第48話
「おはよう、りこ」
金の眼だ。
「ん……おはよう」
ハクちゃんだ。
ハクちゃん……ん?
私、さっき。
かけらを……キスしながら貰ったりして。
それで。
ハクちゃんが。
うわぁっ。
今度はちゃんと憶えてますよ、私!
あれは、その。
と、途中だったよね?
それって……ま、まずいよね?
「ハクちゃっ! 私っ、いたぁっつ!」
勢い良く上半身を起こしたら。
私の顔を正座して覗き込んでいたハクちゃんに、額を強くぶつけてしまった。
「ご、……ごめんなさいっ!」
鼻を両手で押さえたハクちゃんは。
ちょっと涙目で。
私はますます焦ってしまう。
正座をし、鼻を押さえて涙目の悪役顔美形様は。
「ふぇ、ふぇこ。……わふぇは、ふぁなっ」
ふぇこ、ふぁな?
え?
「うっわ?! きゃーっハクちゃん!」
白く長い指の間から。
真っ赤な液体が一筋、つつーっと。
「ハクちゃん、鼻血が出てるぅぅー!」
どんだけ石頭なのよ、私の頭ー!
私は大急ぎで洗面所に走り、タオルを濡らして強く絞り。
正座したまま上を向き、鼻を押さえているハクちゃんの姿に半泣きになりながら。
「痛かったでしょう? すごい音したものっ。ごめんね、ごめんね」
ほくろ1つ無い白い肌に、真っ赤な血。
綺麗な爪を持つ長い指にも、大きな手の平にも。
夢中で拭き取った。
血。
ハクちゃんの。
ハクちゃんの血。
匂い。
花のように香る、甘い……甘い香りがする。
これが……血液の匂い?
血って、錆みたいなんじゃないの?
思わず深く吸い込むと。
「あ、あぁれれ? 私、私っ……あれ?」
頭の中が。
ぐわーんと回った。
「もう、鼻血は止まったぞ! 我は世界一丈夫なのだ。全く気にすることは無い。……泣くな、泣かないでくれ。りこ、りこよ」
「な、泣いてないもの! ひぐっつ」
毛布に潜ってしまったりこに、我はどう対処して良いのか分からず。
側にしゃがみ、取りあえず声をかけ続けた。
「鼻血は貴重な経験だったぞ? 礼を言いたい程にな」
「よだれといい、りこのおかげで我は色々体験させてもらっているぞ!」
「内臓を眼から出したり、本物の涙を出したりして大変だったぞ?」
「先日など臨死体験をさせてもらい、なかなかおもしろかった!」
むむ?
言ってるうちに我自身もよく分からなくなってきたな。
慰めているつもりが、ずれてきたような。
『ひぐっ、こんな凄い超絶美形顔なのに鼻血とか、涎とかぁ! 内臓溶けちゃうしぃいいー、えっぇ。わ、私のせいで。ご、ごめんなさっ! そ、それにぃ』
異界の言葉だな。
全く意味不明だぞ?
『エ、エッチの途中で寝ちゃったから唯子が彼に捨てられたって、美恵子が言ってたものっ! ハクちゃん、捨てないでよぉおおお〜!』
お、毛布から顔が出てきたな。
うっ!
