8 知の祭典
真っ白な部屋。
またここか。
タイチは部屋の中央の棺へ向かって歩を進めた。
近づいても今度は棺が遠ざかっていくことはなかった。
棺の上には小振りな位牌が置いてあることに気がついた。
位牌も他の物と同様白かった。
"桐原惣一郎"
位牌には父の名前が刻まれていた。
棺が音を立ててひとりでに開き始める。
思わずタイチは眼を背けようとした。
瞬間、部屋が、視界が赤く染め上がった。
何だ、これは。
棺が開く。
眩しい。
何も見えない。
そこでタイチの意識は覚醒した。
うなされていたのだろうか、身体中が汗でべたつく。
虚脱感と疲労感が同時に襲ってくる。
「父さん…」
タイチは小さく呟いた。
ひどく喉が渇いていた。
ぼーっとしたまま洗面所へ。
流れる水に顔を浸すと少しだけ頭がはっきりした。
そのまま髪まで水に浸けてしまうとようやくタイチの脳は思考を始めた。
時刻は7時を回っている。
台所からは母の作る味噌汁の匂いがすでにしていた。
学校間に合わなさそうだな。
さぼっちまうか。
何となく気分が乗らなかった。
いや、何となくではない。
明らかに昨日の格闘祭が原因だ。
まだ肌がざわつく感覚が残っている。
思い出すだけで不快だった。
「ちょっとあんた、顔色悪いわよ。熱でもあるんじゃないの?」
リビングに顔を出すと母がすぐに駆け寄ってくる。
「はい、おでこ出して」
「やめろよ」
額と額を合わせようとする母を振り払いタイチは席につくと飯を口の中にかきこんだ。
まったく、いい加減子離れしてくれ。
高2にもなって母にベタベタされてはたまったものじゃない。
ただでさえ毎日よくわからない女に振り回されているというのに。
よくよく考えれば何故いつまでもアカネに構っているのか。
世話は鴻上に押し付けたのだからもう俺が相手をする必要もないではないか。
それはそれでヒドい考え方だとは思ったがとにかくタイチは疲れきっていた。
こんな体調で命懸けの学校生活をまともに送れるとは思えない。
うん、そういうことにしよう。
「母さん、今日は学校休むよ」
「え?もしかしてお母さんとデート?」
「ちげーよ」
なんでそうなるのか。
家にいるのも学校にいるのも大して違わないんじゃないか、これ。
「ちょっと寝てくる」
「はーい」
気の抜けた返事。
窓の外から聞こえるのんきな小鳥のさえずりに苛立ちながら布団を被ると、タイチは今度こそ悪夢を見ないように祈って再び眠りに落ちた。
結局、なし崩し的に3日も続けて休んでしまった。
サボり癖がつくから行きなさいと急に親らしい事を言い出した母に無理矢理追い出されなかったら多分もっと休んでいただろう。
渋々登校するとさっそく担任の沼田からの呼び出し。またチョークを喰らうのかと思ったら意外にも用件は他にあった。
「おぅ、桐原。お前がサボりとは珍しいな。九条から伝言だ。図書室にいるからノートを届けろとよ」
何故サボりだと決めつけられているんだ。(あながち間違ってはいないから返す言葉もないが)
普段からまじめに学校に通ってきたと言うのにこれでは他の連中と変わらないじゃないか。
それに"ノートを届けろ"とは何だ。
休んでたんだからたまにはアカネのほうがノートを写させてくれてもいいんじゃないだろうか。
相変わらず勝手なヤツだ。
「ったく何で俺がこんな伝言をしなくちゃいけねーのかねぇ。痴話喧嘩でもしたのか、お前ら?」
「冗談言わないでくださいよ、先生まで」
そんなに自分とアカネはお似合いなのか?どいつもこいつも事あるごとにカップリングしてきてタイチはもううんざりだった。
「それより先生こそちゃんと教室に登校しろってあの子に伝えてくださいよ」
「やだよ、そんな危ねえ事できるか。俺はまだ死にたくねーんだ」
いくらアカネだってそんなに見境無く人を斬ったりはしないだろう。
獣じゃないんだから。
たぶん。
次から次へと溢れ出す沼田のぼやきを受け流しつつタイチは教室へ戻ると教科書を開いて深呼吸した。
どうせ届けるならきちんとしたノートを作ろう。
と、いつもよりも真剣に授業を聞いてしまう自分が悲しい。
長いものには巻かれる生き方がこんなところにも弊害を及ぼすとは。
授業後1時間半程度ですべてのノートをまとめ終えるとタイチは図書室へと向かった。
新記録達成。
