」
この人にとって俺達は、駒の1つに過ぎない。
うまく利用され、使われて……動かされている。
どこからどこまでが仕組まれたことで、どこまでが偶然なのか。
「顔に出ちまうほど反省してんなら、もっとそれらしくしましょうや。……あ、鍋使いますか?」
「いらん。ここにある3種の鍋は、どれも反省部屋に適しておらんかったのでな」
あんたは俺等が居ない間に【反省部屋】に入るような事をしでかしたのかぁぁあああ!?
咽喉まで出掛かった言葉を、俺は気合で飲み込んだ。
「は……ははは、左様でございますか」
この人。
もしかして。
計算じゃなくて、行き当たりばったりなのかもしれねぇな。
「ダルフェ。ジリギエ君は?」
居間に戻って来た姫さんの顔は、すっかり元通りだった。
涙の跡どころか、泣きすぎて腫れていた目元も……。
再生能力の件は、旦那はまだ話していないようだった。
とっとと言っちまえばいいのに。
さて、旦那はどうする気なんだかなぁ。
「ジリ? ああ、舅殿が来て見てくれてる。なぁ姫さん、明後日は勉強会の無い日だろ? 街に行こう。俺らも買いたいものがあるしねぇ。……ハニー、もう城から出てもいい?」
セレスティスが言うには、2日程前から間者が見当たらないらしい。
旦那がペルドリヌに残してきた‘脅し‘が効いてきたのか、それとも……さぁて、どっちなんだかねぇ。
「そうね……いいわよ。トリィ様、雪が降り出す前に帝都をいろいろ見て回りましょう。貴女を連れて行きたいお店が、私には何軒かあるんです。ふふっ……楽しみにしていて下さい」
「わぁ! あ、でもカイユはお産後だし、ゆっくり休んでいたほうがいいんじゃない?」
旦那の隣に腰を下ろした姫さんは、カイユの袖を右手でそっと引きながら言った。
この小さな手が手に入れたものは、とてつもなくでかい。
あのね、姫さん。
あんたが思っている以上にそれは大きく、とんでもなく重いんだ。
「お気遣いありがとうございます。私はそこの役立たずほどではありませんが、かなり丈夫な方ですから……さあ、これでいいわ」
ハニーが優しく微笑みながら、温室から採って来た四季咲きの白いナナヌの花を姫さんの髪にさした。
仕上がりに満足げにうなずいて……あれは<母親>の表情だ。
本当の子であるジリギエを見る眼と、変わらない。
ブランジェーヌが俺を見る眼と同じ……。
アリーリアの壊れちまった【心】は、もう治らないだろう。
母親を無惨に殺され、夫である俺は<色持ち>でいつ死ぬかも定かじゃない。
明日にはぽっくり死ぬかもしれないし、うまくいけば後100年位は生きられるかもしれない。
おまけに双子で‘当たり前‘な子供は……そんな君の前で、俺はっ。
どんなに、辛かっただろう。
俺が君を、こんなにも追い詰めた。
君はずっと、‘夫の死にも動じない強い女‘であり続けようとするんだろう?
俺が生きてる間も……死んだ後も。
俺のために。
なぁ、アリーリア。
寝ている俺が息をしているか、毎晩確かめてるよな?
風呂で湯に沈んで、泣いているだろう?
ごめんな。
俺、知ってるんだよ。
そんな君に、俺はなにをしてやれるんだろうか?
「ダルフェ。街に行ったら、義母様達へのお土産も見たいわね。何がいいかしら……明後日までに調べておきなさいよ、役立たずっ」
ごめんな、姫さん。
俺はあんたを利用する。
遺していく愛しい者達の為に。
あんたという存在を利用する。
だから、その変わりに。
あんたを俺の<娘>にしてあげる。
「了解! よし、姫さん。甲斐性なしの旦那の変わりに、高給取りの父ちゃんがなんだって買ってあげちゃうよぉ?」
俺が、あんたを地獄に落とすのかもしれない。