第16話
「見ろ、りこ。少々話をしている間に、全て消えたぞ?」
我の身を傷つけたことを気に病むりこに、傷が治ったことを告げると。
「え? そうなの? 良かった~」
りこは安堵したのか、表情をゆるめた。
その顔を見たら、身の内からがじわりと何かが湧き上がり……愛情と欲情の混じり合ったそれに、我は逆らわず、流されることにした。
「りこ。りこ、りこ……」
「ッ!? ハ、ハハハハクちゃん!? まさか、またっ!?」
「そうだが。なにか不都合で……」
……………ん?
声。
この声は、竜族のみに聞こえる周波数……歌?
歌っているのは……この声は、<赤>だ。
我に聞こえるよう、わざと大声でこちらに向かっているな。
「ちょ、ちょっと!? ハクちゃん、待っ……」
「りこ、待て」
「へ? 待ってはこっちの台詞って言いますか……どうしたの?」
寝台に流れる黒髪を一房手にし、唇で触れながら我は言った。
「<赤>が来る。我は行く。りこはここで待て」
「え? ハクちゃっ……」
目を丸くして我を見上げるりこを残し。
我は転移した。
「そこで止まれ」
「きゃ!? ちょっ……いきなり、危ないわね! どいてちょうだい、ヴェルヴァイド。私を部屋に入れない気なの!?」
入室させぬように、りこのいる室内へと続く扉を背に立つ我に<赤>は言った……<赤>は銀製のトレーを両手で持ち、背の翼を動かし、赤い鱗に覆われた尾を左右に揺らしていた。
「…………何故竜体なのだ?」
<赤>の竜体は、色はダルフェと同じだが。
大きさは我の竜体と全く同じ……りこが最も好む、“抱っこ”に適した大きさだ。
りこは鱗を好み、そして『竜』の姿形を好む。
それを<赤>は知っている。
……口の軽い<青>が、<赤>と<黄>にそれを教えたからだ。
「こっちのほうが移動時間が短くてすむからよ。ほら見て、美味しそうでしょう? 私の可愛いダーリン、エルゲリストが作ってくれたの」
「…………」
<赤>の持つ銀のトレーの上には。
半分に切り、具材をはさんだ丸みのある我の拳ほどの大きさのパンが5個。
それと、蓋の付いた楕円形の白磁のスープ皿。
「……りこに“あ~ん”するのは久しぶりだ。腕が鈍っていないと良いのだが」
「“あ~ん”? ……あぁ、噂の愛の給餌行為っていうやつね? <青>には聞いていたけれど……付き合うトリィさんも大変ねぇ」
りこのために用意してあった軽食をとらず行為に及んだので、放置時間が長くなったそれを新しいものと替えるために<赤>が来たのだと我にも容易に察せられたが。
「スープが冷めないよう、急いで飛んできたの。うふふっ……だから私は竜体なのよ?」
内心が言葉と異なることを隠す気が全くないのだろう。
我を映す赤い目玉が、その思考をうけて愉しげに細まる。
「それよりも、貴方のその姿はなんなの? 人前ではきちんと服を着ないとトリィさんに怒られるわよ?」
全裸でいようが我が羞恥心を持つことはないが、りこに怒られるのは嫌いではないがまずい。
「……」
我は先ほどりこが選んでくれたレカサを脳裏に浮かべ、術式で身に着けた。
……衣類を身に着ける練習は、次回からだな。
「着たぞ。これで文句はあるまい。<赤>……ブランジェーヌ、その姿でりこに何を乞うつもりなのだ?」
スープが冷めるからなどと、見え透いたことを言いおって……スープ皿の下に保温用の温石が敷いてあるではないか!
温石と鍋敷きの違いくらい、我だって知っておるのだ。
……知ったのは、りこと暮らすようになってからだがな。
「あら? 意外、温石を知っていたのね」
「言え。りこになにをさせる気なのだ?」
<赤>に竜体で“お願い”をされたなら。
りこは容易に陥落するだろう。
忌々しいが、事実だ。
「なにをさせる気かなんて、大げさね。ただ、トリィさんにべったりの貴方を“お仕事”へ送り出してくれるように協力を御願いしようと思っていただけよ? ふふっ。貴方が私と伝鏡の間に来てくれるなら、私は竜体で彼女の前に出るのは今後はしないであげるわよ?」
「……」
伝鏡の間?
お仕事?
