第72話
我が塔で観賞したものは夕陽ではなく、りこだった。
手を繋ぎ、我の横に立ったりこだった。
さらに正確に言うならば。
我が見ていたのは、りこの目玉だ。
塔は城の建つ小島の端にあり、狭い露台は湖に迫り出すように造られていた。
染められた空と、それを映す湖。
朱を纏う黄金。
紫と混じりあう薄紅。
揺らぐ陽と輝く湖面。
言葉も無くそれらを見つめるりこの眼に、我は見惚れていた。
視線の動きに合わせ、夕陽に染まった世界が金の眼の中で形を変え色を変え。
まるで、万華鏡のように。
華やかに煌めき、生まれて……消える。
一瞬一瞬。
刹那の美しさ。
美しい。
そう思った。
言葉は知っていた。
意味も分かっていた。
だが、我は美しいなどという想いを持ったことが無かった……りこに会うまでは。
咲誇る花は盛りを過ぎれば散り、鮮やかな葉を持つ木々もいつかは枯れて朽ちる。
人間共が美しいと讃える女と醜女と蔑む女の違いは、単なる容器の差。
剥いてみれば中身は同じ。
赤い血肉が詰まっているだけだった。
老いれば皺に覆われ、やがて腐って土になる。
花も、木も、獣も。
人間も竜も。
行き着く処は、辿り着く場所は同じなのだ。
我にとって同じようにしか見えぬそれらに‘美しい‘という想いなど湧いてこなかった。
空も海も。
陽も月も、輝く星も。
太古から世界にあるそれらを、人間や竜は‘美しい‘と評したが我にはどの部分が‘美しい‘のか分からなかった。
ーふふっ、ハクちゃんの髪も顔も……夕陽に色になってる。
りこが眩しそうに眼を細め、我を見上げて言った。
我が貴女に差し出したこの手は、多くを引き裂きたくさん殺した。
ー感動しちゃった! 今までこんなにすごいの、見たこと無かったの! とっても綺麗……また来ようね。
我の手は穢れているのに。
繋がれたそこに視線を移し、頬を染め。
嬉しそうに微笑んだ。
-そうだな。……美しいな。
答えた我が眼を細めたのは、陽の所為ではない。
りこが眩しかったからだ。
貴女のその輝きが。
我の中の闇を、濃いものに変えていく。
ーりこが望むなら、毎日来ても良いぞ?
我は言えなかった。
この夕陽を美しいと感じることなど、我には出来なかったことを。
りこと同じようにまた此処へ来たいなどと、我には思うことが出来なかったことを。
真実を告げたなら。
幸せそうに微笑むその表情を、曇らせてしまうのではないかと……また泣かせてしまうような気がした。
この世の美しいもの全てを捧げたいのに、我には‘美しいもの‘が分からない。
貴女以外は、美しいと……綺麗だと思ったことが無いのだから。
だから我は[人間にとって美しいと感じられるであろうもの]を差し出すしかない。
りこがこの世界をもっと、もっと欲しがってくれるように。
異界人のりこも、夕焼けを綺麗だと言った……やはり、美意識や感性はこの世界の人間や竜とほぼ同じだと確認できた。
我の竜体に強い執着を持つからといって、りこは美醜に関して特殊な嗜好を持っている訳ではなかった。
我は今後もりこが美しいと、綺麗だと感じるものをもっと見つけなくてはならない。
それらでりこの周りを埋め尽くし‘りこの好む世界‘を……それなのに我は。
我が染め上げたりこの眼を、いっそう美しく染め変えてみせた沈む陽が憎らしく。
りこに綺麗だと讃えられた夕焼けが、妬ましかった。
夕陽など、二度と見せたくないとすら思った。
りこは我に感情を……心をくれた。
この我の心は。
美しさなど見当たらず、綺麗なものでも無かった。
それでも貴女に、我の心を欲しがってもらいたい。
澱んだ沼の底に溜まった汚泥のような、この我の心を。
最近のりこは【お勉強】で、日々忙しそうだった。
早朝散歩に使っていた時間も【お勉強】に変わり、夜も必ず【お勉強】をしてからでないと床に入らない。
そして今日は【まとめの試験】なるものが午前に行われ、先ほど返却された。
昼食時に自信が無いと言っていたりこだったが、シスリアから追加の課題と共に手渡された用紙を確認し……口が少々、開いてしまっていた。
どうやらりこの想像以上の結果が出たようだった。
シスリアが学習院に戻っている数日間、勉強会が休みになるのでしっかり復習しておくようにと言われ何度も頷いていた。
南棟の2階に用意された学習室から部屋に帰ってくると、我を抱きかかえたまま寝台に駆け寄り勢いよく倒れた。
いつもは午後の勉強会の後、そのまま<青>の執務室に茶を飲みに行くのだが。
「む~ん。書き取り試験、駄目だった」
試験。
試験と茶に行かんのは、どう関係するのだろうか?
