第13話
この部屋は。
ぽっこりとしたお腹を震わせながら、床に倒れている真珠色の竜が、ハクが。
私を、待っていてくれたこの部屋は。
青灰色の石を使って組み上げられ、曲線の美しい鉄器でデコレーションされた暖炉には火は燃えていなかったけれど……あたたかかった。
大きな窓から見えるのは、伸びやかに茂る緑。
葉の間を日差しが泳ぎ、キラキラと室内へとこぼれる。
朱色のマーブル模様を持つ光沢のある石で出来ていてる壁にも床にも、音も無く陽が駆けて足跡を残していく。
陽が。
やわらかな温度と光を、この場所に与えてくれて。
室内には優しいあたたかさが、満ちていた。
そのあたたかさは、肌から感じる温度だけじゃなくて……。
あ。
そうか。
いるから。
貴方が、いるから。
貴方がいる、いてくれるから。
ここは。
ここも。
あたたかい。
「ご、ごめんなさいハクちゃん!」
私ったら……やってしまったぁあああ!
ハクが扉の前でうろうろして待っていると、赤の竜帝さんが言っていたのに!
「痛かったでしょう!? ごめんね、ごめんなさいハクちゃ……ハク?」
鋭い爪を持つ四本指の手も可愛らしいぽっこりとしたお腹も、小刻みに震えて……。
「りこ。……ごめんなさい、なの、だ」
小さな手で自分の顔を覆ったまま、ハクは言った。
竜体のハクに耳から聞こえる音としての『声』は無いから、念話として彼の言葉が私の頭の中に届く。
「? なんで貴方が謝るの? 今のは私の不注意だから……ハク?」
床に背をつけて倒れている小さな竜の傍に膝をつき、脇に手を入れ目線が同じ高さになるよう抱き上げをると、ハクの尾がくるりと内側に巻かれた。
「……我はごめんなさい、なのだ」
顔を両手で隠したまま、再度謝罪をする彼。
彼が、ハクが謝っているのは……。
「なんで謝るの? ハクは私を迎えに来てくれたでしょう? 助けに来てくれたでしょう? 今回のことで、貴方が謝ることなんてなっ……ハクちゃん?」
私の右腕に、するりと何かが巻きつく。
見ると、ハクの尾だった。
さっきまでくるりと内側に丸まっていた尾が、私の腕に……。
「ハク?」
真珠色の鱗に覆われた尾が。
滑らかな動きで、私の腕を絡めとる。
「……りこ」
顔を隠していたハクの手が、指が。
ゆっくりと動き、黄金の瞳が露わになり。
四本の指を持つ小さな手が。
私へと、伸ばされる。
「りこ。我のりこ」
真珠色の鋭い爪を気にしてか。
「<赤>がなぜここで待っていたのか、りことて分かっておるだろう? あれは我が再びりこを傷つけることを危惧し、りこを貪ろうとする我を抑える『道具』として自分自身を使ったのだ」
その手は私の頬に、触れる直前で。
「我が他の者を壊すのを、りこは喜ばない。皆、それを知っているゆえ……」
ぎゅっと、握られて。
「そうだ。知っているのだ、皆。四竜帝は……竜族も人間も。我のこの手が、我が」
まん丸に、なった。
「我のこの手が。我という存在は“守るもの”ではなく“壊すもの”なのだと、本能で知っているのだ」
いまだに貴方は、その小さな手を握りこむ……。
鱗に覆われた四本指の手は、私のこの手の中に収まるほど小さく可愛らしいのに。
その可愛らしい手が、私はこんなにも愛おしい。
「……この手が、“壊す手”だっていうの? そんなこと……そんなこないよ?」
丸められた手が、私の頬に触れて。
彼の震えが、肌から伝わってくる。
「私はハクのこの手が、大好き。小さくて、可愛くて、綺麗で……優しい手だもの」
「……」
この震えは、貴方の気持ち……想いであり、心。
ハクは……とても、すごく、怖がりな人だから。
私達はまた会えたけど。
こうして一緒にいられるけれど。
たとえ僅かな時間でも。
扉一枚の隔たりが。
また、貴方に怖い思いを……不安させてしまったの?
あの時、この手に掴んでいた貴方の真珠色の髪を、私は離すべきじゃなかった?
「ごめんなさい、ハクちゃっ……」
「違うのだっ!!!」
私の言葉を遮ったのは、ハク。
彼の黄金の瞳を細く黒い瞳孔が、肥大と収縮を繰り返す。
初めて見るそのさまに、瞳孔の動きに呼応するように、私の胸の奥もきりきりと捩じ上げられる。
「……ッ!?」
それは痛みとなって、身の内を這い上がり。
咽喉の粘膜に爪を立て、眼球の裏を焼く。
「我はっ! りこ、我はっ……我はこの世で最も“力”があり“強い”存在なのだぞ!? 我が望んだのではなくこの世界が我にそう望み、願ったのだ!!」
その熱は、この痛みは。
きっと。
ハクの、ものだ。
「だがっ! なのにっ! なぜ!? 我はりこを奪われっ…… 我は“強い”のに! なぜっ、なぜっ、なぜなのだ!?」
だって。
だって。
涙は、その瞳に無くても。
貴方は。
泣いてる。
「あの女などより我はずっと“強い”のに……その我がりこを奪われるなど、おかしいではないかっ! 何が我には“足りなかった”のだ!? まだ“強さ”が、“力”が足りぬからなのかっ!?」
ねぇ、ハク。
自分では、気づいてないの?
