第87話
寸胴鍋の中で泳ぐパスタを眺めた。
ダルフェさん作の踏み台に乗り、覗き込むようにして……。
あつっ……蒸気が顔にあたって、毛穴が開きそう。
お湯の中で絡まりそうで絡まずに、上下左右に激しく踊るパスタの姿はなんだか今の私の気持ちみたいだった。
答えは出ているのに、あっちこっちへとぐらついて……。
ああ、私って。
なんでこんななんだろう。
「トリィ様、火力を少し弱めましょうか? ……トリィ様?」
重たそうな鋳物のお鍋に入ったトマトソースを横で温め直していたカイユさんの声で、マイナス思考に陥りかけていた脳をあわてて引き戻した。
「は、はい。そうですね! これじゃ、吹き零れちゃいますよね!?」
火力調整のレバーを少し戻せば、火は直ぐに適度なものへと変化した。
でも、頭の中で浮かんでいたダルド殿下の蒼白な顔とセレスティスさんの満足げな微笑は、この火のようには抑えられず……消えてくれなかった。
本日のランチはトマトソースのパスタ。
なんと、セレスティスさんのお手製のトマトソースなのです。
パスタは食堂で毎日作られている生パスタで、リングイネとフェットチーネの中間のような平たいパスタだった。
ハクちゃんが竜帝さん達を転移させて、その後セレスティスさんもまたお庭から足取り軽く去っていき……入れ替わりでパスハリス君達が来て、腕組みをして仁王立ちカイユさんの視線を避けるようにして大きなテーブルを運び出した。
何かを点検するかのように元通りになった温室内をカイユさんは見て周り、最後にお庭側の硝子戸に内側から鍵を閉めた。
彼等に15分程遅れて現れたヒンデリンさんは、ちゃんと廊下側の扉から入ってきた。
ヒンデリンさんはカイユさんに、セレスティスさんからだと鋳物の鍋を届けてくれた。
彼女はハクちゃんを抱っこして居間のソファーに座っていた私に会釈して、カイユさんに鍋を手渡して足早に帰っていった。
あれからずっと厳しい表情をしていたカイユさんだったけど、受け取ったお鍋の中を確認したらお顔のこわばりが和らいだ。
「これは……父特製のトマトソースです。何年振りかしら?」
冬の空のような水色の瞳に、春の日差しのような柔らかな光。
「セレスティスさんの?」
鍋を持ちキッチンへ向かうカイユさんのあとを、ハクちゃんをソファーに下ろしてから追った。
横に並んでカイユさんの顔を見上げて、その穏やかな表情に内心ほっとしつつ訊いてみた。
「ひさしぶりなの? 何年振りって、どれくらい?」
「……母が亡くなってから。三人で暮らしていた時は、月に数回は作ってくれてたんです」
「あ……私、ごめんなさいっ」
「トリィ様」
鍋をこん炉に置いてから、カイユさんは長身をかがめて私の頬を両手で包み込むようにして撫でてくれた。
「今度、父にこのトマトソースの作り方を一緒に習いませんか?」
「え?」
「ダルフェとジリギエに作ってあげたいんですけど、一人じゃ自信が無くて……。私、剣の扱いは得意なんですが包丁は苦手なんです」
あたたかな手は私から離れ、キッチンの壁に取り付けた真鍮のフックにかけられていた花柄のエプロンへと伸びた。
「私も……いいの?」
カイユさんは私の白いドレスの上に、ダルフェさん作のエプロンを手際良く着せてくれた。
胴に両腕をまわし、きゅっと縛って……微笑んだ。
「ええ。ぜひ、お願いします。私も貴女とおそろいのエプロンをダルフェに作ってもらおうかしら?……あら、ヴェルヴァイド様」
水色の瞳の動きを追い、私も後ろを見た。
「ハクちゃん。お手伝いに来てくれたの?」
そこには花柄ふりふりエプロンを着て、短い両手でお皿を抱えたハクちゃんがいた。
「うむ。我は気が利く男なので、皿を持ってきたのだ!」
ふわふわと飛びながら寄ってきて、私にお皿を手渡しながらカイユさんに言った。
「カイユよ、お揃いは許可できぬ」
「……どうやら諦めたほうが良さそうです。あぁ、残念だわ」
カイユさんは溜息混じりに言ったけど、その顔から澄んだ微笑は消えていなかった。
「では、いただきます」
ダイニングテーブルにはセレスティスさん特製トマトソースがたっぷりかかったパスタと、レースのような不思議な葉とお豆のサラダ。
少なめに盛られたのが私、その3倍の量が盛られている迫力あるお皿がカイユさんの分。
「今日のトリィ様には食堂のランチはちょっと胃に重たいでしょうから、ちょうど良かったですね」
食堂の数種のランチメニューは揚げ物が多い。
肉・魚・野菜、どれがメインでも揚げ物となっていることがほとんどだった。
竜族は揚げ物を好むから、ということらしい。
そういえば、意外なことに砂糖より油が(もちろん人間を含む)動物は好きなんだって、中学の時に先生が言ってたっけ……。
「……ヴェルヴァイド様、エプロンをとってしまわれたんですね。大丈夫ですか?」
向かい合わせの椅子に腰掛けたカイユさんが、サラダを小皿に取り分けてくれながら言った。
テーブルの上にちょこんと座り、銀のフォークを左手で握り私のお皿を無言でじーっと見つめていたハクちゃんは、パスタから視線を動かさず答えた。
「うるさい黙れ。気が散る」
うわっ!?
