第32話
真紅の横断幕に書かれていたその文字を。
「………………………………………………ざっ」
言葉にして口から出す勇気は、俺には無かった。
「…………………………………ざけんなっ、あのクソばばぁあああああ!!」
※※※※※※※※※※
俺は旦那達と城門で別れ、赤の竜帝の執務室へと駆け出した。
この城は、勝手知ったる俺の実家だ。
迷うことなく、最短ルートを激走した。
途中すれ違った奴等の妙に生ぬる~い、労るような視線が痛かった……。
「おい、このクソばっ……陛下!」
ノックもせずに、官能的なラインを持つ花々が彫られた木製の扉を押し開き。
俺は、執務室に突入した。
「あれは、どういうことなんですか!? 陛下!」
執務室は母さんの仕事場だ。
ここでは母さんは、母さんでもクソばばあでもなく四竜帝……赤の竜帝陛下、だ。
「あら? お帰りなさい、ダルフェ。美味しいお菓子があるから、食べていきなさい」
露出過多なドレスを着て、ソファーに座っていた赤の竜帝は。
「菓子は要りません! 陛下、横断幕の即時撤去を要求しますっ!!」
執務机を両手で叩いて言った俺に。
「…………陛下? ダルフェ。私と貴方しかいないんだから、ママでいいわよ?」
艶やかな赤い唇に笑みを浮かべ、言った。
「はぁ!? ママなんて、生まれてこのかた呼んだことねぇよ!」
「うふふふっ。そういうことにしといてあげるわね……さっき、クソばばあって言いかけてなかった? あら~、やだわ~、また反抗期なの? いい歳してみっともないわよ、ダッ君」
「反抗期じゃねぇ! 誰のせいだよ!? ったく……母さん、ふざけるのはやめてくれよ!」
俺は、<色持ち>で短命な俺につがいを得させようとする母親に反発し、距離をおこうとした時期があった。反抗期……あの頃は口だけの言い合いだけじゃ済まなくて、意識がなくなるまでボコられたこともあったな~。
母さんは雌竜だけど、四竜帝だけあって恐ろしく強い。
俺は未だに、全戦全敗だ。
「…………赤の竜騎士の制服、やっぱりとても似合うわ。電鏡の向こうで青の竜騎士姿の貴方を初めて見た時は、さすがに少し複雑だったのよ?」
赤い爪を持つ指で髪をかき上げながら、母さんは眼を細め……俺を見上げて、そう言った。
「………でも、あれも似合ってただろ? あんたの息子はこの通り男前だから、赤でも青でも似合っちまうんだよ」
「ふふ、そうね」
母さんは四竜帝でありながら、"母”であることを優先してきた。
<色持ち>で短命な俺を、少しでも危険から遠ざけようと竜騎士団に所属することもなかなか許してくれなかった。
竜騎士は竜族にとって、防衛と攻撃の貴重な"手駒”だ。
一人でも多く必要なのに、母さんは俺を竜騎士として扱うことを拒んだ。
そのことで当時の黄の竜帝と、竜帝のありようについて揉めて……俺は竜騎士団に入りたかったから、黒の爺さんに母さんの説得を頼んだ。
黒の爺さんのおかげで、俺は竜騎士団に正式に入団し…………竜騎士は基本的に実力主義だから、数年後には団長に就任していた。
自分が親になった今、母さんと衝突してばかりだったあの頃のことを思い返すと……申し訳なさと同時に、感謝の気持ちが込み上げる。
…………でもな、それとこれは別問題だ!
「話しをすり替えるなよ! あれは何なんだよ!? マーサおばちゃんが知ってたことは、母さんがひよこ亭に顔を出す前には城門に設置してあったってことだろう!?」
「え~、あれって? 何かあったかしら?」
「しらっばくれんな! 横断幕にあった"ダッ君杯”って何なんだよ!?」
もはやあれは、公開羞恥プレイだろーがっ!?
「うふふっ……あぁ、いいわ~、その顔。ダルフェは怒り顔も本当に可愛いわ! もっと虐めっ……可愛がってあげたくなっちゃう」
出た、出ましたよ!
この真性ドSめっ!
