第74話
ハク。
貴方は竜で、私は人間。
子供が出来ない?
なによ、それ!?
だめ、そんなのだめよ。
貴方に子供を遺してあげなきゃなのに。
私が貴方にしてあげられる、たった一つの……。
「ハ……ハクちゃん、ハク、ハク! ねえ、体液で身体のことがいろいろ分かるって前に言ってたよね!? わ……私っ、もしかして妊し……」
私、貴方の子供が欲しい。
「りこの体液に妊娠の兆候などない」
ハクちゃんは持っていた外套を無造作に床へ放り投げた。
いつもはお行儀が悪いよと注意する私だけれど、今はそれどころじゃなかった。
子供。
ハクと私の赤ちゃんのこと。
私は家族を失った。
でも、この世界で新しい家族を作れる……家庭を持って、家族を作る。
そう考えていた。
私とハクと子供達。
ハクの子供なら女の子でも男の子でもとってもかわいくて、美人さんにきまってる。
何人だって……ハクが欲しいなら何人だって、頑張って産んでみせるって考えていた。
子供達に囲まれた賑やかで楽しい毎日が……幸せな日々が待っている。
そう思っていた。
思い込んでいた。
「で、でも! わ、私は異世界人だよっ!? この世界の人間じゃないんだから、可能性があると思う! 私だったら妊娠出来るかもしれないっ……ね、そうでしょうハクちゃん?」
時間がないの。
私は人間だから。
人間の私が、竜族の貴方と一緒に過ごせる時間は何年?
50年?
60年?
それとも、もっと……短いの?
「諦めないで、2人で頑張ろう!? 何かいい方法が見つかるかもしれないし……すぐには無理かもしれないけれど、いつかは貴方の赤ちゃんがっ!」
貴方にとって。
きっと、それはとても短い時間だから。
「人間が竜の子を産む【方法】など……存在せん」
ハクちゃんは床に座り込んでしまった私を見下ろしながら、顔に流れ落ちる長い前髪を鬱陶し気に左手でかき上げた。
「人間と竜は、種としてかけ離れすぎているのだから」
ハクちゃん、なんで?
なんで、なんで……そんなこと言うのよ。
一緒に頑張るって、言ってくれないの?
カイユさんと同じように、夫である貴方まで……可能性を否定するの?
「我にはりこに、我の子を産ませることはできん」
いつも無表情な貴方だけれど。
こんな時まで、そのままなの?
ちっとも辛そうじゃない、悲しそうじゃない。
なんで貴方はそんなに冷静でいられるの!?
私を愛してるって言ってたじゃない!
私に自分の子供を産んで欲しいって思わないの!?
私との間に子供が出来ないんだよ!?
蜜月期は、子孫を残すためのものなんでしょう?
貴方は蜜月期だから、子供がすごく欲しいから……だから私を……。
「我がりこを孕ませる事は無い。何度身体を繋げても、どんなに深く交わろうとも」
子供がいれば。
「子はできん」
私がいなくなった後。
「や……やめてよ。なんで貴方までっ……!」
子供は私が貴方を愛したと……貴方が‘りこ‘を愛してくれた証になるって思ってた。
りことハクが、愛し合ってたと。
「りこ、りこよ。何故、そのような顔をする?」
子供がいれば、その子がまた命を繋いで……。
そうすれば。
長い時間を生きる貴方が私のことを、忘れたりしない……忘れることができないって。
遺された血が、ずっと貴方を私に……。
「泣くな、りこ。そのように泣かないでくれ、悲しまないでくれ。我がそばにいるだろう? 子などいなくとも、我がずっとりこといる。りこには我が……」
「嫌!」
ハクは長身を屈め、私を覗き込むようにして真珠色の爪を持つ指先をゆっくりと私の顔へと……その右手を、私は両手で払い落とした。
音がするほど強く払っていた。
「私に触らないで! 私は子供が欲しいっ……私には子供が必要なの!!」
その音で、自分がハクの手を拒んだのだと知った。
私、今……ハクに……ハクを拒んだの?
嫌って……触らないでって……今のは私の声よね?