貴方は今、泣いてるんだよ?
「ならばっ……『神』になればもっと“強く”なれるのか!? それとも人間共の望むように魔の王になれば、貴女を何者にも奪われぬのか!?」
心が、大泣きしている。
ハクは。
怖がりで。
寂しがりやで。
泣き虫、だから。
「否、否! そうでは無いのだ、違うのだっ!! 神も魔の王も違うっ……りこ、りこ! 我がなりたいのは! 我はっ…………りこ?」
「……ハク」
私は貴方を、抱きしめるの。
この腕で、この身体で。
「大丈夫。私はここにいる。大丈夫……もう、独りじゃない。私達は、また一緒に……ずっと、一緒よ?」
「……ずっと……りこ、ずっと一緒か? ずっと一緒……我と……我とりこは、一緒……」
貴方を、ハクを。
愛しい抱きしめ、愛しい人に抱きしめられる喜びを、幸せを。
私に教えてくれたのは、ハク、貴方だから……。
「うん。ずっと、一緒……」
「……我とりこは、一緒……そうだ、そうだな。そうでなければ、駄目なのだ……」
魂だけになっても。
貴方の側にいたい。
「一緒……ずっと……どうすれば……生を……足す? 増やす? ……つな、げる? つなぐ………」
「? ハク? 何言って……?」
「……いや、なんでもない」
なんでもない?
んー、そうは見えない態度だけど、まぁ、やっと落ち着いてきたんだから、追求しなくてもいいかな……。
「りこ。……前にりこに我が“抱っこ”をしてもらってから、何日あいたか分かっているか?」
私の腕の中で、ハクの身体から徐々に震えと強張りが和らいでいくのを感じた……あぁ、良かった。
「え? わからない……あのね、私、捕まってから寝っぱなしだったみたいで日にちが……よくわかってないの。何日も眠ってたみたい。それって異常で変だけど、身体はなんともないみたい」
私はこうしてまた、貴方を抱きしめられる。
貴方が私を、抱いてくれるように……。
抱きしめあうと互いの想いが、触れ合う場所から染み込み混ざっていくみたい。
「ずっと、眠っていたのか? ……あぁ、なるほど、な……そうか。だからか…………りこ」
肥大と収縮を繰り返していた黒い瞳孔が。
徐々にその変化を緩やかなものに変え、落ち着き。
「我はハク、なのだ」
見慣れた状態へと、戻る。
「ハクちゃ……ん」
私の頬の上で強く握られていた小さな手が。
にぎにぎと、動き。
「りこの、ハク、なのだ……」
頬を撫でる。
「うん……うん、そう。貴方は、私のハク」
「りこがいてくれねば、我は“ハク”ではなくなる……我は、りこのハクでありたい」
労わる様に、ハクは私の頬を何度も撫でてくれた。
頬に添えられたにぎにぎ状態の手から伝わるのは、私を大切に想ってくれる貴方の優しさ。
「……ハクちゃん、ハク」
顔をずらして、頬を撫でてくれていた手に口を寄せ。
ぱくっと、噛んだ。
「りこ? 空腹ならば、<赤>の用意したものがあるぞ? パンに野菜や加工肉を挟んだものと飲み物があったぞ? む? 鯰料理のほうが良かったか? 赤の大陸の鯰は一部地域では<河の鮫>と呼ばれるほど獰猛だが、青の大陸産より脂が乗って美味いらしいぞ?」
え?
赤の大陸産の鯰って、青の大陸産と味が違っ……そ、そうじゃなくてっ!
この状況で、お腹空いたことをアピールして噛んだと貴方は思っちゃうわけ!?
「……」
さらに力を加えて、がじがじ齧ってみたけれど……。
「りこの顎力では我を食い千切れぬぞ? 見た目は食用蜥蜴に似ているかもしれぬが。どうしても我の手が食したいならば、我が斬り落としてダルフェが帰ってきたら調理させるが……急ぎなら、ダルフェの父親にでも調理させるか?」
「え!?」
さらに歯をたてた私にハクちゃんがそう言ったので、あわてて離した。
斬り落としてダルフェさんに調理……この人なら本当にやりかねないも!
ちゃんと食事をしてなかった私だけど、なぜか空腹感はほとんど感じていないの。
今の私が満たしたいのは空腹感ではなくて、そうじゃなくてっ……。
「あのね、ハクちゃん。……もうっ、私としては、精一杯の“これって色っぽいかな?”なお誘い方法だったんだけど……はぁ~、やっぱり私じゃ色っぽくなんて……」
「りこ?」
「お腹じゃないの。私の“ここ”が、空いてるの」
きょとんとした目で私を見ているハクを、ぎゅぎゅっと胸に押し付けた。
「はて? この位置にある臓器は心臓であって、胃ではないぞ?」
胃……胸はスルーで臓器ときましたか!?