ああ、そういうことか。
我は四竜帝に用件など無いが、四竜帝達にはあるのだろう。
あれ等は我に用があっても、我には無い。
なによりりこと離れるのは、我は“とてもとても嫌”なのだから。
ゆえに。
「我はいかぬ」
“お仕事”ということは……<ヴェルヴァイド>だけでなく、<監視者>としての我にも用事があるのだろう。
だが、今現在異界の生物が誤って落とされた“感じ”は無い。
したがって、<監視者>の“お仕事”は無い……はずだ。
「やっぱりね。……だからトリィさんに協力してもらおうと思ったのよ。蜜月期である貴方がトリィさんから離れるのが嫌なのも、第二皇女の件があった後だから彼女の安全面に関しても必要以上に過敏になってしまうのも、充分に分かっているわ……」
<赤>は紅玉で作られたかのような歯が覗く口元から深い息を吐き出し、続けた。
「でも、ここは安全なのだから大丈夫よ? 私の竜騎士達が帝都も城も警護しているのだし……」
<赤>のその言葉は、人を模した我の皮膚の裏側をざわりと撫でた。
「…………ほう。大丈夫……だとお前が言うのか?」
「ヴェルヴァイド? どうし……!?」
我は左手の中指で。
<赤>の眉間に触れた。
同時に、触れた眉間から全身へと<赤>の鱗が音も無く波立つ。
「ヴェッ……ルヴァ……イドッ」
「カイユに廃棄を薦められるようなお前の“駄犬”共が“大丈夫”だ、と?」
正しくは、赤い鱗に触れたのは指ではなく我の爪。
それは、切先。
「……ッ……それって、私への嫌味かしら?」
我が望めば刃となる我の爪。
「嫌味? 違う、事実だ」
少々伸ばせば、易く<赤>の頭部を我の爪が貫くだろう。
「……無自覚な天然系サディストって、本当に嫌ね。お前だって、そう思うでしょう?」
人型の時と違い睫毛の1本すらない<赤>の目の際がくりぴくりと動き、赤い目玉が右へと視線を向けた。
「にやけてないで、出てきなさいダルフェ」
「……は~い」
視線の先は、通路の曲がり角。
赤味の強い石の敷かれた床に、黒い軍靴が現れる。
蜥蜴蝶を素材に使った軍服は、鮮やかな赤。
衣装以上に“強い”赤い色をした髪に、少々下がった目じりを持つ鮮やかな緑の眼。
「どうせ気づいてるんだから、もっと早く声をかけてくださいって。まったく、クソ忙しいってのにいつまでこんな所で暢気に話してるんすか? 面白くて、出るに出られなくなっちまいましたよ」
ダルフェは身を留め置いていた角から出ると歩みを早め、我と<赤>の傍に立った。
その腰の左にあるのは青の竜騎士であった時とは異なり、細剣ではなく刀。
通常のものより刀身が長く、鞘も柄も漆黒……鍔のみが、煌びやかなまでの派手な金銀象嵌で彩られていた。
「……」
「あぁ、これっすか? 俺が生まれた時、黒の爺さんが祝いにくれたやつです。好みじゃないんでお蔵入りしてたんですがねぇ、まぁ、使ってみっかなぁ~って……しばらく細剣での“お遊び”は止める事にしたんですよ。……あ~あ~、物騒なことしないでください。相手は孫持ちのばーさんっすよ? もっと労わって接してやってくれると助かるんですがねぇ~」
言いながら、ダルフェは<赤>の眉間から我の手をはらった。
その手には、白い手袋。
……青の城でのこやつは、素手であることが多かった。
だが、今、こやつの手には白い手袋。
そして、“遊び”の細剣を止め刀を帯びている。
「ダルフェ、それはっ…………」
刀に気づいた<赤>が、何かを言いかけ……それは言葉に、音にすらならず消えた。
消えたそれは『四竜帝』としてのものではなく、『母親』としてのものだったのだろう。
「……ったく、まぁいいけどね。さぁ、陛下はさっさと仕事に戻る! 伝鏡の間でお待ちの皆さんはぴりぴりしてるし、青の陛下の横には王子様スマイル全快の舅殿まで居て、小心者の俺じゃあの場は耐えられませんって! はい、それかして」
ダルフェは<赤>の手からトレーを素早く奪うと、それを我に差し出しつつ言い。
<赤>はゆるゆると首を動かし、我とダルフェを交互に見てから高速で飛んで……伝鏡の間へと向かったのだろう。
「陛下、執務室に寄らないでまっすぐ伝鏡の間に行くみたいっすね。ほら、あんたは飯を姫さんに持っていってやんなさいな。旦那は飯を姫さんに渡してきたら、伝鏡の間で四竜帝達と会ってください。黒の爺さん、まだ死にはしませんが、短時間しか意識が保てない状態なんで急いでください。あんたの好きな“あ~ん”は、晩飯の時にたっぷりできるようなメニューにするように親父に俺から言っておきますから、今回は諦めてくれませんかねぇ?」
「…………」
何を言われようが、我の答えは変わらない。
晩飯までなど、待てぬのだ!
