第102話
あれから5日が経った。
未だにどの大陸からも、姫さんを見つけたという報告は無い。
「ねぇねの……ぎゅぎゅっ!」
床一面を覆う切り裂かれた大量の布を小さな手でかき分けるようにして、ジリギエは寝台へと近寄って行く。
「ぎゅぃ、ぎゅ。ねぇね、ねぇね?」
幼生体の特徴である細長い胴を揺らし、まるで泳ぐかのように……ジリギエは旦那の居る寝台に上ることはせず、頭部をのけぞらせて緑の瞳をこちらに向けた。
「……ねぇね……とと、ねぇね?」
ジリギエは、日に何度も俺に問いかける。
ねぇねはどこ?
ジリのねぇねは、どこにいるの?
母親であるカイユには、それを問うことは無かった。
「ねぇねはまだ、見つからないんだよ」
ジリギエは、知っているから。
姫さん消えたあの日から、カイユは食事をとらず、一滴の水さえ口にしていないことを。
そして、眠ることを拒むようになっていることも。
「ごめんな、ジリ」
竜騎士であるカイユは1週間以上絶食し、不眠でいようと肉体的には問題無い。
だが、内面は……。
「とと……」
ジリギエは緑の目を細め、寝台から少し距離をとった。
尾を上下に激しく動かしながら布切れを掴み、両手で丸めて寝台の上へと投げつけた。
「おき、おっき! がぶうううう~っ!!」
せっせと布を拾い、小さな両手で丸めて次々と投げつける。
「おさっ、おっさん! おっさん! おっき、おっきぃいいい!!」
それは寝台の上の旦那の頭や背に当たっているが、相変わらず反応は無い。
反応したのは、俺。
「お……おっさん?」
今確かに、“おっさん”って言ったよな!?
「おい、ジリ。おっさんって、旦那の事か!?」
「ぎゅ? おぢい、おっさん! おぢいっ! おっさん!」
ジリギエはうなずきながら、旦那に布切れ玉を投げ続けた。
「おっさん……おぢい?」
うわっ、舅殿かよっ!?
セレスティス……ったく、あの人は!
四竜帝すら敵わぬ<ヴェルヴァイド>におっさんを連呼する我が子……それが問題かというと、問題無しだなぁ。
「“おっさん”ねぇ。まぁ、旦那がそれに怒るなんて事はないだろうしなぁ。好きに呼べばいいさ」
俺も餓鬼ん時に“おじさん”って言ったけど、旦那は全く気にしてないようだった。
世界最高齢竜なんだから、おじさん・おっさんというより“おじいちゃん”が正しいような……いや、旦那に“おじいちゃん”を適用するとなると、全世界の[おじいちゃん基準]が乱れる気がする。
「おっさん! おっき、おっき! おっさん、ジリ、おっき!!」
おっさん呼ばわりされようと、旦那は赤い格子模様の色あせた布を握ったまま置物のように動かない。
あれからずっと、<ヴェルヴァイド>はここにいた。
竜族が総力をあげて姫さんを探すと言う陛下に、返事も意見も口にせず。
ただ、そこにいた。
「……旦那」
ジリギエが次々に投げた布に、その身体が埋まっていく。
投げやすいように丸めた布は白い鱗に当たり、ふわりと広がる。
ジリギエの投げつけたそれらは、瞬時に花弁を開く蕾のようだった。
布切れで出来た蕾は色とりどりの花となり、旦那を俺の視線から隠し……俺は幼い日に見たある光景を思い出す。
棺に収められた魔女オテレ・ガンガルシーテの遺体は、彼女が愛した花々で満ちていた。
華やかで色鮮やかなそれは、絵本にあった妖精の寝床。
横たわる老女の蝋のような肌を、隙間無く入れられた花が美しく飾っていた。
それが、オテレばあちゃんが最も“お洒落”していた姿だった。
「……ねぇ、旦那」
彼女が俺のせいで寿命前に死んだ七日後に、俺は<ヴェルヴァイド>と初めて会話した。
俺は、初めて会ったあの時から。
あれ以降も、旦那に会うたびによく話しかけていた。
幼い俺は一方的に喋り“聞いてもらった気分”になって、それで満足していた。
言いたい事を言い。
訊きたい事を訊いた。
返事がもらえなくても、かまわなかった。
必要な時のみ……これも違うな、必要な時に喋るなんてことはできない人だと、子供心に感じていた。
他人との意思疎通を望むこともなければ、拒否するでもなく。
拒まず、受け入れず。
ただ独り、そこに居る。
それにあの時の俺は救われた。
でも、俺は変わり。
<ヴェルヴァイド>も変わった。
ねぇ、旦那。
そこに居るだけでは、俺もあんたも救われないんだよ。
「俺は」
姫さんというつがいを得て、旦那は変わった。
まるで幼い時の俺のように。
俺に言いたい事を言い。
俺に訊きたい事を訊いて来る。
旦那を動かす原動力は、異界から来た黒髪の娘。
「数日中に赤の大陸に戻ろうと思います。陛下には大陸間飛行の許可をいただきました」
姫さんと旦那の、噛み合わない様で噛み合っている会話。
その会話が作り出す空気が、俺は嫌いじゃなかった
あの子に“伝えたい”という気持ち。
気持ちを口にし、声にして出す。
愛しいつがいと“声”で繋がる『会話』は、身体を繋げることにも似て……俺達雄竜にとって、至福の時間になるのだから。
「……とりあえず、俺だけ発ちます。あっちで赤の竜帝陛下を補佐し、捜索指揮を執ります」
『あの子が生きていることを疑っていない自分』が言うであろう言葉を、脳内で組み立ててから口にした。
<ヴェルヴァイド>を刺激しないように注意をはらい接することを、俺は四竜帝に命じられていた。
本当は。
大声で言いたかった。
ジリギエのように言いたかった、叫びたかった。
起きろ!