「会話試験はとっても良かったって、褒めてもらえた。でも、書き取り試験が……シスリア先生が出題する単語が聞き取れても、書けなくて。綴りがきちんと、覚えられてなかった。やっぱりなって、感じだけど」
りこは寝台に寝転び、胸に抱いた我の背をゆっくりと撫でた。
「短期間で驚くくらい……不思議なくらい、喋れるようになったから。私でも頑張れば、やれば出来るんだって嬉しかったんだけどな。うぅ~、書き取りは50点満点中6点。人生最低点を取っちゃった」
我はりこの胸に耳をつけ、心臓の音を聞いた。
規則正しく打つそれと、我を撫でる手の動き。
ああ、なんと心地良いのだろう。
りこはこうして‘素敵‘なものを、我にたくさん与えてくれる。
我もりこにもっと与えてやりたい。
「とにかく喋れないと困るから、セイフォンでもセシーさんにお願いして会話優先にしてもらってたし。文字を後回しにしすぎちゃった……ううっ6点、6点かぁ~。竜帝さんの所には、気持ちを切り替えてから行かなきゃ……」
点数。
りこは6点。
我もりこのやっていることを体験してみたいと思い、竜体のまま試験を受けてみた。
まあ、無意味な会話試験には参加しなかったが。
会話試験か……。
りこは気づいておらぬようだが。
あのシスリアという雌は、会話に関しては試験をしたのではない。
あれは[確認]だな。
「りこ、りこ! 我は50点だった。我の点数を全部りこにやる。そうすれば56点で満点を超えるぞ?」
我ながら、良い考えだ!
りこの『足りない』を夫である我が補う……。
いろいろ『足りない』我がりこの『足りない』を補えることなど、めったに無いぞ!?
「56点って……ハクちゃん、それじゃあ試験の意味が無くなっちゃうよ」
試験の意味?
高得点を取る事ではないのか?
「気持ちだけ、もらっておくね。ありがとう、ハクちゃん」
気持ちをもらう?