やはり泣いてるではないか。
『うえ〜ん……胸無いから離婚なんて、ひどいよぉ。このおっぱい星人め! エッチなんてしません的な、綺麗で怖い顔してるくせにぃいい〜! どうせ巨乳美女と付き合ってたんでしょう? ううぅ……ぶえええぇ〜んっ!』
まるでセイフォンで出会った時のように泣きじゃくるりこに。
自分の胃に穴が開くのを感じつつ。
りこがしてくれたのを真似て。
毛布ごと、りこを抱き寄せた。
「りこ、泣くな。りこに泣かれると我はとても辛いのだ。心も痛むし、身体も内部から崩れそうになる」
りこが竜体の我にしてくれたのを思い出し。
膝にのせ、背を撫でてやる。
りこがこうしてくれると、我はとても気が安らいだので。
「ほら、あまりに泣くから鼻水が出てるぞ? 顔も真っ赤で、アダの実のようだ」
『ど……どーせ私は、鼻水垂らしたアダモちゃんですよぉ! ぶえうぅううえええーんっ』
「ひっいぃ……な、泣かないでくれぇ、頼むから。な、りこ、りこよ」
我はりこを落ち着かせようとしたのに。
りこはいっそう激しく泣き。
『アダモちゃんの私と大魔王様じゃ、ひぐっ、ぜんぜんつりあわなーい! うわぁああんっハクちゃんの奥さん、首にされちゃうよ〜! 嫌だよう、慰謝料積まれたって別れてあげないんだからね……やだよぅ、別れたくないよぉ』
りこは我の腹にしがみつき。
『結婚式しなくたっていいの、ウエディングドレスもダイヤの指輪も無くていいから! うえっうう……ひっく。ハクちゃんがいてくれれば、ハクちゃんだけで』
今度は悲しげにしくしく泣きはじめ……。
あぁ。
我も泣きたくなってきた。
「旦那〜。何事ですか? ノックしても返事ないから心配したんですよぉって、お取り込み中でしたか! じゃ、失礼しましたぁ」
ダルフェ、待て!
おい、ちょっ……。
「た、助けてくれダルフェ!」
「へ?」
緑の眼が見開かれ。
「だ、旦那が‘助けてくれ‘? 嘘だろ?」
言った我も少々驚いた。
我が助けを求めるとは。
が、細かいことを気にしている場合では無いのだ。
「りこが変なのだ! 何を言っても泣くのを止めん。我はそろそろ限界だ、このままでは内臓を生のまま吐くぞ!」
我の腹にへばりついて、泣き続けるりこの姿にダルフェは眉を寄せ。
足元に落ちているタオルに目を留めた。
「これ……血液っすね? まさか姫さんのっ」
「りこのものなら我が舐めてるだろうが。これは我の鼻血だ」
りこの血液をタオルで拭き取るなど、もったいない。
「は、鼻血?」
ダルフェは恐ろしい物体でも見るかのように、タオルを凝視した。
「そう、鼻血だ。りこの頭突きをくらい、鼻血が出た。りこは凄いだろう! この我に鼻血を出させたのだぞ? 衝撃的な痛みにぞくぞくした。もう少し強くして欲しいほどだ」
自慢した我に向けられた視線は。
「あんたやっぱ、変。というか変態だな」
冷たいものだった。
何故だ?
最強竜の我に鼻血を出させるなんて、とても凄い事ではないか!
四竜帝が全員で掛かってきたとて、我に傷1つつけられんぞ?
我の身体を傷つけることが出来るのは、小さくか弱いりこだけだ。
あぁ、我のりこは本当に凄いのだ。
「ダルフェよ。りこは最高の妻だな。今まで我の知らなかったものを与えてくれる。愛しい者と交わる快楽も、肉体を損傷する痛みも。ああ、我は幸せ者だ」
ダルフェは無言のまま血の付いたタオルを拾い、居間に向かった。
どうやら暖炉に火をいれ、タオルを燃やしたようだった。
足早に戻ってくると、壁にある排気装置を作動させた。
無駄の無い動作で天窓だけでなく、開けられる所は全て開け。
一気に下がった室温に、りこの身体が震えだした。
「りこが寒いだろうが。お前も仕置きだな、ダルフェ」
「は? 全く自分勝手ですねぇ、旦那は。……血ですよ、血液が原因です。換気したらすぐ閉めますから」
血。
我の鼻血か?
「む?」
そういえば。
我もりこの血の香りで……。
「首かしげても、ちっとも可愛くないっす。逆に怖いんでやめて下さいよ」
だが。
「りこは人間だ。血の芳香に酔うなど……ん?」
人間。
人間?