「あ……わ……た!?」
ハクからそむけていた顔を上げた。
金の眼は、私を見ていなかった。
ハクは払われた自分の右手を見ていた。
綺麗な爪を持つ長い指。
陶器のようなきめ細かい白い肌を持つ甲に、うっすらと赤い筋が2本。
血は出てないけれど……。
あ……さっき、私の爪が!?
「ハクちゃっ……ごめ……な……わ、私が……」
私に傷つけられた手から視線を動かさず、ハクは呟くように言った。
いつもはっきりと物事を口にする彼らしくないそれは。
初めて聞く小さな声だった。
「りこは……子が欲しいのか……そんなにも、必要なのか?」
必要?
子供が必要?
「あ……わ、わたっ……しは!」
子供は。
血は。
愛しい貴方を私に縛り付けるための。
永遠の鎖。
私が死んだ後も。
ハク。
貴方を私から逃がしたりしない。
私は貴方を離さない。
「わ、私……あああぁっ! 私、私……私!?」
気がついた。
知ってしまった。
醜い本心。
「……そうか」
怖がりで寂しがりやの貴方を独りにしないためにも、家族を作ってあげたかった。
その気持ちは、想いは嘘じゃない。
でも、どこかで。
「りこは……りこは【子】が欲しかったのだな」
子供という存在を、利用しようとしていた。
「……我だけでは‘足りない‘のだな」
私に傷つけられた手を見たまま、そう言った。
流れ落ちてきた真珠色の髪が、私からハクの表情を覆い隠してしまった。
いつもだったすぐに、大きなその手でかき上げる貴方なのに……。
「ちがっ……私はっ!」
違う。
そうじゃないの。
ああ、私は貴方になんて言えばいいの?
言えない。
きっと、嫌われちゃう。
絶対に軽蔑されるにきまってる。
貴方に嫌われたくない。
だから、言えない。
私、ずるい。
私の心。
なんでこんななの?
この世界に来てから、どんどん真っ黒になっていくみたい。
ああ、そうじゃない……きっと元から真っ黒だったのに、それに気がつかなかっただけ。
綺麗な貴方には見せられない、知られたくない。
私は貴方につりあうような人間じゃないって、嫌ってほど分かってるから。
せめて心だけでも、貴方が好きだと言ってくれる‘綺麗なりこ‘になりたいのに。
言えない、言えないの。
私の本当の気持ちを知ったら、貴方に嫌われるかもしれないから。
怖くて、言えない。
「なるほど。りこは子を得る為に、我と交わったのか」
違う!
「ハク! わた……しはっ」
違うよ、そんなんじゃない!
好きだったから、したの。
好きだから。
「私……あかちゃ……子供……だ、だって……だって!」
自分でもおかしいんじゃないかと思うくらい、貴方が好きだから。
私だけのハクでいて欲しかったから。
だから、子供が欲しかったの。
「りこは」
あぁ、私は……あなたに<りこ>を、遺したかったのかもしれない。
「孕ませられぬ男が夫では、さぞかし不満なのであろうな?」
「ふ……不満?」
何言ってるの!?
不満なのは、ハクのほうなんじゃないの?
竜族の本能を抑えて接しなきゃ、壊れちゃうようなやわな身体の私が奥さんで……貴方は我慢してばかりだった。
それが、とても申し訳なくて……自分が人間だということが、辛かった。
竜族の女性になりたかった。
カイユさんみたいな、竜族の妻になりたかった。
「りこ」
ハクは膝をつき、私へ腕を伸ばした。
異様なまでにゆっくりと……。
その手は、いつものように私を抱きしめるために動いたんじゃなかった。
ハクは私の腹部に白く大きな手を添え、身を屈め……両手の上に、自分の額をあてた。
私からは彼の表情は、全く見えなくなった。
「りこ。この胎に……」
彼が喋ると微かな振動がお腹の中に伝わってきた。
まるで小さな小さなハクの分身が、私の体内で同時に喋っているかのような……不思議な感じがした。
「異界人であるりこが、この胎に赤子を得る方法はある」
え?
