第28話
お腹が空いた。
あ、ケーキが食べかけだったような。
ダルフェさんのケーキ。
「りこ」
ん?
ハクちゃん?
ハクちゃ~ん、私はお腹が空いたよぉ。
がじがじ。
硬いね、これ。
がじがじ。
硬いよぉ、味も無いよ。
「りこ? 空腹なのか? 何が食べたいのだ?」
がじがじ。
こんな硬いのじゃなくて、軟らかいのがいい。
すご〜くお腹が空いてるから、がっつり食べたいかも。
久しぶりに、カレーが食べたい。
ハクちゃん、カレー……カレーがいい。
「かれー? かれー……?」
私はカレーにするね!
ハクちゃんはなにがいい?
ハクちゃんは食べたいものある?
「我か? 言わないと駄目か? できるならば内緒にしたかったのだがな」
教えてよ。
他の人には言わないから。
秘密にするよ、二人だけの秘密。
ハクちゃんはなにが食べたいの?
「……りこ」
え?
「りこが食べたい」
私?
困ったね~。
食べられたら死んじゃうよ。
死んじゃったらハクちゃんといられなくなっちゃうもの。
あ!
私が死んじゃったら食べていいよ。
新鮮なうちに召し上がれ!
「りこは死なない。我が死なせない。永遠に我と生きるのだ」
ふ~ん。
よくわからないよ。
でも死なないと食べさせてあげられないよ?
ハクちゃん、お腹が減っちゃうよ?
「かまわない」
そう?
なら、いいかな?
生きていて、いいかな?
ハクちゃんの側にずっと、ず~っといていいのかな?
「そうだ。りこは我の側に。りこがこうして腕の中にいてくれるならば、我の飢餓は満たされる」
ずっと?
うん。
離さないでね。
置いていかないでね?
「二度と離れない。約束だ」
約束。
うん。
お腹、空いたなぁ。
がじがじがじ。
【繭】から無理やり出されたりこはずっとこの調子だった。
睡眠状態が混じったような不安定な意識。
支店4階の賓客用特別室に移されたりこは我の腕の中で、1日の大半を過ごしていた。
抱きしめると壊してしまいそうなので、我の腕はりこの身体に軽く添えられた状態。
りこはカイユの用意した身体を締め付けない作りをした前合わせの部屋着姿で、長椅子に横になった我の上でまどろんでいた。
ふと目を覚ましたかと思うと、寝言のようなたどたどしい口調で空腹を訴えながら我の手をとり……指を齧り始めた。
我としては指などいくら喰われようと、全く構わないのだが。
「もしヴェルヴァイド様の肉を食べたりしたら、トリィ様が正気に返ったときにお嘆きになります! 絶対、駄目です」
がじがじの感触を楽しんでいた我の指をりこの口から抜きながらカイユが言った。
「だいたい、貴方様のせいです。トリィ様がこんな状態になってしまわれたのは。明日の昼までには回復されるはずですが……。おかわいそうなトリィ様。身体機能回復治療のために2日も絶食なんて。空腹のあまり、こんなものなど口にされて御労しい」
こんなもの。
我の指のことか?
まぁ、確かに硬くて不味そうなので異論は無い。
我はりこの齧っていた指に目線を落として、あることに気づいた。
これは……おもしろい!
「カイユ。見てみろ……齧られた痕が残っているぞ?」
我の言葉にカイユが激しく動揺した。
「な! そんなっ……ありえっつ、嘘!」
我の指に残る痕を確認したカイユは絶句した。
「傷痕など見たのは初めてだ。我の再生能力は桁外れだからな。りこの可愛らしい歯形がしっかりと残っている……再生能力が利いていないようだ」
つまり。
「りこは我を殺せる」
りこが我の咽喉を食いちぎり、心の臓を噛み砕いてくれたなら。
「我は死ぬことが出来るのだ」
あぁ、りこ。
りこは我に死を与えることができるのか。
なんと素晴らしい!
我の至上の存在。
我の神。
我の生も死も。
すべてはりこの意のままに。
なんと甘美で幸せなことだろう!
