番外編 ~ナマリーナ~
ナマリーナは鯰だ。
「ねぇ、ハクちゃん。ナマリーナって夜のほうが活発で、かわ……面白いと思わない?」
最近の私は‘かわゆい‘や‘可愛い‘の使い方に、非常に慎重になっているのです。
そうならざる得ないといいますか……。
「りこはこの鯰が‘活発‘だと面白いのか?」
今夜は満月で、明かりをつけなくても温室内は明るかった。
私は池のふちに頬杖をついて、ナマリーナを見ていた。
水面をゆらゆらと、漂うようにナマリーナが泳いで……。
竜体のハクちゃんは、私の左腕に寄りかかるようにして座っていた。
「む……我には解らぬ。我は鯰に興味はないが、りこが面白いと思うならそれで良い。りこ、そのような薄着で寒くないのか?」
「うん、お風呂で少し長湯しちゃったみたいで、暑くて……」
夜行性のナマリーナは昼間はこんなに動かない。
だからこうしてお風呂上りに池をのぞくのが、私の夜のお楽しみなのです。
水族館でしか見た事が無かった鯰も、帝都ではポピュラーな食材扱いだった。
(私は観賞魚というかペットにしてるけど、数メートルに育つこの鯰さんを普通は飼ったりしない)
この帝都のソウルフード(?)は鯰のフライらしく、市街には屋台なんかもあって味を競っているのだという。
味付けはハーブ系やスパイシーなものが主流だけど、中には砂糖をまぶした甘いのもあった。
鯰はこのお城の周りにある大きな湖にたくさんいる。
誰でも自由に獲って良い。
でも、美容食としても人気が出たとたん、人間の密猟者が現れ始めてしまった。
鯰を食べる習慣は竜族独特のもので、今まで人間は鯰をゲテモノ扱いして好まなかったのに。
美への飽くなき追求は、どこの世界も一緒なのよね~。
竜族の人は、大きく育った(数メートル級)鯰だけを獲る。
大きいから1匹でたくさんのフライが作れる。
人間の密猟者は手に負えない巨大なサイズの鯰ではなく、扱いやすい幼魚を大量に獲ってしまう。
このまま乱獲が進むと生息数が激減してしまうので、竜帝さんは密猟者の取り締まりと同時に養殖もすることにした。
鯰の養殖事業は絶対に儲かると、鼻息荒く女神様は言っていた。
「鯰……確かに美味しいけど」
鯰のフライ。
ダルフェさんの作ってくれた鯰のフライバーガーは特製タルタルソースがたっぷり入って、美味しかったな……。
唐揚げにしてきのこや野菜のあんかけソースと合わせても、美味しいんじゃないかな?
甘酢のあんかけも捨てがたいかも……。
あんかけ。
ああ、あんかけ炒飯が食べたくなってきた。
あんかけ焼きそばも好きなんだよね~。
つん、つんつん。
駅前の小さな中華料理店の絶品あんかけ炒飯を思い出し、うっとりしていた私をハクちゃんが鼻先でつついた。
きらきらしたお星様のように輝く金の眼が、私を見上げて……うぅ、なんてかわゆいの!