ダルフェ同様、りこも時々難しい言い回しをするな。
でも、りこが微笑んでくれたので良しとする。
「うむ。では、今後も我の気持ちは全部りこにやる」
顔をあげ、りこに接吻した。
竜体の我に接吻されるのを、りこは非常に好む。
りこの鼓動が大きく跳ねた。
微かな振動が、触れ合った身体に伝わってきた。
「……りこ。満点を取った我に、ご褒美をくれるか?」
4本指の手をりこと同じ5本の指を持つ手に変えて。
一瞬硬くなった細い体を、逃がさぬように抱きしめた。
何か言おうと動いた唇を塞ぐように口付けると、躊躇うかのようにおずおずと。
りこの両腕が我の身体に伸ばされた。
背に触れる……小さな手の、あたたかで柔らかな感触。
「先ほどのように……もっと撫でて、りこ。もっと我を、愛でてくれ」
欲情という言葉の意味を。
我はりこと会ってから、正しく理解した。
目覚めたりこが風呂に入ってる間。
我は長椅子で‘ころころ‘をして、りこを待っていた。
この‘ころころ‘とは、なかなか面白い。
ふむ。
もっと長距離でやってみたいものだな。
トラン火山の山頂から麓まで、そして麓から山頂までを往復してみるか……。
赤の大陸にある砂丘も‘ころころ‘に、適している気がするな。
温室に繋がる扉がノックと同時に開かれた。
<青>がやってきた。
「おい。今日は茶に来なかったな。まあ、俺様も忙しかったから丁度良……じじい、なにやってんだ? 老化防止の体操か?」
<青>の手には、特注の蓋をしたバケツ。
「鯰の餌は温室に置いて来い、居間には持ってくるな」
それと紙袋。
「つい、持ってきちまった。ふっふっふ……これは新作なんだ! 栄養価はそのままで、臭いを半分以下にすることに俺様は成功した。さすが、俺様だ!」
鯰。
りこはあの鯰がお気に入りだ……忌々しいことにな。
「おちびは? おちびに見せたいもんがあるんだけど。……6点なんてある意味すげぇ点数取っちまって、落ち込んで出てこれないのか?」
<青>は寝室の扉に顔を向け、首を傾げた。
6点。
すでに報告済みか。
まあ、そうだろうな。
「違う。風呂だ」
もうすぐ出てくるはずだ。
長湯はしないと言っていたからな。
「風呂? まだ夕飯前……ああ、そっか! おちびは異世界でも特に風呂好きな人種なんだって、こないだ言ってたもんな」
そうなのだ。
りこは日本人という人種で、風呂に対して強いこだわりと執着を持つ変わった種族らしいのだ。
「りこは風呂が好きだ。ここの風呂をとても気に入っている。でかしたな、ランズゲルグよ」
我も、りこと入る風呂は好きだ。
だが。
交わった後の入浴は、りこには一人で入ってもらう事にした。
理由は簡単・単純だ。
我は竜の雄で、りこは人間の女だからだ。
10日程前。
我は、失敗をした。
蜜月期の雄としての自覚が、少々足りていなかった。
交尾後のまどろみから覚めたりこと、竜体で風呂に行き。
のぼせてしまったりこを、人型で抱えて出る羽目になった。
我は反省し、りこに‘ごめんなさい‘をした。
りこは真っ赤なってしまった顔を我から隠すように俯き。
-ごめんね、ハクちゃん。私っ……ごめんなさい。
小さな声で、そう言った。
なぜりこが謝るのか、我にはさっぱり分からなかった。
行為を強いた我が悪いのだ。
りこの身体に負担をかけた我が悪いのであって、りこは悪くない。
ふむ、ダルフェが帰ってきたら問うてみるか。
鯰の餌を温室に置き、居間に戻ってきた<青>はソファーに腰を下ろした。
「夕べ、作ったんだ。おちびにやろうと思って、持ってきた」
<青>は持参した紙袋を逆さにし、中身をテーブルにばら撒いた。
丁寧に個別包装された焼き菓子の山の中に、見覚えのある四角い物体があった。
「なあ、じじい……おちびがいねぇから聞くけどよ」
青い爪を持つ指で焼き菓子をどかし、四角いそれを脇へと置いた。
<青>の眼は、菓子を見ていた。
数を確認しているようだった。
「あいつの身体に何した……何してるんだ?」
りこの体に、何をしているかだと?