「カイユ……りこは‘かれー‘が食べたいそうだ。食事がとれるようになったら‘かれー‘を出してやれ」
りこ。
異界から落ちてきた我の女神、我の支配者。
りこの望みが我の望み。
取りあえずは‘かれー‘なのだ。
で……‘かれー‘ってなんだ?
寝息をたてているりこに聞くわけにもいかず、我とカイユは顔を見合わせた。
かれー。
飽き飽きするほど長く存在してきたが、初めて聞く単語だった。
「りこ、どうだ? それがかれーなのか?」
金の眼がきらきらして見えるのは錯覚じゃないと思う。
美貌の無駄遣いみたいな無表情な顔の中、金の眼だけが感情豊かに変化する場所で。
このきらきらは……期待かな?
食卓の上の自称カレー(?)に戸惑う私に気づいたハクちゃんが、壁に背中をくっつけるようにして立つおじ様……バイロイトさんに視線を向けた。
バイロイトさんはここの支店長さんで、すらりとした長身のナイスミドルなのだ。
濃いグレーのスーツがすごく似合っているの。
セイフォンよりも衣服が近代的な国なのかな?
ハクちゃんの格好もファンタジー丸出し風(?)からかなり変化していたし。
細身の革パンに黒いブラウス。
足の長さにびっくり仰天しちゃったよ……日本人の敵だ! 悔しいぞ!
相変わらずの全身真っ黒コーディネート。
悪の大魔王様からマフィアのボスか殺し屋かって!
あ、ホラー系でもいけそう。
せっかく美形なのに。
美形過ぎるからか?
確かに性格はちょびっと難有り、いや、かなり難有りだけど基本は素直でかわいい俺様君。
黒じゃなくて、柔らかな色を今後は着せてみたいなぁ。
ま、白状するとマフィアのボスみたいなのもかっこいいけどね。
「あやつが……それがかれーだと。もしや違ったのか? かれーじゃないのか、それは」
うっ!
目の前の物体から逃避している場合じゃな〜い!
私から見てもはっきり分かるほど青くなった顔に放たれた殺人光線的視線に、これはまずいと直感した私は急いで宣言した。
「カレー、うん、‘かれー‘です! これはかれー! 美味しいです! 支店長さん、ありがとうございます〜!」
私はトマトケチャップとマスタードらしきものがたっぷりかかった……見た目焼きうどんな物体を思い切って口に入れた。
むむっ……ぐぇっ?
甘酸っぱいのはケチャップとして。
チョコレートの風味はまさかマスタードみたいなやつ?
不味い。
なんなの、これ?
麺料理の1種だろうけど。
炒めたバナナに似た果物と青菜そして海老にチョコ味がねっとりとからみつき、咽喉越しも最悪じゃぁー!
でも、食べないとバイロイトさんが危険なのだ!
人の命がかかっているのよ、りこ!
頑張れ、私!
息を止めて、飲み込むのよ!
ごっくん。
ハクちゃんはバイロイト支店長を睨むのを止め、金の眼を満足そうに細めて言った。
「うむ。でかしたなバイロイトよ。生きるのを許す」
出た、出ましたよ〜天井しらずの上から発言!
「こらっ、ハクちゃん! ごめんなさい、支店長さん。お世話になってるのに迷惑ばかりかけてしまって……」
今日の午後に起きたら、知らない場所だった。
目覚めて最初に見たのは金の瞳。
いつもと同じようにおはようの挨拶をして。
あ、いつもとは違ったんだっけ!
ハクちゃんが人型だった。
しかも、しかもぉ!
思い出すと、こっ恥ずかしさにのた打ち回りそうだよ、うう~。
ハクちゃんの上だった。
長椅子に横になったハクちゃんを敷布団にしてましたー!
ぎょっひぃい~!
ハクちゃんがにこりともしない無表情フェイスでおはようって言うから、こっちが照れるのもなんだしと平静を装って私もおはようって言ったけど。
内心は……その、えっと、うん。
察していただきたいのです。
「トリィ様。2日間も絶食なさった後ですから、重たいものは味見程度にして下さいね。さ、こちらは終わりですよ」
ナ~イス!
さすがカイユさん!
感謝です!