「俺はカイユ限定のドMなんだよ!」
「ああ~、なんてこと! 可愛い息子に、堂々とドM宣言されるなんてっ!」
「嬉しそうに言うな! ……ちなみに旦那も、嫁限定ドMだな。肉を噛み千切るほど噛んでくれっておねだりして、姫さんにドン引きされちまってさ~。いじけて大変だったこともあるんだぜ?」
「……ヴェルが!? あらあら、トリィさんも大変ね」
「うん、旦那の相手は大変だ。あの子は頑張ってるよ……異界に残してきた家族のことも色々気になるだろうに、旦那のことを思ってほとんどそういったことは言わないんだ」
「それが賢明だわ。異界に未練があるそぶりをヴェルに見せたりしたら、監禁されかねないもの」
「監禁されたって、あの子は旦那を怒ったりしないよ……異界にいるあの子の親、死にものぐるいで娘を探してるんだろうな……俺だって、ジリギエが消えたら探しまくるっ……」
もし、ジリギエに何かあったら……俺があいつを守ってやれる時間は、そう長くない。
「ダルフェ……」
「……なぁ、母さん。親って、こんなにも子供のことを愛せるんだな……俺、愛されてたんだな……」
俺は母さんの向かいのソファーに腰を下ろし、背もたれに腕をかけて天井へと眼を向けた。
そこには、少々派手なシャンデリア。
俺が初めての給料で、母さんへ贈ったシャンデリアだった。
ことあるごとに母さんと揉めていた当時の俺は、身に付ける物を贈るのはなんとなく気恥ずかしくて……執務室の照明器具を壊しちまったから(ここで母さんと揉めて、天井に蹴り飛ばされてぶっ壊した)買ったんだって言って、押し付けたシャンデリアだった。
赤の竜族の誰よりも華やかな母さんには、派手なくらいがいいかなと……まぁ、思ってたより高額で、金が足りなくて月賦で買ったんだけどな……俺、所詮は"箱入りお坊ちゃま”で、物の値段とかよく分かってなかったし。
父さんには、包丁を贈った。
墓まで持ってくって、すっげぇ喜んでくれたっけな~。
今日も使ってくれていた……。
「……私がダッ君杯って、言い出したんじゃないのよ?」
「え?」
視線を目の前に戻すと、苦笑する母さんの姿があった。
「昨夜、エルゲリストが言ったの。一族の皆が貴方の帰りを……独り身だった貴方がつがいと出会い、息子を得たことをとても喜んでくれているから、ダッ君杯が良いって……エルゲリストが、そう言ったのよ」
「父さんが?」
「そう、エルゲリストが。あの人、本当にいくつになっても純粋で……優しい人だから。怒らないであげてね?」
「……俺だって、そんなことは分かってる。父さんには、こんなことで怒ったりしねぇよ」
母さんは、知ってる。
俺が、父さんには強く出られないってことを。
「……仕方ねぇな。ダッ君杯で良いよ。それで進めてくれ」
「ありがとう、ダルフェ」
俺の父親、エルゲリストは普通の竜族だ。
温和で争いを好まず、のんびりした性格で……優しい。
父さんは<色持ち>で竜騎士の俺が軽く殴っただけで骨が折れ、大怪我しちまう。
……餓鬼の時、些細なことで癇癪をおこした俺は。
宥めようとした父さんを………気付いたら、眼の前で父さんが倒れていた。
俺の拳には、父さんの血がついていて。
父さんの左腕は、有り得ない方向へと曲がっていた。
自分のしでかしたことが怖くて、泣き出した俺を。
鼻からも口からも出血して、顔面が真っ赤になった父さんが。
元の顔が分からないほど腫れ上がってるのに、ふわりと笑って。
ーーごめんね、ダッ君。パパが弱いから……こんなになっちゃって、怖いよね? 泣かないで、ダッ君……ダッ君がこんなに強くて元気で、パパは嬉しいよ……大好きだよ、ダッ君はパパの宝物だ。
折れてない右腕で髪を撫で、抱きしめてくれた……以来、俺にとって父さんは"護るべき者”だ。
「あ、そうだ」
「ダルフェ?」
「旦那が武闘会に出たいって言ってるんだけど?」
「なんですって!?」
俺の言葉に。
赤い両眼が驚きに見開いた。
うん、やっぱそうなるよな~。
「ヴェルヴァイドが武闘会に!? ……ヴェルが出場するなんて、観客にはこれ以上はないほど受けるわね……でも、死人が出るのは困るから却下だわ」
だよな、うん。
でも、今までの旦那とは違うんだぜ?
