第88話
ゆっくりと唇が離れ。
「……ぁ」
「りこ?」
ハクちゃんの声で。
無意識に、名残惜しげに温かな舌を追ってしまった自分に気づいた。
そんな私を首をかしげて見つめるハクちゃんの金の眼から、あわてて視線をそらした。
「ふむ、なるほど。りこの気持ちが、我には分ったのだ」
私の、気持ち?
私の……。
――――もうちょっとだけ、キスしていたかったな……。
う……うきゃあっ!?
ひぃい~! 言わないでぇえ~!!
「足りなかったのだろう?」
「っ!?」
ぎゃぁああ~っ!
ばれてる?
ばれちゃってるの!?
「ちちち、ちがっ……!」
ハクちゃんは真珠色の前髪をかき上げ、金の眼を細めた。
「我のりこは恥ずかしがりやさんだからな」
「は、恥ずかしがりやさん?」
私が?
「うむ、りこはかなりの恥ずかしがりやさんなのだ」
「……」
そんなこと無いと思うなぁ~。
う~、ま、まあ。
人前で今みたいなキスはちょっと、かなり困るけど……。
困るんだけど。
嫌じゃないから、さらに困ってしまうのです。
「とにかく、それ以上は言わないでっ」
「大丈夫なのだ。りこの代わりに、我が言う」
ん?
なんか噛合わない会話……いつのもことだけど。
「りこ」
ハクちゃんはそんな私をひょいっと持ち上げ、脇の下に手を添えた。
彼が立ち上がったので私の両足は床から離れ、ぶら~ん状態になった。
「カイユよ」
「はい」
あぁ、カイユさん。
いらっしゃったんですよね……すぐそばに。
さすが青の竜騎士の団長さんです!
気配を消せるって、すごいというか……いつも気を使わせてしまって、ごめんなさい。
バカップルと罵ってくださいませぇえええ~!
「りこは腹が空いたらしいぞ?」
ハクちゃんはカイユさんと向かい合い、そう言った。
「ハクちゃん?」
セレスティスさんのトマトソースをたっぷりかけたパスタで、私はお腹いっぱいなんですが!?
「トリィ様が……空腹?」
カイユさんはハクちゃんの顔を数秒間じ~っと見てから、にっこりと笑った。
「それ、違うと思います。まだまだですわね、ヴェルヴァイド様」
「…………りこ。違うのか?」
「うん、これ以上食べたらお腹痛くなると思う」
この歳で、食べ過ぎで腹痛になったら恥ずかしいよ。
「……そうか。我はまだお勉強が足りておらんということか」
ハクちゃんは私を床へ下ろし、一人で居間へと戻っていった。
歩きながら何かぶつぶつ言っていたけれど、ご機嫌が悪くなった感じはしなかった。
「まったく……鈍い方。さあ、お出かけの支度をしましょう、トリィ様。誰かさんのせいで、紅が落ちてしまいましたから。軽く化粧直しをいたしましょうね」
「え~と……はい、カイユ」
ハクちゃんって、やっぱりちょっと鈍いのかもしれない。
妙に鋭いときも、たま~にあるんだけれど……。
でもね、カイユ。
私はハクちゃんのそういうとこも、大好きだったりするんです。
「ハクちゃん、行ってくるね」
私とカイユさんは徒歩で竜帝さんの執務室まで行くことになった。
隣接するに応接室でミー・メイちゃんとセシーさんが待っててくれている。
居間のソファーにふんぞり返って、ハクちゃんは言った。
「今日はりこは日課である散歩をしておらぬからな。足腰の機能維持のためには、歩くことはとても良いと本に書いてあったのだ」
「……そ、そうだよね。うん、歩くのは大切だよね」
ハクちゃんって、好感度ゼロ系悪役美形顔からは想像つかない程の健康オタクなのです……。
まあ、情報源がダルフェ文庫ってところが難点ですけれど。
「カイユ。<青>の執務室への道中、<青>の指定したところ以外は使うな。りこ、帰りは我を呼べ。迎えに行く」
あ、ソファーの上に本が一冊……これを読みながら待っててくれるのかな?