「嫌だ」
我が何日、“あ~ん”をしてないかこやつは理解しておるのか!?
「嫌って……ったく。しょうがねぇなぁ~」
ダルフェからりこの食事の乗った銀製のトレーを受け取ろうと、我が両手を出すと。
自分から我に差し出してきたくせに、ダルフェはそれを掲げ持ち我の手から遠ざけた。
「ッ!?……貴様っ、あいたこの手で首を捻じ切るぞっ!」
言ってから、思った。
この至近距離でそれしたら、りこの食事が汚れてしまうのではと……。
むっ?
ダルフェのやつは我が食事を汚すのを厭いやらぬと分かっているからこそ、このような“意地悪”をしたのか!?
「…………」
「旦那、顔が超怖いっすよ? まぁまぁ、落ち着いて俺の話を聞いてくださいって。俺はあんたと姫さんに顔見せた後、急いで各竜帝用の伝鏡の微調整してたんですけどねぇ、そうしたら青の陛下より先に舅殿がひょっこり顔を出しましてねぇ~」
舅?
カイユの父親か。
どれくらい前になるのか……先代の<青>が、銀の髪の幼竜を連れて城内を歩いているのを、塔の上から見たことがあった。
そうか……あれが、あれか。
……<先祖返り>という貴重な個体を先代の<青>は手に入れ、その個体の娘は<色持ち>をつがいにし、息子を産んだ。
ならば、その息子は…………それは過去に例が無く、この先も…………。
「待ってましたとばかりにカイユの髪のことや他もいろいろ、ねちねちちくちくぐさぐさ言われましてねぇ。で、その舅殿がそれはもう嬉しそうに、にこにこしながら最後に教えてくれたんですよねぇ……旦那がごねたら、こう言えって」
思考が“現在”から少々ずれてしまった我を戻したのは、ダルフェだった。
ダルフェの声、ではなく。
言葉、だった。
「“『とりい・りこ』からなら、私は奪える”」
「って、舅殿に……セレスティスに言った奴がいるそうですよ?」
--とりい・りこからなら
--私は奪える
「………………で?」
それ言ったのは『誰』だと、訊かなくとも。
ダルフェは答える。
それは、我へと用意された『餌』なのだから。
判っていて、我は喰らうしかない。
「導師です」
導師。
導師?
導師……導師、か。
「青の陛下が前に言ってたでしょう? 珠狩りに関係してるらしい、例の正体不明居所不明の術士ですよ」
訊くまでも無いくせに、ダルフェは我に訊く。
「さぁ、あんたはどうします?」
「…………」
緑の目玉を細めたダルフェが、銀のトレーを左手に持ちつつ片膝をつく。
恭順の姿勢に似合わぬ鋭い視線が、我を見上げる。
「御指示を。“我が主”」
我が主、か。
要らぬ茶番だな。
「ダルフェ」
ダルフェとカイユ、そしてその息子は我が四竜帝より“もらった”が。
こやつもカイユも、我を真の“主”とは思っておらぬのだから。
カイユにとっての主は当代<青>、唯一人。
ダルフェは……赤の竜騎士でありながら、青の竜騎士でもあったダルフェの“主”は……。
「ダルフェよ。赤の<色持ち>の竜よ」
ーー貴方に永遠の忠誠を。竜帝陛下を裏切ることになろうとも……。
「お前はりこの傍に」
セイフォンで、ダルフェは我にそう言ったが。
それは我を“主”と考えてのものではないはずであり、我もダルフェの“主”になろうとは思わぬ。
ゆえに我は、言う。
従属を隷属に貶め、力と恐怖で統べて締め上げる。
「我のりこに何かあれば。カイユとジリギエの四肢を踏み潰し、親の臓腑をお前の顔面にぶちまける」
我がそう言うと。
垂れた目尻がますます垂れ、それとは逆に口角が上がる。
その口からは、ぎりりっと歯の軋む音。
「っ……やっぱりそうきましたか。あんた、それじゃサディスト通り越して立派な鬼畜ですって。ってか、旦那、ジリギエの名前をちゃんと覚えてたんすねぇ……ひとつ言っても?」
ダルフェの緑の眼には。
我への怖れも怯えもなく。
「言え」
あるのは。
そこにあるのは、熱。
望みを、願いを糧に。
足掻き、もがき、四肢が砕けんばかりに生きるからこその……。
「“全部”の片がついたら、旦那に頼みっ…………たいこと、がっ、あ、り……ますっ」
ダルフェの赤い髪と共に言葉が、息が揺れた。
外からの乾いた風がそれらを揺らしたのではなく。
揺らぐ命がその身を、内側から揺さぶったのだ。
「ならば。その時までは生きろ」
口元の赤を舌で舐めとるダルフェに背を向け、我は四竜帝の待つ伝鏡の間へと転移した。