9 晩餐
目を見張るほどの大広間。
赤と黒のコントラスト。
頭上高く威容を誇るシャンデリア。
まるで宮殿だ。
この貴賓室に通され、饗応を受ける度に自分が俗世界から離れていくのを感じる。
事実、金星暮代はもはやただの警察官ではありえなかった。
腐敗と混沌の町に飲まれ、堕落とともに栄華を極めた。
目の前にいる男、田所弓彦の導きなくして自分は今の地位を得ることはなかっただろう。
「どうされましたか?どうぞ、お召し上がり下さい」
全く手のつけられていないステーキの皿を指して田所が言った。
微笑む口許は真新しいグロスで艶めき、男の金星ですら目眩を覚えそうなほどの色香を放っている。
恐ろしい男だ。
年齢は自分とさして変わらないはずだった。
すでに40を過ぎている。
だがその容姿は始めて彼に会った十数年前と何ひとつ変わってはいない。
白く透き通る肌、金色の髪、高く通った鼻筋。
この端整な顔立ちの優男が今や豪翼町の支配者とすら呼ばれている。
「先日の格闘祭も大盛況でしたな、田所社長」
「何て事のない遊びですよ、あんなものは。常に顧客を飽きさせないためのね」
田所デイサービスセンター。
田所弓彦がその資金にモノを言わせて作り上げた不夜城。
顧客は豪翼町でも指折りの資産家ばかりである。
血と暴力にまみれたこの地においての安息は支配者の庇護の下でしかあり得なかった。
文字通り、彼らは田所から金で命を買っているというわけである。
「Mr.カネボシ。グラン・クリュ リシュブールにございます」
仮面の男がルビー色のワインをグラスに注ぎ入れた。
芳醇な香りが鼻をつく。
強烈な食欲に襲われて、金星はステーキを口に運んだ。
「こいつができる土地はね、"神に祝福された地"と呼ばれているんですよ。あなたも私とともにある限り、神は祝福をおしまないことでしょう、金星警視正」
グラスを傾けながら田所は不適な笑みを金星に向ける。
本当に恐ろしい。
十数年前のあの日、彼が支配者を名乗るまでの強大な組織を作り上げることなどは全く想像もできないことだった。
彼はしがないホストに過ぎず、上客から金を引き出すテクニックだけに優れたただのチンピラだった。
だが彼は始めて会ったあの日から、いやきっとそのずっと前からこの町を支配下に置くことを考えてきたのだろう。
彼は実に人間の心理をよく理解していた。
この町の人間が怯えながらもここから離れようとしないのは、この町が欲望を実現してくれることを知っているからだ。
無法とは時に不可能を可能とする。
豪翼町から漂う死の香りはある種の甘美さをたたえている。
田所弓彦はそれをわかりやすい形で提示したに過ぎない。
酒も、女も、クスリも、そして命も、金と力があればこの町で買えないものは無かった。
豪翼警察は無力だ。
正義。
公正。
口にすれば笑われるような高尚な理想。
それも当然だ。
元より、ここ豪翼町は無法者たちが己の欲望を実現するために築いた法の外の楽園だったのだから。
田所の存在に関わらず豪翼警察が有名無実の存在であることは昔から変わらなかった。
だから金星も己を卑下することは何も無かった。
自分だってこの町のステレオタイプのひとりに過ぎない。
それでも自分が田所に協力し、無法を法としてきたことには少なからず恐怖を覚える。
今の豪翼警察は田所の私兵だ。
彼に逆らうものを取り締まる彼の為の治安装置だ。
そしてそうなるように仕向けたのは他ならぬ金星なのだ。
「でもまさか桧山が裏切るとはね。私にとっては少し胸が痛む話でした」
桧山正澄。
田所DSCの金庫番。
今も傍らに佇む仮面の執事ヤモリと共に田所の絶対的信頼を得る実質的No.2。
「聞くところによると病気の娘さんがいたそうですね。まとまった金が必要だったとか」
「それならそうと言えば良かったのですよ。黙って会社の金に手を着けるなんてコソドロのような真似を。私と桧山にはもっと固い絆があったはずです」
確かに正直に話せば田所は多少の金は融通してくれただろう。
それだけの働きを桧山はしてきたのだ。
だがその見返りに田所は何を求めるだろうか。
忠節の証しに彼は何を望むだろうか。
それを考えれば桧山の決断は決しておかしな事でもなかったように金星は思う。
