第4話
星が去り、闇が薄まる。
静寂の夜に冷めた大気に、陽が融け始める。
目覚めを唄う鳥達の羽ばたきに押され、天の陽は熱を帯びた光となって地上へと流れ着く。
「……」
我は。
ここで、空を見上げていた。
その間に、自ら貫いた手の肉は痕無くもどったが。
痛みは、消えることも去ることも無く。
我と共にあった。
「…………」
皮膚を刺すような日光は、時の動きに合わせて柔らかな月光になり。
薄めた墨で描いたような雲が、夜空を漂うさまを眺めた。
この世界が生まれた時から繰り返されるそれは。
夜を日に継いで天を見上げる我の視線などお構い無しで、我の身の内で荒れ狂う獣の咆哮に臆することもなく。
天は定められた理のままに変化し動き、廻る。
「ヴェル」
「……」
声に振り向くことも、言葉を返すこともせず。
空を見上げる我に、<赤>は言う。
「ヴェル。いい加減、空など見飽きた頃でしょう?」
「……」
動かぬ我に焦れたのか、ブランジェーヌは自ら我の前へと移動し。
「ヴェルヴァイド」
両手を伸ばし、我の顔を掴んで自分のほうへと向きを変えた。
真紅の瞳が細まり、艶のある唇が柔らかな弧を描く。
「ありがとう。感謝するわ」
敷き詰められた象牙色のタイルに赤の竜帝の持つ赤が映り、色を変える。
それはまるで。
世に不変なものなど無いのだということを、黙して説いているかのようであり……。
変わることは罪か?
変わらぬことが罪なのか?
我には分からない。
……それを真に判る者が、この世にいるのだろうか?
「………………何に対しての、だ?」
ブランジェーヌの言葉の意味が掴めず訊ねると。
「分からないの? ジリギエのことよ?」
我の顔から離した手を、ブランジェーヌは自らの顎に添えて顔を傾げた。
磨かれた爪には、砕いた貴石で模様が描かれていた。
真紅の爪を飾るのは、碧の螺旋。
その曲線にあるのは、母親としての願い。
先に逝くことを定められた、息子への……。
「……幼生?」
あの幼生は。
ダルフェとカイユの子であり。
ブランジェーヌの孫でもある。
「ダルフェの時のようには、あの子はならなかった。だから、ありがとうと言ったの」
「……」
その言葉に、気づかされる。
そうか。
なるほど。
我は。
「…………あれはりこのモノだからな」
あの幼生を。
連れて来たのだな。
「あの子は、トリィさんを主にしたのね?」
「そうだ」
あれの意思を酌んだのでは無く、我の意思で連れて来たということか。
「賢い子だわ」
「そうか?」
「そうよ」
言いながら。
肌をさらした竜族らしからぬ衣服を纏う身を寄せ、我の首に両腕を巻いた。
「……どうした?」
吐息が触れる距離にあるその顔にあるのは。
露な疑問と、微かな戸惑い。
寄せた眉の下で、赤い瞳が細まる。
「貴方が冷静で、驚いてるの」
「…………冷静?」
冷静だと?
この我が?
どこが?
今の我のどこに、“冷静”が存在するのだ?
ブランジェーヌ、当代赤の竜帝よ。
お前は、我を知らぬのだ。
お前の見た“冷静”など、この我のどこにも有りもしない。
あるのは。
我にあるのは……。
「ヴェルヴァイド。貴方が自分から口付けるのは、口付けたのは。後にも先にもトリィさんだけなのね……」
「そうだ」
「ふふっ、妬けるわね」
唇を。
我のそれと触れ合わせ。
ゆっくりと分かち、笑むブランジェーヌに。
「二度とするな。次はお前のその頭が飛ぶぞ?」
忠告ではなく、警告をする。
「……貴方って、意地悪よ」
我の身から離れ、数歩下がり。
ブランジェーヌはそう言って、我を責めた。
「まったく、最低で最高に酷い男ね」
まるで幼い時のように、口を尖らせ言うそのさまに。
強い意思の煌めく瞳に。
「我の、どこがだ?」
「全部、よ」
我のことを“おっさん”と呼んだ幼竜の姿が重なる。
「私は夫を愛してる。でも、ずっと貴方に恋してきたわ」
「恋? お前のそれは、違うと思うが?」
この<赤>が幼竜だった頃。
小さな手が、震えながら我へと伸ばされ。
我の髪を、両手で掴んだあの日。
「……そんなことないわ」
「ならば。愛をとり、恋は捨てろ。お前のそれは不要で無用だ」
あの日。
あの時。
我は何を感じ、思ったのだろうか?
「無理よ。私は強欲で、嫌な女だから」
いったい、いつ。
このような。
「ねぇ、なぜ貴方は四竜帝とは寝ないの?」
自嘲な笑いを、これは覚えたのだろう?
「…………では訊くが」
我は。
四竜帝等の傍にいながら。
何も見ず、気づかず。
ただ、そこに居ただけ。
「お前は子と交尾を、性交をするか?」
りこ。
りこよ。
「しないわ」
貴女に会い、我は変わった。
「お前はアレを愛しているのに? そのダルフェに誘われ、請われてもか?」
貴女に愛され、我は変わった。
「ヴェルヴァイド! それ以上言ったら、怒るわよ!?」
貴女の愛が我を変え、我の『世界』を変えたのだ。
「ブランジェーヌよ」
我は両手を伸ばし。
「<赤>よ」
ブランジェーヌの頬に、指先で触れ。
「お前は子とは交尾しない。快楽を得るための性交をしない、それを望まない。我も同じだ」
手のひらで、包んだ。
「私は貴方の子じゃないわ。貴方は私の父親じゃない」
今まで意味の無かったぬくもりが。
「…………そうだな。お前は我の子では無いが」
意味を持ち、我の皮膚に染み入り溶ける。
「我、いや……この身にとって。<古の白>にとってお前は、四竜帝は『子』と同じなのだ」
我は何度この赤い瞳を見、この赤い髪にこうして触れただろうか?
この<赤>も、その前の<赤>も。
産まれ、生き、死んでいった。
雌雄、姿形が変わろうと。
この色は、変わらない。
「……子? どういう事? ……<古の白>にとって? なら、今ここにいる貴方は『誰』なの?」
「……」
その問いを四竜帝から聞くのは、何度目か。
「貴方は、誰なの?」
皆、去り逝くその時までには必ず一度は口にする。
「我は」
その問いに、我は初めて答えた。
「我は、ハク」
以前の我は答えなかった。
否、答えを持たなかった。
だが、今は。
「りこのハク、だ」
答えを、我は得たのだ。
りこ。
貴女が、我に与えてくれたのだ。
「ヴェルッ……貴方は……」
赤い唇が言葉を発し。
次を躊躇い、発せられりことなく飲まれたと同時に。
空が、瞬時に陰り。
音も無く断たれた大気が、空を滑る。
「……来たようね」
ブランジェーヌの赤い目玉が天に向けられ。
それを目指すかのように、青を纏った銀の矢が空より降り立つ。
「遅くなり、申し訳ありません。ヴェルヴァイド様、赤の竜帝陛下」
地に片膝を着き、頭をたれるは<青の竜騎士>。
「いらっしゃい。待っていたわ、カイユ」
ブランジェーヌは両腕を天へ伸ばし、破顔する。
「お帰りなさい、ダルフェ」
そして。
真紅の竜が、舞い降りた。