りこの乳が好きだとか平気で言っちゃうクセに、その乳はスルーですかぁあああ!
う……まあ、私が言いたかったのは胸とか乳じゃなくてですね!
「え~っと、あのっ、今から……さっきの続きをしませんか?」
あ~、もうっ恥ずかしいっ!
うう、直球過ぎたかな?
「さっき? さっき………ん?」
あぁ、顔が、全身が羞恥で火照る!
心臓が、ばくばくいっちゃう!
「心拍数、体温が急に上がったな?」
私の胸から顔をあげてそう言ったハクちゃんは、黄金の目を細めた。
「…………なるほど。先程中断した交尾の“続き”か? りこは言葉より身体のほうが雄弁だな」
私の右腕に巻かれていたハクの尾が、機嫌良さ気にすりすりと肌を摺る。
この動き……ハクのほうこそ、言葉より身体が雄弁なんじゃないの?
「あのね、“ここ”っていうのは……身体もだけど、心がハクを欲しがってるってことを言いたかっの! こういう時は察して、ベッドに連れていってくれてもっ……!」
なんかもう、いろいろ恥ずかしくて。
思わず、ハクを。
「えいっ!」
「りっ!?」
思わず、つい、ハクの身体を後方に投げてしまった。
「あ! ごめっ」
「りこっ!? 急になにすっ……りこ?」
翼を広げ、空中でとまったらしく、床に落ちる音がしなかったことにほっとしたら。
「うぅ……だって、ハクが、私、ハクと……」
ハクとつがいになってからっけっこう経つのに、相変わらず大人の女の余裕も色っぽさもない自分が情けなくて。
後方に投げてしまったハクに申し訳なく、顔を向けることができなくて、がばっと床に突っ伏した。
あぁ、涙が出てきちゃっ…………ん?
背中に、重み?
視線の先にある床に広がる真珠色の……。
「……ハク」
長い腕が私に回され、囲うように……。
左の頬に、後ろからゆっくりと重ねられたのはハクの頬。
その肌には鱗は無く。
陶器のような、滑らかさ。
ひんやりとした体温なのに、触れ合うそこからは伝わってくるのは……心をじわりと溶かす熱。
耳には、淡く揺らぐ吐息。
ハクの唇が、耳朶を下から上へとなぞる。
「りこ、りこよ」
後ろから、膝をついて私を抱き込むハクからは、彼の匂いが香り。
私は鼻からそれを意識して吸い込み、体内に送り込む。
香水とかは一切つけていないのに、ハクはいつだって良い香りがする。
「りこにも、我が足りないのか?」
何度も深く息を吸った私に気づき、ハクが言う。
あ。
ばれてる。
ハクの匂いをついつい嗅ぎまくってたのが、ばれてしまった!
うう、恥ずかしい……。
変態な妻で、ごめんなさい!
「……りこ」
ますます顔が上げられなくなってしまった私に、ハクが……。
「我も、りこが足りないのだ」
そう言って。
耳朶から唇を離し、身を屈めて私の顔を覗き込む。
「真っ赤だな。熟れたアダの実のようだ」
アダの実、みたいに真っ赤……あ。
「……前にも、ハクはそう言ったよ?」
あれは、青の竜帝さんのお城にお引越ししたばかりの時だった。
私の頭突きで、ハクが鼻血を……うっ!?
ハクのこの顔に鼻血っ……あらためて思い出すとっ……。
「く、くっ……う、ふふっ。アダの実、甘酸っぱくて大好き……また、食べたいな。……あ、ハクの鼻血を思い出して笑っちゃって、ごめんなさい!」
笑ってしまったことを謝りながら、ハクを見ると。
「あ……」
そこにあったのは。
温かさ。
私だけに、与えられる温かな……冬の太陽みたいな、柔らかくて優しい温度を持った微笑み。
「今はアダの実ではなく。我を食べてくれるのだろう?」
私の身体に回された腕に、力が加わり。
夜着の襟を、長い指がなぞる。
「りこ。この温かな身体で」
合わせ目から這入ってきた真珠色の爪に飾られた指先が、私の肌を弾き。
「りこ。この柔らかな唇で」
赤い舌が、私の口角を舐るように這う。
「さあ。存分に、我を喰らってくれ」
「ハッ……ハクッ」
食らってくれと言いながら。
貴方の唇が、手が、指が私を食べていく。
「貴女限定で。我は食べ放題、なのだから」
「た、食べ放っ!? なに、言って……」
「りこ」
突っ伏していた床から剥がされるように、抱き上げられた胸で聞いたハクの言葉に。
「今の我等にとっては。あの寝台が食卓、だな?」
答えるかのように、全身の血がざわざわ騒いで一気に沸騰した。
私の中に抑えきれぬ想いが溢れ、ぶわっと噴出した涙とともに熱い舌が舐めとったのは私の理性。
「りこ。我を生かすこの世で」
残ったのは、剥き出しの。
「貴女だけが、愛おしい」
貴方を愛する、私の本能。