微妙だな。
我の竜珠を宿し、我の体液を体内に注がれて。
大量の気を与えられ……瞳の色が我と同じになったりこ。
まあ、我の思惑通りとはいかなかったが。
人間の枠から少々……かなりはみ出ているな。
「旦那は姫さんを<自分に近い生き物>に変えようとしたんでしょ? ……続行中ですかねぇ。ま、それについちゃ俺に意見する資格は無いんで流しますが」
ダルフェはいつの間にか寝てしまったりこを見て。
「旦那にしかこの小さな身体がどう変わってしまったか、変わっていくのか分からないんですから。もっと気をつけてやって下さいよ。これ、泥酔状態じゃないですか。こんなに泣かせて可哀相に……。健康管理は夫の仕事だって教えたでしょうが、ったく」
泥酔状態。
そういえば、体温が平常時より高いな。
「先ほど摂取した体液からの情報では我の血に対する反応までは読み取れなかったな。なるほど、全てを把握可能では無いということか」
ふむ、我は自分の能力を過信しすぎる傾向があるようだ。
今後はもっと注意しなければ。
「は? 体液って、旦那……」
「お前が言った健康管理の一環だ。急ぎで確認したいこともあったのでな」
確認したかった。
りこが、りこの身体が我を本当に忘れているのか。
手酷く扱われた記憶が身体に刻まれ。
我に恐怖を感じないか、拒絶しないか。
不安で、怖かった。
りこは。
りこの身体は。
我を憶えていた。
我が触れると、素直に反応し。
悦んでくれた。
我を欲しがってくれていた。
心も身体も。
我を拒絶しなかった。
恐れなかった。
「ったく。旦那は姫さんの事となると駄目駄目ですねぇ。今日の茶は中止にしましょう。晩飯まで奥で寝かせてやんなさいな。あぁ、さっきの術士達の処理はヒンデリンに任せました。あいつはハニーと違ってやり過ぎるなんてこたぁ無い。適任ですよ」
ダルフェは苦笑を浮かべた。
「竜騎士なんて聞こえはいいが、しょせんは監視対象者の集まりですからねぇ。その中でもヒンデリンは飛びぬけて理性が強い。手加減が出来るし与えられた仕事を毎回、きちんとこなします。ハニーはすぐにばらばらにしちまうんでこの手の仕事には向きません」
竜騎士。
穏やかな性質を持つはずの竜族だが、時には強い凶暴性を持つ個体が現れる。
そういった個体は力も強く、他者を傷つけることに全く抵抗が無い。
人間と共存している現代社会にそれらを野放しにすることは、人間の竜族への恐れと嫌悪を増徴させることになるので竜帝により管理・監視されている。
強すぎる力と凶暴性。
他種族との共存を選んだ竜族の進化過程において、かなり薄らいできたその性質を濃く持つ個体。
先祖がえりの現象だと見られているが……我はそう思わんのだが。
種の進化や退化に口出しするほど、我は竜族の未来に興味が無いのでな。
はっきり言って、どうでも良いのだ。
「旦那。夕食は運びますがね、今夜は姫さんと一緒できません。陛下不在で下の奴等がてんやわんやでね。俺とハニーも手伝いに回ります」
力の強い個体は自分より強いものに服従する性質があるために、竜帝により竜騎士として管理されている。
全ての大陸の竜騎士が我に服従するのは、本能的な恐怖心によるもので。
「分かった。あぁ、夕食にはカチの実も用意しろ。りこはカチが気に入りのようだった」
「はいはい、それとカカエの卵料理っすね」
我がりこにカカエの卵を食べさせたいのは、その高い栄養価にある。
温暖で過ごしやすかったセイフォンと違い、帝都は寒冷地なうえに高地なので人間には厳しい環境なのだ。
しっかり食べて身体を強くし、毎日健康でいて欲しい。
昨夜のように熱で苦しむ姿はもう見たくない。
元気で、笑っていて欲しいのだ。
「……やはり、我はりこから一時も離れたくない。身体の変化が気に掛かるのだ。先ほどの間者はもうどうでも良い。通常の処置で聞きだせぬなら捨てろ。変わりは次々に沸いてくる」
「はぁ、いいっすけどねぇ。じゃあ……雇い主を吐かせてまだ生きてたら、新人訓練用に貰いますわ。間者としては殺されるほうがましだったでしょうねぇ」
生餌を使った狩りの訓練は、餌側にとっては地獄だからな。
「今回は<星持ち>が混じってましたから。楽しめますねぇ、くくっつ……あいつらも喜びます」
りこを気遣い、りこの喜ぶ菓子や料理を作るこの竜は。
竜騎士などと比較にならぬ、特異な個体。
「りこの前で<色持ち>の顔は見せるな。<赤い髪>よ」
我は術式で寝台の上に移動し、りこを寝かせようとしたが。
りこは両腕を腹にしっかりとまわしていて。
無理に引き剥がすことなど、我には出来ない。
もったいないではないか。
「ふむ、こういうのを役得というのか?」
枕を背にし、りこを腹にくっつけたまま座り。
手を伸ばしてりこの靴を脱がしてやり、適当に放った。
「りこ……こうして髪に触れられて、我は嬉しい。ラパンでの練習は卒業なのだ」
今の我は。
髪を梳き。
頬に触れ。
柔らかな肌に手を這わす事ができる。
深く交わったことにより、我の身体がりこを憶えたためだろう。
我の匂いを染み込ませたことで、我の不安感も薄らいで。
「今夜は風呂に入った後に、りこのくれたぱじゃまを着よう」
む?