私、妊娠でき……。
「生殖能力のある人間の男に抱かれれば良い。りこは異界人だが、この世界の人間とのかけ合せは可能だ」
なっ……!
「城を出て街に行き、そこいらにいる人間の男共と交わればいい」
ハ……ハク!?
「つがいにのみ強い執着を見せる竜族の雄と違い、人間の男は金銭を使ってまで女を欲しがる者も多い。娼館の前をうろつく輩に金は要らぬからと声をかければ、短時間で数人の男は集まるだろう」
独占欲がとんでもなく強いハクが。
「我以外と、交われば良い」
貴方がそんなこと言うなんて。
「竜族の我と違って、りこの望みどおりに孕ませられる人間の男とな」
ハクが私の腹部から顔を上げ、私を見上げた。
その動きにあわせて緩やかにうねる髪が流れ、金の眼が露になった。
透明感の全く無い。
黄金の瞳。
「簡単なことだろう?」
ハク。
今の貴方の眼。
作り物みたい。
まるで、黄金で作った宝飾品のように綺麗。
とても綺麗。
でも、その眼差しは。
私を内側から凍りつかせてしまいそうななほど……冷たい。
そんな眼で私を見るなんて……。
こんな眼で、私を見ることが出来たなんて知らなかった。
私なんかを奥さんにして……もしかして、後悔していたの?
だからそんな酷いことを言うの?
だからそんな眼で、私を見るの!?
「ハ……ハク……?」
私はもう、違うの?
私はもう<我のりこ>じゃないから?
「な……何言ってるの!? わ、私は貴方以外となんてできなっ……」
私を。
私を嫌いになったの?
私を、捨てるの?
「そうか? そんなはずはないと思うが……蜜月期だろうが、我は他の女ともできるぞ? 我は普通の竜族とは少々……かなり違うからな。今までだってそうだった。女なら誰でも……美姫だろうが醜女だろうが、我は全く気にならん」
他の人……女性なら誰でも?
蜜月期の雄竜はつがいのことだけ盲目的に愛するんだって……カイユさんは私に、そう教えてくれたのに。
普通の竜族じゃない貴方は、私……つがい以外が相手でもかまわないってこと?
蜜月期の強い欲求を満たしてくれるなら、私じゃなくてもいいの!?
「う……うそでしょ? そんな……そ…………ぁ」
なんで……どういうこと?
「嘘? 我が嘘をつく必要など無い。ふむ……証拠が必要なら、りこの目の前で試してもかまわんぞ? 幼女だろうが老婆だろうが、りこの望みの女で試してやろう」
竜族はつがいの相手だけをずっと、たった1人だけを愛するんだってカイユさんに聞いてたのに。
ハクが他の竜族とはいろいろ違うっていうことは、特異な存在だっていうのは分かってた。
でも、でも……!
「なに言っ……目の前? 証拠? や……やめ……てよ、やめてぇ!」
私は自分の両耳を手で塞いだ。
ハクの声が聞こえないように強く、強く……もう聞きたくないっ!
「や……やめて……。も……わた……無……理」
いつだって、貴方は優しかった。
他の人には冷酷なところが確かにあった、乱暴で残酷な行動をとることもある人だと知っていた。
でも。
私には。
私には、優しかった。
それが、とても嬉しかったのに。
独占欲を隠さず示す姿に、こんな私でも貴方に愛されてるのだと安心できた。
自分に自信が無い私にとって貴方のその束縛は、心地良いほどだった。
私は貴方に強く愛されているのだと、感じられたから。
なのに。
どうして。
どうして?
ついさっきまでは、いつもの貴方だった。
私の膝でご機嫌そうに、尾をゆらゆらしてたのに。
私の頭と心は貴方に粉々に砕かれて。
まるで。
潰れてしまった生卵みたい。
シフォンケーキの試作の時に、貴方が握り潰した卵みたいに。
外側は粉々で、中身はぐちゃぐちゃのどろどろ。
もう、駄目。
駄目だよ、私。
私はこんな世界、来たくなかった。
でも、貴方に会えた。
貴方がいてくれたから。
だから、耐えられた。
貴方が私を捨てるなら。
1人じゃ寂しくて、辛くて。
耐えられないよ。
ハクが私を捨てるんだったら。
私も。
私も<私>を捨ててしまおう。
いらない。
こんな私、この世界にいたってしょうがないもの。
「ハ……ク。わた……しを」
約束したよね?