カイユさんに、なんて言いかたすんのよ~っ!
「こら、ハクちゃん!」
「トリィ様、お気になさらないで。……そうですか、出すぎたことを言いまして申し訳ございませんヴェルヴァイド様」
ハクちゃんは脱いでしまったけれど、私はエプロンをしたままだった。
こんな高価なドレス(しかも白!)を着たままランチタイムに突入するんだもの、エプロンをしなきゃ怖くて食事なんて無理です。
なんたって、トマトソースだし。
「さあ、温かいうちにいただきましょう」
「はい。ありがとう、カイユ」
お腹は空いてないし、食欲も無いけれど。
ハクちゃんが心配するから、ちゃんと食べなきゃ。
ダルフェさんに借りた【目指そう長寿・正しい食事で快適シルバーライフ!】を熟読しているハクちゃんは、私の食事に関して並々ならぬ情熱を注いでいる。
シルバーライフ……なんかひっかかる点もありますが、私のことを考えてくれてのことなのであえてその部分は見て見ぬふりをしちゃったのです。
それに、セレスティスさんが作ったというトマトソースを残すわけには……ん?
「ハクちゃん?」
食欲が無くても食べなきゃならないのは、ハクちゃんが心配するからっていうのが大きな理由だけど。
そのハクちゃんが半強制的に私に‘あ~ん‘をするせいでもある……のに。
ハクちゃんはフォークをパスタに突き刺す寸前の姿勢で、置物のように固まっていた。
「どうしたの?」
「りこ。実は……我はまだくるくるがうまくできんのだ」
「くるくる?」
くるくる……あ!
「麺類をフォークに巻くのは、まだ習得しておらぬのだ」
なるほど。
うん、これはある意味好機なんじゃないの!?
「あのね、ハクちゃん。パスタを‘あ~ん‘ってするのはとっても難しいから、パスタ……麺類の時はやめない? 私、自分で食べ」
言いかけて、やめた。
大きな金の眼が私を見上げて、中央にある縦長の黒い瞳孔がシャーペンの芯のように細くなったから。
あわわ、ご機嫌斜め!?
「りこ、期待に添えぬ我ですまぬ。そのように残念そうな顔を……そんなにも、りこは我にあ~んされたいのだな」
は?
あれれ? なんでそうなるの!?
「案ずるな、我は“くるくる経験値”が足りておらんだけだ! これからは夜の<お勉強>の項目にくるくるも加えて精進するぞっ。どれ、少々練習をしてみるとしよう」
ハクちゃんはフォークを両手で持ち直して背をそらせ、反動をつけて一気にお皿の中央に振り下ろした。
その勢いのまま、両足を踏ん張って円を描くようにフォークを動かした。
「んぬぅっ!?」
その結果。
ハクちゃんのお顔にもお腹にも、真珠色の体の全体に赤い斑点が。
「……ハクちゃん、力入れすぎだよぉ」
あぁ、私の頬にも異物感が……。
「ヴェルヴァイド様。……だから言いましたのに」
ひぇ~!?
口元がぴくぴくってなってるカイユさんの顎に、赤い点々がっ!!