今、我は。
微笑むことが出来ていたような。
そんな気がするのだが。
りこが寝ていて確認してもらえないのが、少々残念だな。
ダルフェが夕食を持ってくる前に起きたりこは。
酔いは醒めているはずなのに。
衣服の隙間からかすかに見える首まで赤く染め、金の瞳を潤ませて。
視線を我からそらし。
我の身体に回した腕に力を込め。
消え入るような。
震える小さな声で言った。
「私っその、あの……ハクちゃんが、えっと、イヤじゃなかったらね? さ、さっきの続きをっ、そのぉ……だ、駄目かな?」
続き?
さっきの続き?
泥酔の?
意味を判断しかねて首を傾げた我を。
りこの眼が不安げに見上げて。
「やっぱり、怒ってるの? あきれちゃった? ……ふうぇっ」
見る見るうちにかさを増した涙に、我はあせってしまい。
「お、怒ってなどいないぞ? 素晴らしい頭突きであった! りこは凄いな、さすがなのだ!」
りこは一瞬固まり。
「頭突き? ぶっつ……!」
笑った。
りこが笑うと、我は嬉しい。
とても。
「……えっ? うわっ!」
りこが我を見、笑いを止めた。
む?
なぜだ?
「ハクちゃん、今……今っ!」
我の頬に小さな手を伸ばし。
「わ、笑って……微笑んでたよ?」
柔らかな手のひらで。
「一瞬だけど。すごく、優しくて綺麗だった」
笑えたのか、我は。
「そうか。りこのおかげだな……りこ、笑えた我にご褒美の‘ちゅう‘をしてくれ」
「ふふっ、ハクちゃんが‘ちゅう‘って言うとなんか変なの〜。……眼、つぶっててね」
りこの唇は温かく、柔らかで。
触れるだけの口付けも。
我の心を満たしてくれる。
あぁ。
我は今も、微笑んでいることだろう。
「私……ハクちゃんが大好き。好き……好き、好きなの」
りこは何度も‘ちゅう‘してくれた。
眼をつぶれと言われてたので、ばれぬようにそっと薄目を開けて。
我に‘ちゅう‘するりこに見惚れた。
染めた頬、硬く閉じた目蓋。
羞恥の為か、眼を閉じた可愛らしい妻に我の表情が見えるはずもなく。
確認してもらえなかったが。
きっと、微笑むことが出来ている。
我の笑顔も、涙も。
全てりこのものだ。
鼻血も、内臓も。
髪も鱗も。
我の全てを捧げよう。
「……ハクちゃん、ちょっと。これっつ!」
りこの‘ちゅう‘にうっとりしていた我の髪をひっぱり。
「靴を履いたまま布団に入っちゃ駄目! 私のは脱がしてくれたのに、どうして自分はそのままなのよ? もうっ! ごめんなさいは?」
靴のまま寝台に入ったと、りこに怒られた。
「ご、ごめんなさい」
この我に、ごめんなさいをさせるとは。
うむ。
やはり、我のりこは凄いのだ。