第106話
「陛下」
凛とした声が、電鏡の間に響く。
それは雲間から射す光のように澄み、刃先のように鋭い。
使用者の去った大型伝鏡は闇に同化し、先程まで旦那の姿を映していた赤の竜帝用の大型電鏡も鏡面が曇り、揺らいで徐々に暗くなっていく。
カイユは粉々になった電鏡にまみれ、床に座り込んでいる俺を一瞥すると目を細めた。
父親であるセレスティスと同じ色の瞳には、揺るがぬ決意。
「ハニー? どうし……」
俺の問いを聞く気も答える気もないようで、その視線はすぐに青の麗人へと戻る。
「陛下」
「……カイユ?」
陛下へとカイユは歩み寄り、両膝をついた。
「陛下」
カイユは青の瞳を見上げ、言った。
「陛下。カイユは貴方の竜騎士です」
「カ、イ……ユ?」
陛下は目を見開き、自分を見上げるカイユを凝視する。
カイユは両手の手袋をはずし、丁寧に合わせ折って床へと置いた。
言いながら、手を伸ばす。
「陛下。カイユは貴方の“モノ”です」
儚ささえ感じられる顔に、触れた。
「……モノなんて、そんなふうに言うな。カイユ」
指先が触れた口元が、微かに震える。
カイユの指に誘われるように身をかがめた陛下を慈しむように、その手は頬を撫で包み込む。
「我が主よ、我が君よ。貴方の僕に、カイユに命じてください」
「カイユ?」
陛下の瞳が、長い睫と共に瞬く。
「行くなと仰るならば、私はここに……ずっと、陛下のお側に」
青色と水色が絡まり。
「お、俺はっ…」
海と空が交差する。
「なっ!?」
俺は電鏡の欠片を踏み砕きつつ立ち上がった。
「カイユッ、なに言ってんだ!?」
カイユへと歩み寄ようとした俺の足を止めたのは、カイユの手を振り払った陛下の声だった。
「行け、カイユ!!」
まるでカイユから逃げるかのように、よろめくきながら数歩後退し。
床へ膝をついて叫んだ。
「主としてお前に命じる! 行って、おちびを……<監視者>ヴェルヴァイドのつがいを守れ!」
真っ青な髪を乱し。
両手で頭を抱え、身を丸めて叫ぶ。
「全ての者から守るんだ! 人間からも、竜族からもだ!! 例えそれが俺……四竜帝達であろうと、全力で守れっ!!」
それは。
「カイユッ、カイユ! おちびを利用しようとしてるのは、人間だけじゃないんだっ……竜族だって……俺達は……四竜帝は……おちびを……竜族のために……あいつをっ、あいつを!!」
<青の竜帝>としてでは無く。
「ヴェルはっ、ヴェルはあいつがいないと駄目だからっ! ……俺じゃ駄目なんだっ、俺じゃヴェルはっ……だからっ、だから!」
ああ、そうか。
陛下が未だにつがいを得ていないのは。
“情”が“恋”を、飲み込んでしまっているからなのかもしれない。
「はい、我が君」
カイユは立ちながら刀を抜いた。
その所作は、夜を裂く月光のように美しい。
俺は見惚れ、その刃をこの身に受けたいとさえ願ってしまう。
「我が主、<青の竜帝>ランズゲルグ」
雪を照らす陽の光を集めたかのような銀髪を無造作に掴み、カイユは刃をあてた。
「貴方に永遠の忠誠を」
「!? ハニー、待……っ!!」
「行くわよ、ダルフェ」
「え、あ……ああ」
口が開いたままの俺を従え、カイユは扉に向かって歩き出す。
その背を押すように、嗚咽が跳ねる。
俺が愛してやまない銀の髪を抱きしめて。
小さな小さな青い竜が、声を殺して泣いていた。
「とりあえずは、これでいいわ」
カイユは葛篭に最後の荷物を入れ、飛行中に決して開かぬようにしっかりと鍵を閉めた。