「あれ、ご自分でお掃除してくださいね」
カイユさんが視線は上へと移動した。
私とハクちゃんの眼も、それを追い……。
「うわっ!?」
「……むっ」
赤いトマトソースは、天井にまで到達していた。
「……ハクちゃん。フォーク没収ね」
「……ごめんなさい、なのだ」
今日のランチは久しぶりに、自分でフォークを使って食べることが出来た。
食後は飛び散ったトマトソースの掃除をした。
カイユさんが食器を洗ってくれてる間に、私が床・ハクちゃんが天井を拭いた。
ハクちゃんは飛べるから天井もささっとお掃除できて、思っていたより早く掃除は終わった。
この白いドレスで床掃除はまずいと思い、先に着替えようと思ったんだけど……ハクちゃんが珍しいことを言った……言ってくれたので、着替えるのはやめた。
---そのままが良い。その衣装、我は気に入った。我のりこに、とても似合うのだ。
小さなお手々に雑巾をぎゅっと握ったかわゆいおちび竜は、金の眼をくるんと回してそう言った。
大好きな人にそんなふうに言われたら、ずっと着ていたくなっちゃうというか……。
と、いうことで。
今日はこの豪華衣装で過ごすことに決めました。
ハクちゃんは掃除終了後、着替えてくると寝室にふわふわ飛んで入っていった。
う~ん、ちょっと凹んでるみたい。
くるくる練習……今夜からするのかな?
よし、私も特訓にとことん付き合ってあげましょう!
「トリィ様、こちらは終わりましたから居間でお茶を……あら? ヴェルヴァイド様は?」
「ハクちゃんは着替えに……あ! カイユ、お願いがあるのっ」
「はい、なんなりと仰ってくださいませ」
「私、セシーさんに会いたいの」
セシーさんは温室には来れなかった。
ハクちゃんの処分対象者じゃなかったから。
だからまだ、会えていない。
「……トリィ様。何故あの女にお会いになりたいのですか? カイユはあれが嫌いです」
「セイフォンでとってもお世話になったのに、挨拶もしないで帝都に来ちゃったから……今度は引越し前に、ちゃんとお礼とさよならを言いたいの」
私は彼女に会いたい……お礼はもちろんだけど、聞きたいこともある。
怪我をしたっていってたから、お見舞いもしたいし……。
「分かりました。では、陛下に連絡を……少々お待ちください」
カイユさんの着ているレカサには、ぱっと見は縫い目にしか見えない腰のところにポケットがついていた。
そこから小さな電鏡を取り出し、鏡面をこんこんと中指の爪で数回弾いた。
1分程であちらと繋がったらしく、カイユさんが会話を始めた。
「陛下? ……ええ、そうです。トリィ様のご希望です」
竜帝さんと会話をしているようだけど、私に聞こえるのはカイユさんの声だけ。
前に竜帝さんが使ってた時も相手の声は聞こえなかった。
でも、会話が成立してる。
う~ん、不思議です。
「あの女に……え? あの王宮術士の娘がですか!? ……折り返しご連絡致します」
カイユさんは折り返しって言ったのに。
「あの小娘っ……!」
電鏡を両手でぎゅっと握って割り、シンクへ投げ捨ててしまった。
「カッ、カイユ!? どうしたの? ミー・メイちゃんがどうかした?」
「あの王宮術士は厚かましくも、トリィ様と2人だけで話をしたいと……先ほど陛下に、そう申し出たそうです。なんという身の程知らずなっ……!」
嫌悪感と苛立ちを隠さずに言うカイユさんはすごい迫力で、私はなんて言っていいか分からなくなってしまった。
「……ヴェルヴァイド様のご判断は?」
振り向くと、そこに居たのは。
白いレカサを着たハクちゃんだった。
「ハクちゃ……」
「おそろい、だ」
レカサのデザインはアオザイに似ていてシンプルなものなんだけど。
ハクちゃん着ていたのは光沢のある純白、袖と立襟には瀟洒な金細工……まあ、地味とは言えないけれど。
それにしたって、なんでこうなっちゃうのかな……この人って存在自体がド派手なのかな?
前にも思ったんだけど。
なんで貴方は、黒より白のほうが凶悪度&魔王様度がアップになっちゃうの~っ!?
「……ヴェルヴァイド様、本当によろしいのですかっ?! あの王宮術士はっ」
殺気立ったカイユさんの冷たい声を。
「黙れ。口出し無用だ」
それ以上の冷気を帯びた声が遮断した。
「りこ」
ハクちゃんは両膝を付き、私の顔を覗き込むようにして視線を合わせた。
「りこ。我のりこ」
真珠色の爪に飾られた長い指が、私の手に絡められ。
艶やかな長い髪に縁取られた白皙の美貌が、吐息が触れ合うほどに寄せられて。
黒い服でも白い服でも、どうでもよくなる。
だって。
見えない。
近すぎて。
私に見えるのは、貴方の黄金の瞳だけ。
「ハク……。ミー・メイちゃんと会ってきてもいい?」
唇が触れ合う前に、口にした言葉を。
言葉も想いも。
「貴女がそれを望むなら」
触れ合うそこから。
私の全てを奪い取るような口付けで、魔王様は答えてくれた。