「はい。ありがとう、ハクちゃん」
「さあ、トリィ様。カイユと参りましょう」
カイユさんが私へと手を差し出した。
「……ぁ、あのっ」
これは。
お手をどうぞってやつですよね?
いいのかな?
前にハクちゃんは、カイユさんの首を絞めた。
もうあんなことは、嫌。
私がもっと、もっと気をつけなきゃいけない。
私の常識じゃなく、ハクの考えや思いを尊重しなきゃいけない。
「ハクちゃん、カイユと手を繋いでもいい?」
ハクちゃんを見たら、頷いてくれた。
「転ばれるより、マシだ」
「え?」
「祭りの日のように」
主語述語が無くても、彼の言いたいことが私には分かった。
花鎖のお祭りが終わった後。
戻ってきた温室でドレスの裾を踏んでしまい、私は盛大に転んだ。
「ハクちゃん……お願いだからもう忘れてよ、それ!」
間一髪でハクちゃんが首根っこを掴んでくれたけれど。
床に左膝をついたから、内出血して紫色になった。
見た目よりたいしたことなかったみたいで、寝る頃には治ってたけど。
……治るのが早すぎだと感じたけれど。
青痣の消えた膝を嬉しそうに撫でるハクちゃんの姿を見たら、そんなことを気にするのが馬鹿らしくなってしまった。
傷の治りが早いのは、いいことだもの。
「忘れろと? りこのお願いといえど、無理だ」
ハクちゃんは右横にあった本をとり、膝に置いた。
「りこと過ごした今までも。りこと過ごすこれからも」
左手の人差し指で、真珠色の爪で表紙を一筋なぞり。
私を見ていた金の眼に、ゆっくりと目蓋が落ちた。
目元を飾るのは真珠色の睫毛。
金の眼を閉じて、ハクは言った。
「我がりこのことを忘れるなど、無理だ」
なぜ。
「どんな些細なことも、記憶していたいのだ」
なぜ?
今此ここで、それを言うの?
離れるのは少しの間だけなのに。
そんなこと、言われたら。
まるで。
もう、会えないんじゃないかって不安になっちゃうのに。
「……ハクちゃんは、ずっと私のことを覚えててくれるの? 百年経っても、千年経っても?」
訊けなかった。
私がいなくなったその先も。
私が死んだ、その後も。
ずっとずっと。
絶対に、私を忘れないでいてくれるのって……。
「……りこが我を忘れても。我はりこを、覚えている」
私がハクを?
貴方を忘れることなんて出来ない。
「私がハクを忘れるなんて、そんなことない……」
切ない想いにぎゅっと掴まれた胸の奥から、絞り出した言葉は。
「りこの場合、無いとは言えぬ」
ばっさりと斬られて、散ってしまった。
「ひど……い。なんでそんなこと言うのよ!? ハクは私を信じてくれないのっ?」
目の底が、熱くなった。
怒りではなく、悲しみで。
そんな私に、ハクは……。
「書いてあったのだ」
「は?」
文庫本を掴むと表紙を私に向け、嫌味なほど長い足を組み直しながら言った。
「りこ。この書物によると、人間の女は頭部を強打すると愛する男を忘れるらしいのだ」
「頭部? この本って……『迷走の愛・記憶の金砂 第1巻』?」
これって、ロマンス小説?
「この本の女は転んで頭部を強打し、将来を誓い合った男を忘れる。そして別の男に言い寄られ、その男と郊外の別荘で交尾寸前の状況となる。だからりこも転んではいかんのだ」
ダルフェさん。
昼メロ系はやめましょうよ!
「……う……うん。でも、あのねハクちゃん」
恐ろしいことに、ハクちゃんの脳は実際あったことの記録として読んでますよ!?