心当たりが多すぎて、返答できんではないか。
「何とは、なんだ? それでは分からん。具体的に言え」
<青>は続けた。
焼き菓子を見ていた青い眼を、我に向けて言った。
「シスリアが、おちびは異常だって言っている。短期間であれだけ会話ができるなんて、あり得ないと。……俺様もそう思ってた。はっきり言わせてもらうが、おちびの知能は人間としては並みだろ? だから書き取りは6点だった。まあ、6点だと並以下の可能性も……睨むな、冗談だ」
セイフォンを出てから、りこは格段に会話が上達した。
正しくは。
我が傷つけてしまった肉体を、メリルーシェで[再生]してから。
「シスリアは初日の段階で、おちびが特に優秀でもない普通の人間だと判断した。だがな、会話に関しては疑問を持ってた。だから今回の会話試験には、学習院の卒業学年に出すような単語も混ぜた。あいつが知らないはずの単語を使ったんだ。それなのに会話が成立しただと!? どう考えたって、変だろうがっ! ヴェル、おちびの頭になんかしたのか!? 脳をいじるなんて、危険すぎる。これ以上はやばいだろうがっ」
りこは我と同じ金の眼になった。
「脳を直に触るなど、りこにはせぬ。我はお前とは違う。組織を潰さずに、脳をいじることは出来ぬからな」
それは。
我が望んだものではない。
「俺様ができんのは、消去だけだ。知能をどうこうなんて、できねぇ」
我はりこの黒い瞳が大好きだった。
りこの眼の色に染まってしまいたいほどに、あの黒い瞳を愛しいと思っていた。
「我にも無理だ。りこは知能が向上したのではない、あれは単なる副作用だ」
セイフォンに居た頃と違い、りこは我と交わるようになった。
「りこは言葉を理解する能力を、多少だが……確かに得た。我と頻繁に性交渉を持つようになり、それは格段にあがった。苦労して【お勉強】せずとも、会話が出来るのだ。なんの不都合がある? 良いではないか。りことて便利だろう?」
りこ。
会話が上達しているのは、努力の成果ではない。
早朝の勉強も、我としている会話練習も。
してもしなくても、結果はたいして変わらなかったのだ。
6点。
書き取りが6点なのには、根拠がある。
我の念話能力が歪んだ形でりこを侵食したのだ。
発する者が意識せずとも、言葉には念に近いもの……意思が込められている。
それを受け取り、理解するのは念話能力。
念は無形、文字は有形。
文字は覚えなければ書くことはできぬ。
それゆえ、6点なのだ。
交わることで竜珠が力を増し、我の予想外の結果をもたらした。
不安定ではあるが、強い再生能力。
<青>が指摘した言語能力の向上。
それらは、代償を伴った。
りこがシスリアとの勉強中は、我は竜体で同行する。
セイフォンで魔女に学んでいた時同様に、通訳が……我の念話能力が必要だと考えたからだった。
異界の言葉でりこが我に質問する、そう思っていたからだ。
初日、りこは我に対して異界の言葉を使わなかった。
疾患ではないので体液に変化は見られず、我にも確証は持てなかったが……。
以前は感情が昂ぶると、異界語で喋っていたのに。
我と交わり意識が混濁した状態になっても、その唇が紡ぐのは公用語のみだった。
りこは気づかない……気づけない。
異界の言葉を忘れたわけではない。
配置が変わっただけだ……今は、まだ。
消えてはいない。
だが、確実に奥へ奥へと追いやられている。
そう遠くない未来に。
淡雪のように……融けて無くなる日がくるのだろうか?
それは我にも解らない。
「りこには言うな。りこは会話が出来るようになりたいと‘努力‘した。この世界に来てからずっと、りこ自身も‘努力‘し続けたのだ。それに……シスリアに試験ではなく[確認]されたと知れば、りこは傷つくかもしれん」
眼に見えぬが確かに存在する【心】というもの。
それも肉体と同じように傷つき、壊れるものなのだと我はりこから学んだ。
「わかってる。……俺だって、あいつが頑張ったって知ってるよ」
りこ、我のりこ。
我は劇薬のような気と体液を。
日々、貴女に注ぎ入れ。
貴女という存在が持っていた枠を崩し、壊して……創り直している。
甘く美味いと、我の欠片を口にすればするほど。
親しい者達から遠ざかり、我の元へと堕ちてくる。
貴女を我と同じ<化け物>にしたい。
それが我の望み。
異界の言葉も、家族のことも。
全て忘れてしまえば良いのに。
あの小さな頭も、華奢な身体も。
我のことだけ考え、我だけで満たされればいい。
忘れさせたい。
そう願うのに<青>の能力を使おうとは、思わない……思えない。
心とは。
複雑怪奇で、やっかいなものなのだな。
「それと……カイユの様子を見に行ってたセレスティスが、戻ってきた。明後日には帰ってこれるってさ。俺様はちょっと心配だったんだが、子は全く問題の無い普通の個体だった。<色持ち>じゃない。<竜騎士>かどうかは、まだ暫く様子を見ないと分からないな」
カイユとダルフェ。
支店での性交後にりこの会話が不自然なまでに上達しようが、あの2人はそれに関して何一つ我に言わなかったな。
「そうか。我からりこに伝えておく」
カイユ達が戻ってきたら、りこは喜ぶだろう。
だが。
りこは竜の子を……【弟】を見て、どう思うのだろうか?