カイユさんは謎の物体Xを自然な感じで下げ、優しい香りが食欲を刺激するリゾットとポタージュ、そして小ぶりなプリンが乗ったトレーを私の前に置いてくれた。
眼だけで感謝を伝えると、カイユさんはちゃんとわかってくれた。
軽く頷き、ハクちゃんに言う。
「ヴェルヴァイド様。もう、バイロイトは下がらせましょう。かれーは彼のお手柄ですから約束通り、彼以下支店従業員の処分は不問に。よろしいですね? 行っていいわ、バイロイト支店長」
私も詳しいことは説明されていないからよくわからないんでけど。
なんか手違いがいろいろあって、ハクちゃんがぷりぷりしてたらしく。
ハクちゃんのぷりぷりって……怪我人も物損壊も無くて良かった!
私の寝たきり(?)状態が心配なハクちゃんは他の事が全て後回しになり、暴れることも無く大人しかったのが幸いしたようで。
「わかった。我は処分しない。カイユにまかせる」
私の横の椅子に座っていたハクちゃんはトレーからスプーンを取り、リゾットへ無造作に突っ込むとぐるぐる回した。
激しく、ぐるぐるぐるぐる回す。
これって、もしかして冷ましてるつもりなのかな~。
そんなに乱暴にぐるぐる……あぁ、こぼれてるし!
「りこ。あ~んだ。あ~ん」
は?
リゾットをてんこ盛りにしたスプーンを私の口元に持ってきたハクちゃんは口を開けない私に
首をかしげた。
「りこ、どうした? あ~んだぞ?」
な……なにぃ?!
「この2日間、こうして蜜薬を与えてたろう? あぁ、意識があやふやだったから覚えていないのか。スプーンであ〜んするのをカイユに習ったのだ」
く、薬……?
そんでもって、あ~ん?
記憶無いです。
まったく、1ミクロンも!
この2日間……私、どうしちゃってたのぉお~お!
「ヴェルヴァイド様。スプーンに盛る量が多すぎるのです。だからトリィ様は御口を開けないんです」
カイユさ~ん!
ち、ちが~うぅ!
「なるほど。多量を口に入れたほうが効率が良いかと思ったが、我が間違っていたな。確かにりこの咥内容量を考慮すべきだ」
カイユさんの指摘を素直に受け入れたハクちゃんはてんこ盛りリゾットを半分以下に減らして、再びスプーンを差し出した。
「りこ。あ~ん」
追い詰められた私は室内にすばやく眼を走らせた。
ダルフェさん……あぁ、彼は厨房か。
誰かこの状況をなんとかしてぇ~!
あ。
支店長さん。
おじ様は私と眼が合うとにっこりと微笑んだ。
そしてうんうんと頷きながら軽い足取りで部屋を出て行った……。
あぁ。
孤立無援。
自力で切り抜けなくては!
「ハ、ハクちゃん! 私、元気。だからご飯は自分で食べれるよ。気持ちだけで充分だから」
ハクちゃんの手からスプーンを奪おうとしたら……避けられた。
む!
「我はあ~んがしたい。我もりこの役に立てて……嬉しかったのだ」
ハクちゃんは私の顔を覗き込むようにして続けて言う。
「我はダルフェのように料理もできぬし、カイユのようにりこの世話もできぬ。抱っこも失敗してりこに怪我をさせる無能者だ。しかも我の我慢のなさがりこの身体に負担を強いてしまう結果を招き、りこに怒られるのは当然。名誉挽回の為にも、この‘あ~ん‘は今後も精進を重ねていきたいと考えている。さあ、りこよ! あ~んだ。あ~ん」
やっぱり。
ハクちゃんて、素直なんだよね。
でも。
ポイントがずれてるっていうか。
「りこ。あ~ん」
まったく。
かなわないよ。
「……あ~ん」
私の口に慎重にリゾットを運び入れたハクちゃんは、びっくりするくらいゆっくりとスプーンを引いた。
私が嚥下したのを確認すると、金の眼を細めて空になったスプーンを眺める。
「あと2品ある。何回もあ~んができるな」
新しい遊びを覚えた子供のように、ハクちゃんの金の眼が輝いていた。
ど、どうしよう。