「その点は安心していい。旦那は姫さんが見てる前では殺しはやんねぇから、死人はでねぇよ」
「駄目。死ななくても、確実に怪我人が出てしまうでしょう?」
「ルールは俺から話しておいた。出血させたら負けだって、旦那はちゃんと分かってる」
「あの人なら出血させずに殺すのなんて簡単よ?」
「だ~か~ら~、旦那は殺さないって! 俺がちゃんと面倒見るから、出させてやってくれよ!」
「…………昔から、貴方はいつだってヴェルの味方だったものね。分かったわ、そこまで言うなら許可しましょう。でも、ヴェルはなぜ武闘会に出たいのかしら?」
「ん? そういやそうだな……花祭りのダンスは姫さんと一緒にできることだったから乗り気だったけど、今回はそうじゃないもんな……」
わざわざ武闘会になんか出なくても、舞踏会があるから姫さんと一緒に楽しめる。
なんで武闘会になんか、興味を持ったんだ?
旦那は姫さんとつがいになってからは、確かに色んな事に興味を持つようになったが……。
姫さんを喜ばせたくていろいろ勉強っつーか、努力してるし。
旦那は武闘会に出たら姫さんが喜ぶとでも、考えたのかもしれねぇな。
「まぁ、貴方が面倒を見てくれるなら安心ね。対戦相手、どうしようかしら? 普通の竜族とは無理だし、赤の竜騎士も厳しいと思うわ。貴方と違って、あの子達はヴェルには全く免疫が無い。対峙した途端、蛇に睨まれた蛙状態になる可能性が高い。竜騎士のそんな無様な姿を、一族の皆に晒すのは避けたいわ……」
「そうだよな~……特別枠参加って事で、旦那は俺とだけ対戦してもらうよ」
うん、それが良い。
旦那が相手なら手加減しなくていいから、俺も楽だしな。
手加減無くできるなんて、すげぇ楽しそうだ。
模造刀じゃなくて、真剣でやりてぇ!
「……嬉しそうな顔して。そういえば、ダルフェ。ヴェルヴァイドと手合わせをしたことはあるの?」
「俺? ないけど?」
ボコられることはよくあるけど、あんなのは俺にとってもじゃれてる程度だ。
ちゃんとした手合わせ的なものは、したことがねぇな。
「実は、私もないのよね……」
「母さんも?」
母さんは、青の陛下と違って武闘派だからな。
鞭を好んで使ってるが、刀も槍も弓も使いこなす……。
「ええ。ヴェルが模擬戦の相手になってくれたことなんて、一度もないわ。……考えてみたら、あの人が剣や刀を持ち歩いてるのを、一度も見たことがないもの」
「武具を持つ必要がねぇからだろ?」
旦那は術式が使えるし、素手でも洒落になんねぇほど強い……技術うんぬんっていうより、身体能力とパワーが違うからな。
「そう、ヴェルは必要ないから刀は使わない。だから、今までまともに使ったことなんてないんじゃないかしら?」
確かに、言われてみりゃそうか……。
「ヴェルって、刀をちゃんと扱えるのかしら? できなかったら、相手をする貴方が危険だわ……大怪我どころか、ヴェルのうっかりミスであの世へ直行よ? あの人、基本的には不器用で大雑把だもの」
不器用で大雑把……。
模造刀でも、あのパワーで"うっかりミス”をやられたら……うん、死ぬ。
確実に。
吐血の頻度があがって再生能力が落ちている、今のこの身体じゃ死ぬな。
「……………………後で、旦那に確認しておくよ」
ダッ君杯まで、あと五日か……。
まぁ、何とかなる………………よな?
何とかしねぇと、俺が死ぬ。