この世界の人間のように嫌悪するのか、それとも……。
「<黄>用の電鏡、やっと新しいのを用意できた。さっき設置作業が終わったんだ。今回は予備のものが役に立ったけど、あれだけのもんはめったにねぇんだ。二度と壊すなよ? <黄>……試運転兼ねて連絡したら、ヴェルを怒らせちまったってわんわん泣いてたぜ? 謝りたいって言ってた。俺様にはごめんのごの字もねぇけどよ」
<黄>か。
「怒ってなどいない」
あれのことなど、思い出しもしなかったな。
「じゃあ、後で<黄>に顔見せてやれよ」
りこは、他の竜帝に会うのを楽しみにしていた。
「あれに会う気は、我にはない」
だが。
<黄>はりこの‘存在‘を無視した。
我のりこを。
「謝罪は不要」
我の妻として他の竜帝達に会える事が嬉しいと。
鏡に向かい、紅をひきながら言っていた。
自分の髪を梳かした後、りこは我の髪を梳かしてくれた。
自分自身にしていたよりも長い時間をかけ、丁寧に梳かしてくれた。
そのりこを。
<黄>は見下し、最初からその存在を‘無視‘したのだ。
りこが我のつがいであることを、否定した。
認めようとしなかった。
りこに話しかけていたのではない。
あれはりこを拒絶していたのだ。
「我にリンエルチィルは[不要]だ」
<青>が息を呑んだ音がしたが、言葉を発することは無かった。
リンエルチィルを廃し、次の<黄の竜帝>に替えるのは簡単だ。
<処分>すればよい。
だが、時期が悪い。
ベルトジェンガが、もうすぐ死ぬ。
代替わりをほぼ同時で行なわせるのは、今の我にとって少々都合が悪いのだ。
風呂から出てきたりこは、机の上に置かれた四角い玩具を見て眼を輝かせた。
念話で<青>が来ていることを告げてあったので、きちんと身支度をして現れた。
「ハクちゃん、お待たせ! 竜帝さん、こんにちは。……ん? もう、こんばんはかな?」
りこは成人した女だというのに他の者の眼が無いと、幼女のような行いをするのだ。
風呂上りの身体にタオルを巻きつけただけというとんでもない格好で、室内を歩き回ったり飲み物を飲んだりする時がある。
下着姿で柔軟体操を始めることさえあるのだ。
その行動をセイフォンで初めて目の当たりにした時、我は強い衝撃を受けた。
同じ人間の女でも、身体の構造が同じでも。
異界人であるりこの生態は、我にとって謎と不思議に満ちていた。
この我を驚愕させるとは。
りこ、恐るべし。
寝台の使い方も、りこは変わっていた。
-ハクちゃん、私は大丈夫だからもっと強くしてっ……あいたたたぁ!