「あちらで買い揃えればいいし」
南棟に面した庭に置かれたそれは、陛下が三日前に用意してくれた物だ。
大きさは横幅が俺の背丈ほどあり、水滴のような奇妙な形をしている。
「父様が帝都に帰ってきたら、他の荷も発送手続きしてもらって追加便で……」
大陸間を最高速で竜族が飛行するさいに使用する特殊な物で、輸出入の業務に関わっていない俺は初めて見るものだった。
「あとは、そうね。これをなんとかしなきゃだわ」
指先で髪を摘むと、カイユは南棟二階にある俺達の部屋の窓へと助走もつけず跳ぶ。
猫のようにしなやかに、すべるように開け放した窓から室内へと消えた。
それを追う様に、俺も窓へと跳んだ。
カイユは引き出し一つ一つに象嵌が施されたチェストへと歩み寄り、花形の通し台座の付いた真鍮製の引き手へと手を伸ばす。
「確かここに……」
窓枠に腰掛けた俺は、チェストの引き出しを開けて中にあるものを取り出すカイユの後ろ姿を目でなぞる。
長かったカイユの髪は、首の中ほどから下が無い。
「……」
さらりとした手触り、その感触を味わい愉しみながら愛し合った記憶が脳内に満ちる。
背に流しても、結い上げても美しかった銀の髪。
「…………」
「ダルフェ、この鋏で毛先を揃えてちょうだい。これでは赤の竜帝にお会いできないわ」
不揃いな毛先が、俺の心を逆撫でする。
「あのねぇ、ハニー」
鋏を手にした腕をとり、強引に引き寄せた。
「君は俺を殺す気なのか?」
音がするほど強く額を重ね合わせ、首を鷲掴みにする。
「嫉妬でここの血管がブ千切れそうだったよ」
君は俺のつがいだ。
その髪1本だって、他の雄に渡したくない。
「あら、そうなの。切れなかったなんて、ちょっと残念ね……なら、今すぐこの鋏で切ってあげるわよ?」
俺のこめかみに鋏の先端を当てながら、カイユは言った。
こんな間近でも目を閉じることなく、反らすことなく俺を見る。
怯まず、引かず。
カイユは真っ直ぐに、いつだって俺を受け止めてくれる。
「そういうのも悪くないけど、今は時間が無いからね。また今度にしておくよ」
肩に届かぬほど髪を短くするのは、つがいを失った雌竜だけだ。
今のカイユの髪は、他の竜族達から見れば奇異なものとして映るだろう。
「君のその髪、舅殿が見たら卒倒するな」
長く美しい髪は、竜族の雌にとってとても大切な……意味のあるものだ。
愛娘のこの姿をあの舅殿が目にしたら、俺がボコられること間違い無しだなぁ。
「父様じゃなく。ダルフェ、貴方はどう思うの?」
カイユの水色の瞳は、奥底まで澄み切っていて。
迷いも後悔も見当たらない。
「そんなの決まってるさ」
合わせた額を離し、短くなった髪へと触れた。
「短い髪の君も、最高に素敵だよ」
こんなに。
こんなにも。
「そう、なら問題ないわね」
君は、美しいと。
君は、美しいのだと。
「愛してるわ、テオ」
伝えきれないもどかしさ。
そのもどかしさは、俺の心を優しくくすぐる。
「知っているよ、アリーリア」
だから。
俺は、生きていられるんだ。
君の愛が、俺を生かしてくれている。
そして俺を殺すのは。
俺を飲み込む、君への愛。
「行きましょう、ダルフェ。子供達のところへ」
「あぁ、行こう。カイユ」
数十分後に飛び立った俺達は、城の尖塔の先端に立って手を振る青い竜の周りを旋回してから高度をあげた。
振り返らず、前だけを見て。
鱗の一枚一枚に風を感じ、翼で大気の歌を聴きながら。
夕闇を切り裂くように、沈む陽に染まる青の大陸を後にした。