「それは物語といいますか、作り話だよ?」
「ぬっ!?」
ハクちゃんのつり眼がさらにつり上がったけれど、気づかなかったことにした。
執務室へと続く回廊には全くひと気が無かった。
誰もいないのを幸いに、遠慮無く周囲を見回した。
聞こえるのは自分の足音と、外で鳴く鳥の声。
アーチ型の高い天井やそれを支える円柱が整然と立ち並ぶここは、ヨーロッパの古城とイスラムの建築様式が混じったようだっだ。
「カイユ、執務室までそれを持って行くの?」
ずっと気になっていたけれど。
カイユさんは左手に刀を持っていた。
ミー・メイちゃんとセシーさんに会いに行くのに、武器持参というのは……でも、はっきりとは言い難い。
カイユさんはお母さんの事があるから、どうしても過敏になっちゃうのかもしれない。
「トリィ様」
私の視線に気づいたカイユさんは、足を止めた。
「どうぞ」
いったん私の手を離し、そこに刀をのせてくれた。
「わわっ!?」
それは想像以上に重たくて、急いで両手で持ち直した。
「すごく重い……とても、綺麗。まるで美術品みたい」
朱色の鞘に、優美な柄。
細かな装飾が施された鍔には、真っ赤な宝石が4箇所に埋め込まれていた。
すごい……なんて濃く、深い赤色。
これって、もしかしてピジョン・ブラッド!?
たまたま入ったジュエリーショップで見たときは、あまりの高額に即効あきらめました。
「ええ。これは特別な物ですから……。この刀は結婚祝いに、赤の竜帝陛下が下さったんです」
結婚のお祝いに、刃物。
日本では縁が切れるってことを刃物は連想させるから、結婚のお祝いでは避けるんだけど。
竜族の社会は違うんだ……お祝いの品も実用本位OK?
う~ん、刀が実用っていうのもなんでございますが。
「トリィ様。ふふっ……こうして2人きりでお話する機会は、なかなかありませんでしたね。ヴェルヴァイド様ったら、トリィ様にべったりですもの。立ったままで申しわけありませんが、少しだけお話しませんか?」
「はい。カイユ」
見上げた先にある透明感のある美貌には、いつもと違う表情。
「カイユ? どうしたの?」
私を見下ろすカイユさんの顔には、笑顔は無く。
「トリィ様が望まれるのなら、あの者達にお会いするのも仕方ありません。でも、できることなら貴女に人間を近づけたくない。私は人間が嫌いですから」
眼を逸らせないほど冷たく。
「貴女は私の手を微笑んで握り返してくれます。ですが私のこの手は、多くの人間を殺した手なんです」
ぞくりとするほど、冴えた水色の瞳。
「人間共は私を凶悪無慈悲な雌竜と恐れ、嫌悪します。それは私にとって最高の賛美。私は望んで刀を取り、喜びのなかで殺戮を行うのです。私は……カイユはそういう‘生き物‘なのです」
刀を握る手に、私は意識せず力が入った。
握った両手からは肌に吸い付くような感触と、その重さが伝わってきた。
口を開いても、言葉が出てこなかった。
何かを噛むように、顎が数回上下しただけだった。
「そのことで貴女を悲しませるは辛い。でも、それが私なんです」
言いたい。
言いたいのに。
「私を怖がってもいいんです。人殺しの竜だと嫌悪してくださってかまわない。でも、私が私であることを、悲しまないで」
カイユさんに、私の思いを言わなきゃならないのに。
「私にとってそれは当然であり、必然なのです」
言葉が。
「他者の首を落とせることが出来る『私』に生まれて、良かったと思っています。私は今まで多くの者の命を奪ってきました。そしてこれからも他者を傷つけ、殺し続けるでしょう。そして何時の日か、多くの者を屠ってきた私も強い者に負け、討たれる時が来るでしょう」
声が出ないの。
「それを、悲しまないで」
出たのは、涙。
この涙は。
何のためのものなんだろう?