りこは寝台で体操をする。
多くの女といろいろな寝台を使った我だが、このような使用方法は初めて知った。
股を限界まで開いて座ったりこの背を、請われてさらに押しながら……妙に感慨深く、異界人の生態はなんと奇異なものかと……昨夜もそう思った我だった。
「ね、ちゃんとした格好してきたでしょ? 念話で何度も確認しなくたって、大丈夫だよ。私、26だよ? 言われなくたって、人前に下着で出てくるなんてしないよ!」
りこは足元に駆け寄った我を抱き上げて、我の右頬を指でつつきながら言った。
りこ。
我の知るこの世界の<大人の女>と、異界人の<大人の女>であるりこは少々違うのでな。
つい、いらぬ心配をしてしまう傾向が……言わんほうが良さそうなので、我はそれを口にはできんのだが。
「竜帝さん、今日はお茶に行かなくてごめんなさい。え~っと、そのっ! 昨夜は試験勉強で寝るの遅かったから、お昼寝してしまいまして……」
まあ、嘘ではないな。
りこは昼寝もした。
「いいって。俺も忙しくて茶をする余裕が無かったしな。ほら、おちび! これ異界の物だろう? 前に買ったんだ、けっこうな値段したけど面白そうだったからさ」
菓子と共に<青>が持ってきた物は、異界の玩具。
向かいのソファーに座ったりこに<青>が玩具を放った。
りこは両手で受け取り、顔を綻ばせた。
「うわぁっ、懐かしい~! これ、お父さんが持ってた……なんて名前だっけ、んーっ!? あれ? ここまででかかってるのに、名前が出てこない。え~っと」
ガチャガチャと音を立て、上下左右にマスを動かしながら。
りこは手の中の玩具から眼を離さず言った。
視線が、全く動かない。
膝に座っている我が、そっとりこの右袖を掴んだのにも気づかない。
瞬きすらしていなかった。
りこの眼には玩具を通し、他の何かが見えているのかもしれない。
かぼちゃでランタンを作っている時とは、明らかに様子が違う。
異界の行事……ハロウィンの事を遠慮がちに口にした時、その眼にあったのは懐かしさではなく。
好奇心に近いものだと我は感じた。
話を聞くと、それは異国の行事であり……かぼちゃでランタンを作るという作業は、りこにとって[初めての遊び]だった。
「まあ……そういう時もあるって、気にすんな。それ、おちびにやるよ」
<青>の言葉に、りこの手が止まった。
揃った色は1色だった。
「えっ? もっ……もらえない。さっき、高かったって言ってたもの」
<青>は10年程前に、人間の商人からこの[貴重な珍品]を購入した。
異界の品には高値が付くからな。
「俺様はそこらの王族なんか足元に及ばない、桁外れの金持ちだぜ? 遠慮すんな、懐かしいって言ってたじゃねぇか」
違う。
金の問題ではないのだ。
りこは我の為に異界の物を欲しがらない……欲しがれぬのだ。
以前、りこは言った。
りこが異界の話をすると、我が不安そうな眼をするのだと。
だから、りこは……。
「ありがとう、竜帝さん。でも、いらないの。ほら、1色しか出来なかったでしょう? 私はお父さんと違って、頭を使うおもちゃって苦手なの……ハクちゃん、やってみる?」
りこが我の右手をとり、のせてくれた正方形の集合体。
面の色をあわせる玩具。
りこの世界の玩具。
「あ! 『ルービックキューブ』だよ、これ! 思い出せたぁ~」
我が捨てさせた、りこの世界の。
「ぎゃあ!? じじい、なにすんだよ!」
手のひらのそれは体積を失い。
鮮やかな色をした、細かな破片へと変わった。
「ハ、ハクちゃんっ大丈夫!? 手を切らなかった!?」
りこは我の指を開き、玩具だったそれらを全て払い落として掌を確認した。
我の手には、当然ながら傷などない。
竜の皮膚は硬い。
りこは我の手を撫でながら、息をはいた。
「ハクが怪我をしてなくて……良かったぁ」
我が染めてしまった瞳は床を……壊れた玩具を見なかった。
金の瞳に映るのは、我の4本指の手。