「りこ、寝室にもど……ごぶぶっ!?」
一瞬でハクちゃんが消えた。
豪快なな水音とともに。
「ひっ……きゃあ! ハクちゃん!?」
慌てて池を覗き込んだ私が見たものは。
ハクちゃんの尻尾をナマリーナがくわえ、水面を泳いでいる光景だった。
「ナマリーナ! ハクちゃんは私の旦那様よ!? 食べ物じゃないし、ナマリーナのお婿さんにもなれないんだからっ」
手を伸ばしたけれど、ハクちゃんには届かなかった。
小さな身体はあっという間に、池の底に引きずり込まれてしまった。
「ちょっ……!? こら、ナマリーナ!」
月明かりでは、底のほうまでは見ることができない。
この池の深さは、私の身長よりある。
でも、ハクちゃんはとっても上手に泳げるって知っていたから。
だから暢気に構えてたのに。
「……ハクちゃん? ふざけてないで、あがってきてよ」
数分たっても白い体が水面に現れなくて……。
「なんで?」
見通しのきかない暗い水底に、連れて行かれてしまった。
消えてしまった、小さな白い竜。
「……ハ……や……だ」
だめ。
「ぁあ……うそっ……やぁ」
私を。
おいていかないで。
「い……や」
私を。
独りにしないで。
「い、いやあぁああ! ハクちゃん! ハクちゃ……ハク、ハク!」
猛烈な孤独感に襲われて。
「ハク!!」
気づいたら、池に飛び込んでいた。
池に飛び込んだはずなのに。
私が落ちたのは。
私を受け止めてくれたのは。
「りこ」
ハクだった。
「どうしたのだ? 池に落ちるぞ……心配させたようだな。すまない」
腰にまわされた腕が、さらに私を引き寄せて。
目元に、キスが落とされた。
「ハ……ぇぐっ……」
私の両膝は池の淵。
「水中から見た景色が、なかなか興味深くてな。……池を覗き込むりこの眼が」
上半身はハクちゃんがしっかりと抱きとめてくれたので、池には落ちなかった。
「りこの金の瞳が、水面に揺らぐ月のようでもあり星のようでもあり。……美しかった」
池には落ちなかったけれど。
「見蕩れてしまったのだ」
「見蕩れてって……そ……そんな……」
ハクちゃんの髪から落ちる水滴で、私の顔はびしょびしょだった。
「泣くな、我が悪かった。……すまなかった」
貴方が濡れてるから、私も濡れちゃったの。
だから、これは涙じゃない……と、そういうことにしてほしい。
「ハクのば……か、ばか! ばか!!」
濡れた硬い胸を、荒れ狂う感情のままに叩きたいのに。
私の手は、私の言うことをきいてくれなかった。
「泣くな、りこ。もう泣くな」
「ひっぐ……う……泣いてないもの」
ハクの肌から、離れてくれない。
叩くのではなく、すがってしまう。
私のこの手は。
持ち主よりも正直だ。
「泣いておらぬと?」
いたわるように……優しい舌が目元から顎先まで何度も往復し。
「涙でないなら、なぜ甘いのだ?」
小刻みな震えが止まらない私の唇を、ハクの冷たいそれが優しく……優しく何度も噛んでくれ
た。
「我の愛しい妻のこの口は、可愛らしい嘘をつくからな」
優しい貴方に嘘をつくのは、とても難しい。
「んぁ……っ……ハクちゃん、ハク!私……すごく怖かったのっ。だって、だからわ……たしっ……怖かった!」
「我はりこを置いていったりせぬ」
私、貴方への依存が……分離不安が、病的にまで進んでるって自覚があるの。
「りこを置いていくことなど、我にはできぬ」
私達の間に子供が出来ないのだと知ってから、それがますます酷くなっている。
どうしよう、どうしたらいいの?
このままじゃ、私……こんな私じゃ、貴方の負担にしかならないよね?
「どこまでも……我は貴女を連れて行く」
「……うん」
もっと。
もっと、強くならなきゃ。
私はもっと、強くならなきゃ。
「うん」
強く、ならなきゃ。
「りこ、もう1度風呂に入れ。我が濡れていたので、りこも濡れてしまった」
ハクちゃんは左腕で私を抱きあげ、右手で顔に張り付いた真珠色の髪をはらいながら言った。
あ。
ハクちゃんは冷たい池に現在進行形で入ってるんでした!
しかも裸だ!!
「だが、その前に。この鯰めを<処分>し……」
しょっ、処分!?
「ま、待ってハクちゃん! 私がナマリーナを叱るからっ……こら、ナマリーナ。ハクちゃんに謝りなさい」
別に返事が欲しかったわけじゃなくて。
被害者(?)であるハクちゃんへの手前、言ってみただけだったのに。
きゅう
鳴いた。
ハクちゃんの横で、ぱくぱくと大きな口を開けていたナマリーナが。
「ハクちゃん、今の聞いた!? すごい、すごいっ!」
竜帝さんの貸してくれた本に書いてあった通りだった。
鯰は鳴くのだと書いてあったけれど、いまいち信用してなかった……疑ってごめんなさい、図鑑の著者様!