「覚えていてください、トリィ様」
自分の為じゃない。
カイユさんの為でもない。
「この世にある心の数だけ、多種多様な善と悪があるのです」
ああ、そうか……。
この涙は。
涙なんかじゃない。
「覚えておきなさい、トリィ」
私の中で、何かが壊れて。
「貴女の母様は多くの人間にとって、忌まわしき者なのです」
私の中で。
また、新しい何かが生まれたんだ。
「この世には完璧な善も完全な悪も、そんな都合の良いものは存在しないのです」
カイユさんは。
母様は。
「竜族は人間より遥かに長く生きます。善だったものが悪とされ、悪だったものが善となるさまを目の当たりにし、過ぎたものを見送っていく……。私の考えは人として育った貴女には、受け入れられないものかもしれない。それでもいいの。心の隅にでも、母様の言葉を置いておいてくれれば充分」
私に、その何かを与えようとしてくれている。
私が持っていなかった、何かを。
「……トリィ。貴女がヴェルヴァイド様を愛するように、私はダルフェを愛しているの。先に逝くダルフェを選んだことに後悔などない」
この世界で生きる私に。
ハクを愛した私に。
「確かに共に生きられる時間は短い。だからなんだと言うのです? かわいそうだと、哀れだと? 冗談じゃありませんわ。それは私への侮辱。誰がどう思おうと、私は幸せなんです」
カイユさんの両腕が、私を引き寄せた。
「私は、カイユは幸せなんです」
包み込むように。
あたたかさを分け合うように。
「いいこと、トリィ。貴女の幸せは貴女が見つけ、何が幸せなのかは貴女が決めなさい。セイフォンの術士や死にぞこないの女将軍などには、貴女の幸せは分からない。もちろん、私にも分からない」
柔らかな胸に耳を押し付けると、心臓の音が微かな振動と共に伝わってきた。
それは子守唄のように、優しく響く。
「答えは誰にも分からない。貴女にしか分からないの。貴女の幸せは……私達の‘幸せ‘は他の者や夫が選び、決めることではないのだから」
カイユさんは私の手から刀をとり、そっと床へ置いた。
体を離して再び見上げた顔には、少しだけ困ったような……澄んだ笑顔。
「ふふっ、竜の雄は本当に鈍くて駄目ね。いつまでたっても、雌の心を理解できないのだから。私がこんなにも幸せであると、つがいであるダルフェすら分かっていない。まったく、あの馬鹿にも困ったものですわ。私はお馬鹿で意気地なしのダルフェを、こんなにも……誰よりも愛しているのに」
不満げな口調とは裏腹に、ほんのりと頬が染まっていた。
「うん。そうだね、女心を察して欲しいよね」
私は足元に置かれた刀に手を伸ばした。
白く艶のある床石は、刀をいっそう美しく見せていた。
本物の刀は見た目以上に重いことを学んだので、もちろん両手で持ち上げた。
「はい、カイユ」
カイユさんに、それを手渡した。
綺麗な綺麗なこの刀は、大勢の人を傷つけ殺めた。
それを知っても。
綺麗だと思う心は変わらなかった。
「……ありがとうございます」
刀を受け取るカイユさんの銀髪が眩しいほどに輝いていて、私は眼を細めてしまった。
私達しかいないお城の廊下は、明かり取りの窓から陽が絶えず降り注ぎ。
それは天から伸びた光のリボンのようだった。
「行こう、カイユ。」
私から手を差し出し。
カイユさんが私の手に触れるのを待たず、手を握った。
「さすがにもう転ばないけど、繋ぎたいの。カイユと、母様と手を繋いで歩きたい」
朱と白。
「……トリィ。私の娘、異界から帰ってきてくれた私の可愛いお姫様」
白と朱。
それは悲しいほどに、互いを引き立てあうのだと知った。
「母様のように、貴女も」
刀を振るって命を奪うその手は。
「幸せに、なりなさい」
大好きな母様の。
優しい手。
白でも朱でも。
「……はい。母様」
大好きな。
母様の手。