刃物も通らぬ、鱗に覆われた竜の手。
「あ~あ。おちびにやろうと思って持ってきたのに、このじじいは全くよぉ!」
「ハクちゃんは力加減をちょっとだけ、間違えちゃったんだよね? 竜帝さん、ごめんなさい。ハクを許してあげて」
りこが見るのは我。
異界の玩具ではなく。
父親との……家族との思い出があるであろう、玩具ではなく。
りこは我を選んでくれたのだ。
この我を。
我に。
もっと我に侵食されて。
異界の事など、愛する者の記憶など。
この玩具のように壊れ、無くなってしまえば良いのに。
「ありがとう、りこ。玩具を壊してごめんなさいなのだ」
金の瞳の中。
小竜の我が、頭を下げた。
「うう……かわい……っ!」
りこの頬が、一瞬で染まった。
「おちび、だまされんな! じじいっ計算だろう、それっ!?」
貴女に‘ごめんなさい‘と。
その言葉を口にする時は、小さな幸せを感じ……喜びすら感じるのに。
ありがとう。
感謝を伝えるはずのそれは。
我にとって。
貴女への謝罪の言葉。
「ありがとう。りこ」
この世界に落ちてきてくれて。
この我へ堕ちてきてくれて。
ありがとう。
「ハクちゃん。晩御飯をもらいに、竜帝さんと食堂に行こうよ」
菓子の入っていた紙袋に壊れた玩具の欠片を全て入れ終わったりこが、上部を折って封をしながら言った。
「りこは待っていろ、我とランズゲルグだけで行く」
りこの黒髪は、まだ乾いていなかった。
服を湿らせぬように上げた黒髪は、薄紫の水晶で作った小花のついた数本の装飾ピンで留めてあった。
細いうなじが、立て襟の衣装の隙間から微かに覗いていた。
「交尾後なうえに風呂上りで色香の増したりこを、雄共がいる食堂へなど連れて行けん。<青>はりこの気に入りだから許しているが……ほら、まだ濡れている」
濡れて艶を増している髪に手を伸ばした。
爪で傷つけぬように注意しながら、ほつれた髪を耳にかけなおしてやった。
曲げた指の間接で左耳をなぞるようにすると、りこの唇が微かに震えた。
「っ……な、何でそういうこと言っちゃうのよ! もうっ、ハクちゃんが変なこと言うからだよ! わ、私に色香なんてあるわけないんだからっ。竜帝さん、大丈夫!?」
胸を拳で激しく連打しはじめた<青>の背をさすろうと、りこが腕を伸ばした。
「変なことではない、事実だ。我は間違っていないぞ? ……下がれ、りこ」
りこはあわてて手を引き、数歩下がってから我と<青>を交互に見て言った。
「大変……お菓子がつまっちゃったみたい! お願いハクちゃん、竜帝さんの背中を叩いてあげてっ」
お願いとな?
りこのお願い。
「わかった」
我は<青>の背の中央を叩いてやった。
尻尾で。
<青>の口から出たのは、菓子と怒声だった。
「ぶぎゅうっ!? いってえぇぇ~っ! なにしやがる、このドS! 背骨が折れちまうだろうが!?」
<青>よ、お前が食っている菓子はりこへ持ってきた物ではなかったか?
何故かテーブルには3個しか残っておらぬようだが……。
「ハクちゃん! 強すぎだよっ。こんな感じでとんとんって、してあげなきゃ!」
りこが我の背を軽く、数回叩いた。
「とんとんか、うむ。覚えた」
とんとん……これは、なかなか気持ちが良い。
撫で撫でも良いが、りこの‘とんとん‘も我は好きになった。
我も菓子が詰まったら、りこが‘とんとん‘をしてくれ……っむむ、我は菓子を食わぬとりこは知っておるな。
自作自演だとばれたら‘とんとん‘をしてもらえん可能性がある。
では、違うものを……何を気管ににつめたら、りこに‘とんとん‘をしてもらえるのだろうか。
石が良いだろうか?
むっ、石では少々不自然か……なかなか難しい問題だな。
「もおぉ~っ! 竜帝さんがむせちゃったのは、ハクちゃんの所為なんだからね!?」
はて?
なぜ我の所為なのだ。
意地汚く数個の焼き菓子を口に放り込んでいた<青>が、それらを咽喉に詰まらせたのは……どう考えても自業自得だと、我は思うぞ?