起きて、此処から出て行け!
あんたのつがいを探しに行けっ!
世界を駆けずり回って探してこいよ!
死んでいたなら……あの子を食うって、約束したんだろう!?
あの時あんたが、そう言ってたじゃないか!!
それを口に出来ない自分に、腹の底から怒りがこみ上げる。
この5日間、俺はそれを表面に出さないようにしてきた。
だが、そろそろ限界だった。
俺は短気な性質じゃないと思っていたんだが……。
いつまでたっても動かない、予想外の旦那の態度が俺の神経を日々削っていた。
「カイユとジリギエは置いていきます……どこの大陸で姫さんが見つかるか分からないんで、発見され次第その大陸にカイユとジリギエを直行させます」
「と、ととっ~!? かか、ジリッ……ぎぎぎゃぁあああっ!!」
俺の言葉を聞いたジリギエが不満げに鳴き、丸めた布を両手を使って俺へと投げつける。
短い足を踏ん張るようにして立ち上がり、翼を広げて威嚇するかのように小刻みに震わせて鈴の転がるような独特な音をたてた。
「こ、こらっ、ジリッ! やめっ……」
その音は特殊な周波数で、聞いた者は耳を押さえずにはいられない不快なものだ。
まだ幼く弱い竜族の幼生が自衛手段として持つ能力で、成長とともに失っていく能力だ。
「ぎょぎぎげぇえええ~! ジリ、ととっ!! ぎ・ぎぎ・ぎぎぎぎゃぁあああ!!」
俺は両耳を手で覆いながら、いつになく反抗的な態度に出た息子に怒鳴った。
「いいかげんにしろっ、ジリギエ!」
大人気ない気もするが、普通の竜族よりも聴覚の優れている俺にとってはこれはかなり“痛い”。
脳内で鋼鉄製の超小型ハリネズミ数百匹が、大運動会をおっぱじめたって感じだ。
「あ!? なに馬鹿なこと言ってんだ、お前も連れて行けだって!? 父ちゃんは最高速で飛ぶんだぞ!? 餓鬼のお前が一緒になんて、無理だって! ……ん?」
内ポケットにしまっていた電鏡が、微かに熱を持つ。
熱で伝える型はまだ試作品の段階で、本体強度を五割り増しにすることに成功したものの、温度が一定しないのが問題点だった。
体温より数度上がるだけだったり、熱湯のように熱くなったり。
まだまだ完成には程遠い状態だった。
俺は耳から右手を離し、電鏡を取り出した。
それを見たジリギエは口を閉じ、翼をたたんだ。
ジリギエは幼いがちゃんと分かっている。
仕事の邪魔になるようなことはしない。
「はい、陛下。電鏡の間っすね?」
鏡面に映るのは、俺自身。
新型電鏡は映像を捨て、音声だけを届ける。
情報量を音声のみにしたことで、携帯用サイズでも安定した大陸間通話を可能に……が、目標だ。
「母さ……赤の竜帝陛下から、緊急連絡? 俺を出せって言ってる? 赤の陛下じゃなく? え? すみません、もう少し落ち着いてくださ……はい? 誰がです?」
電鏡越しに、陛下の同様と困惑が伝わってきた。
「…………ひ、ひよこ男?」
俺は陛下の『ひよこ男』という単語を聞き、ジリギエを電鏡の間に連れて行かないことにした。
「ジリ、父ちゃんは仕事だ。お前は食堂に行って、飯を食って来い。今日はステイラが特製お子様ランチを作ってくれるって言ってたぞ?」
「ぎゅっ? こーちゃまごは! ごは、ジリ、もぐもぐ!」
俺と同じ緑色の瞳をぱちぱちと瞬かせ、両手をぎゅっぎゅと握って言うジリギエの頭を撫でて、俺は寝室から駆け出した。
「ひよこ男って……ったく、勘弁してくれよ!」
俺は<青の竜帝>をドン引きさせている『ひよこ男』に心当たりがある自分に、ちょっとだけ切なさを感じてしまった。
その切なさが纏うのは哀愁ではなく、郷愁。
口の中に、餓鬼の頃大好物だった卵焼きの甘さが広がった。