私が死んだら、この身体を食べてくれるって。
私。
貴方から離れたくないの。
もう、これしか……ないのかな?
「私を……こ……きゃっ!?」
ハクの手が私の手を耳からはずし、そのまま私を乱暴に引き倒して頭の上で両手首を片手で押さえ込んだ。
「ハ……?」
それは私にとってあまりに衝撃的で……強い力で掴まれた手首の痛みも、テラコッタの床の硬さも感じなかった。
触れ合うほど側にある冷たい美貌から顔をそむけようとしたら、大きな手で顎を掴まれた。
私へと流れ落ちてきた真珠色の長い髪が、私の視界からハク以外を奪った。
「聞け。そして我を見ろ」
肌に触れる吐息は、真冬の温度。
私を凍えさせ、動きを奪う。
見下ろす金の眼は、真夏の太陽。
私を熔かし、焼き尽くす。
「ハ……ク?」
手首を押さえつけていた手が……顎を掴んでいた手も、私の身体をなぞるようにして移動した。
両手を私の首元からゆっくりと這わせ、大きな手で優しく優しく……私のお腹を撫でた。
ハクは顔を寄せ、服の上からそっと口付けた。
「貴女は我のりこだ」
まるで、そこに我が子がいるかのように。
居るはずの無い赤ちゃんを慈しむかのように。
何度も何度も、口付けた。
「我だけの、りこだ」
我のりこ?
ハク。
ハク!
ああ、この人は。
まだ私を……愛してくれている?
「ハ……ク、ハク! 私っ」
私の言葉を遮ったのは。
愛しい人の、艶やかな声だった。
「我はこれより、この世界の男を殺し尽くす」
な……に?
今、なんて?
「赤子も子供も……老人も、全ての男を<処分>する。貴女は我のつがい。この身体は……心も全て我だけのものだっ! ……他の者には渡さないっ」
処分?
「男を殺し尽くせば人間は絶えるが、我は一向にかまわん。竜族を残せば良い。りこは何も心配いらぬ。茶も菓子も、花も衣装も溢れるほどに竜帝共に用意させよう」
人間が……絶える?
「我が留守の間、カイユ等と待っていてくれ。あの幼生と遊んでおればいい……四大陸全ての男を殺し尽くすには、我とて数日はかかるのでな」
ハクは私を抱き上げて、ソファーに座った。
私を自分の膝に座らせ、乱れてしまった私の髪を手で梳き……撫でた。
まるでお人形を可愛がる小さな子供のように、満足げな笑みを浮かべていた。
「うむ、良い考えだな。我は少々賢くなったのだ……りこのおかげでな」
この表情は、違う。
彼は【笑って】はいない。
逆。
これは、支店の屋上で見た‘貴方‘だ。
「あ……なに言っ……」
ハクは冗談を言ったりしない。
本気だ。
これは本気で言っている。
この人には、それを実行する力がある。
「だっ……駄目っ! や、やめて……誰も殺さないで!」
私の汚い心を隠すための嘘で、たくさんの人が死ぬ?
私のせいで?
「聞いて、ハクっ!お願い……聞いてっ!」
私はハクの胸に、握った両手を押し付けた。
自分の爪が手のひらに食い込むのを感じた。
「言うからっ! もう、隠さないから……言うからっ……!」
言わなきゃ、駄目だ。
大変なことになる前に、取り返しがつかない事が起こる前に!
「違うの! 子供が欲しかったのはっ……私はっ!」
本当の気持ちを、暴かれた心を。
私は、貴方に差し出すしかない。
「あ……なたを、ハクをっ」
お願い。
嫌いにならないで。
「りこ?」
知られたくなかった、こんな私を。
こんな私だけど、嫌いにならないで!
「ハクを私に縛り付けるために、私には貴方の赤ちゃんが【必要】だったのよ!」
私の髪を撫でていたハクの手が、動きを止めた。