「……笑ったな、りこ」
ハクちゃんの眼が、細まった。
「鯰。命拾いしたな……だが、次は無い」
鯰のナマリーナにそんなことを大真面目に言う裸の魔王様……。
これはこれで、メルヘンな光景なのかなぁ?
「りこ」
竜体の我を抱いたまま。
りこは湯に浸かり、目を閉じて居眠りをしている。
「……我はりこを、また泣かせてしまった」
風呂に入るため、衣類を脱ぎながら。
りこは常に我へと視線を向けていた。
我の存在を確認するかのように……。
「怖い思いをさせたな。すまなかった」
鯰が鳴いたと、幼子のようにはしゃいでいたが。
口元は笑んでいるのにその眼は。
瞳孔は、りこの黒髪のように細くなっていた。
りこの抱く感情……不安感や恐怖心は、当人が思っている以上にその金の眼に現れるのだ。
りこは弱い。
先程の反応からも分るように、精神が不安定だ。
異界人であるからか、この世界に落とされたことが原因なのか。
<青>はそのことを案じている。
だが、我は。
「りこ」
我は。
その弱さが。
とても愛しい。
「んん……あれ? 私、寝ちゃってた?」
貴女は。
強くなど、ならないで。
貴女の分も、我が強くなるから。
貴女を支えられるような、我になるから。
「ああ、少しな。眠いのだろう?」
「……うん。でも、大丈夫。私は大丈夫だから……えっと、その」
もっと。
我を頼って欲しい。
もっと。
我を必要としてくれ。
「りこ」
鋭い牙でりこを傷つけぬように。
舌を伸ばし、りこの唇を舐めた。
「んっ、ハ……クちゃ……ん……」
口付けに応えてくれながら。
我の鱗の流れに添って、誘いかけるように指先が動く。
「ハ……ク」
我の染め上げた黄金の瞳が、蕩ける視線が。
蜜のように我へと注がれる。
我の名を紡ぐ、その唇。
我を酔わせる、甘い吐息。
我を撫で包みこむ、柔らかで温かい身体。
「……今宵はもう、眠るがいい」
「え? 寝ちゃって……いいの?」
我が蜜月期の雄であることを、りこはとても気にする。
「でも、あのっ、ハクちゃんは……その、平気?」
竜族の雌のようになれぬ自分を、りこはとても気に病む。
時には行為の最中に、泣きじゃくりながら我に詫びる事すらある。
身体の昂ぶりに、押さえつけていた心が引き出されてしまうようだった。
「ああ、大丈夫だ。我が寝台に連れて行く。安心して休め」
人型になり、白濁の湯からりこを抱きあげた。
我とは違う、黄を帯びた肌を湯が伝い流れるさまを見ながら。
額に口付け、りこの中にある竜珠に眠りを促す。
「さあ、眠れ」
「ん……ありがと……う、ハクちゃん」
りこは我を、好いている。
得体の知れぬ<化け物>である我の子を、孕みたいと願うほど。
それほどに、貴女が我を愛しているのだと分かっている。
だがな、りこよ。
まだ足りんのだ。
池の中から、我はりこを見ていた。
その表情から、目が離せなかった。
我は。
歪んでいくりこの表情に、暗い喜びを。
我を案じ、我を求めるその顔に。
我を想うが故の歪みに。
狂気の色に見惚れたのだ。
我の愛しい女。
もっと、我を愛して。
もっと。
我に溺れて。
我が支えねば、立ち上がれぬほど。
我を頼り、依存すれば良い。
我がおらねば、正気を保てぬほど。
「おやすみ……なさい、ハク」
「おやすみ、我のりこ」
もっと、もっと。
我で。
我に。
狂って。