今ならノートの活用術では誰にも負けなさそうだ。
ただ渡しに行くだけというのも何だか癪だった。
タイチは久しぶりに本でも借りようかと思いを巡らす。
最新のミステリがいいな。
『その男、アフレック』
雑誌に取り上げられていたあの本を借りることにしよう。
図書室の引き戸を開けると入ってすぐに目立つ形で新刊コーナーが設けられている。
タイチは新着のミステリから目当ての本を選ぶとカウンターに持っていった。
思わず目を見開く。
赤髪の少女がカウンターの内側で寝息を立てている。
膝の上には分厚いゾンビ研究本。
このだらしない顔は。
「アカネさん?」
「あら、タイチ。アンタ、来るの遅いわよ。あんまり退屈だから寝ちゃったわ」
「図書委員入ったんだ。良かった」
「そんなわけないでしょ。何が良かったよ。委員長のヤツ"毎日ここにいるなら働きたまえ"だって。信じらんないわ、アタシを誰だと思ってるのよ」
それはこっちが聞きたい。
さすがは鴻上図書之介だった。
あのアカネを有無も言わせずカウンターに座らせるとは。自分だったら蹴りを入れられるところだ。
「調度よかったわ。あとはアンタがやりなさいな、アタシは帰るから」
「いや、ちょっと言ってる意味が」
「え?アンタ、図書委員でしょ。いつまでもサボってんじゃないわよ、グズ」
俺は図書委員ではないのだが、それを説明したところでアカネの態度は変わることはないだろう。
「ま、チケットの借りもあるから1日くらいは構わないけど」
今、寝てたヤツがどういう心境でそんな台詞を口にするのか。
そもそも毎日毎日ノートをまとめてやってる俺に対する借りは返さなくてもいいのか?
納得いかん。
タイチは不満に口を尖らせた。
「ポリスマン!やっと登校してきたか。心配していたぞ」
どこから現れたのか鴻上が間宮を引き連れてふたりの前に立った。
「格闘祭は楽しめたかね」
「全然」
珍しくアカネと声がシンクロする。
3日経ってもあのリングがまぶたの裏に鮮明に蘇ってくる。
金持ちってのは高い金を払ってああいう物を見に行くのがステータスなんだろうか。それとも大多数の人間は面白いと思ってあれを見に行くのだろうか。
さっぱりわからない。
少なくともあれを地獄と形容した鴻上の感性は比較的、自分達に近そうではあるが。
「田所には会えたのかな?」
「田所?誰だったっけ、それ」
アカネがこちらに視線を投げ掛けてくる。
「格闘祭の主催者。この町の支配者」
「ああ、居たわね、そんなのも」
薄いリアクションにさすがの鴻上も言葉を返せずにいるようだった。
いったい彼女の思考回路はどうなっているんだ。
興味をなくすとすぐこれだ。
「さて、二人とも。実をいうと今日は君たちに我が図書委員会にとって重大なる日が近づいてきた事を伝えに来たのだよ。間宮クン!」
鴻上の号令に合わせて間宮が一枚のプリントをカウンターに差し出した。
"劉傑学園大文化祭~生き残るのは誰だ!~"
文化祭の告知ビラ。
どうでもいいけどキャッチコピー考えてんのは誰だよ。
生徒たちに何をやらせるつもりなんだ。
「我が図書委員会は今月末の文化祭に合わせ機関誌を発行する!君たち、この学園の愚者どもに広く学問と文学の素晴らしさを伝えようではないか!」
高らかに笑う鴻上の隣で間宮が必死に紙吹雪を舞い散らせる。
まさかこれやるためにここに来たのか、こいつら。
「こういう目立つことばかりするからアイアンメイデンなんかに目をつけられるんですよ、先輩」
「何を消極的な!この機関誌は鴻上家歴代の図書之介たちが如何に苦心して辞書の編纂を成し遂げてきたのかを記すものなのだぞ!その栄誉ある仕事に諸君たちも加わりたくはないのかね、ポリスマン!」
あれ?
さっきと言ってる趣旨が違うような。
前言撤回。
この人の感性にはとても着いていけない。
「盛り上がってるところ申し訳ないんですが先輩、俺図書委員じゃないんすけど」
「はっはっ、何をバカな」
いや、そんな乾いた笑い声でごまかされても。
「では来週までに君たちも機関誌に乗せる記事の内容を考えてきてくれたまえ。頼んだぞ!」
「まったく人使い荒いわねえ」
アカネがあくびを噛み殺しながら言う。
人の事、言える筋合いじゃないだろうに。
変人ふたりの間でタイチはひどく疲労を覚えていた。