「それで、桧山くんの処分はどうなるのですかな、社長」
聞かずともわかる気がしたがつい口にしてしまう。
この町にいると時々、他人の不幸が妙に心地よくなる時があった。
自分よりも弱い他者の不幸は自分が特権階級であることを強く思い起こさせる。
極めて平凡な人間である自分にとってその感覚は何よりも気分を高揚させた。
「処分?もうとっくに済んでますよ、先日のイベントは彼の為にあったのですから」
豪翼総合格闘祭メインイベント。
すなわち反逆者の処刑。
観客は支配者に逆らった愚か者が惨たらしく死んでいくのを見ることによって快感を覚える。
自分が生殺与奪の権利を握っているのだと錯覚する。
それは一種のトランス状態でもあった。
麻薬以上に人を狂わせる悪魔の飽食だ。
「ディナー、お楽しみ頂いていますか?しっかり召し上がってくださいね。これが桧山の生きた証なのですから」
金星は目の前のステーキに目を落とした。
まさか。
急激に吐き気が込み上げた。
喉に手を突っ込むと金星は大きくえづいた。
「ククッ、冗談ですよ、警視正。冗談」
くそっ、こいつこそ真の異常者だ。
今日のディナーにはこれ以上、手をつけるのをよそう。
何を食わされているかわかったものではない。
「そうそう、そのイベントですが少し面白いことがありましたな」
「面白い?」
「ええ。どうもあの場で堂々と私を批判した少女がいたようですよ。それも刀を背負っていたとか」
若いというのはいいものだ。
恐れを知らない。
何かを変えれると本気で信じている。
その女はあのホールで田所に敵することが勇気だと思ったのだろうか?
それが意味することは考えなかったのだろうか?
若さとは罪だ。
夢と希望を純粋に信じることができる。
そんなものは愚かな過ちだと気づかずにいる。
田所は逆らう者には容赦はしない。
それが例え誰であろうと、自分を傍らで支え続けたNo.2でさえあっても。
だからこそ彼はこの暴力の町に君臨し続けることができるのだ。
「当然、執事はそれを許すような男ではない。彼の銃口は少女の額を捉えた。その時だ」
田所が指を銃の形に見立てて金星へと向ける。
どことなく楽しそうだ。
こんな田所を見たのは久しぶりだという気がする。
彼の微笑みはいつも誰かの死を伴う。
まさしく死神だった。
気分ひとつで田所は誰の命でも奪うことができる。
「それを止めに入った男がいた。白髪の紳士だ。誰だと思うね、警視正?」
「さ、さあ…」
どうやら本題はそちらのほうらしい。
妙に浮かれた田所の表情。
きっと相当気にいらない相手に違いない。
「天龍社長ですよ。あの男、まだ生きてた」
天龍豪造。
天龍建設の社長。
いや、今でも多くの人間にとってはこう呼んだほうが通りがいいだろう。
広域指定暴力団天龍組組長と。
"まだ生きてた"
まったくその通りだった。
天龍豪造はとっくに終わったはずの人間だった。
10年前、天龍は確かに豪翼町で絶大な力を誇っていた。
そして彼のその力は無力な民衆すべてに平等に向けられていた。
暴力で成り上がった男が何を思ったか、この町に文化と平和を築こうとした。
だがはっきり言ってそれは世迷い言に過ぎなかったし、豪翼町に住まう人間がそんな事を望むはずもなかった。
10年前、天龍組はその力の多くを失った。
新興勢力であった田所弓彦に敗れ去った。(無論、その裏で自分が糸を引いていたことも田所の勝因の大きな要因のひとつだと自負しているがね)
そして天龍は表舞台から姿を消したはずだった。
「今さらヤツが私のイベントを覗きにくるなんてね、ゾクゾクしてきませんか?金星警視正」
なるほど、彼の上機嫌の理由はそこにあるのか。
田所は金も、地位も、権力もありとあらゆる物をここ豪翼町で手にしてきた。
もはや田所にとってありきたりの日常など退屈に過ぎないのだ。
だから彼は命を賭けたスリルを望む。
血で血を洗う大抗争を望む。
もはや暴力だけが彼の欲望を満たすのだ。
その意味において田所弓彦は豪翼町の申し子であるとさえ言えた。
「嵐が来るといいですね。大きな嵐が」
"それを起こすのはあなたの存在自体ですよ"
金星は言葉を押し殺す。
口にすればその渦から逃れられないような気がしていた。