7 血の祭典
豪翼文化芸術会館。
この町がまだ文化と呼べるほどのものを持ち合わせていた数十年前に建設された町内唯一の文化施設。
キャパシティは3千人。
大がかりな舞台転回装置と完璧に整えられた音響設備。
芝居小屋としてもコンサートホールとしても使用可能なように設計されたこの施設も今や使用されるのは月に1度の総合格闘祭の日だけだった。
ホールの真ん中をぶち抜くように作られたリングは不格好な鉄製の柵に囲まれてさながら牢獄のようだ。
1階の収容人数は千人。
2階以上のフロアは取って付けたようなシャッターによって物理的に封鎖され客席に立ち入ることはできない。
元からそれほど多くの招待券を配布している訳でもないのだろう。
それでも多くの客席は空席のままだった。
招待券を係員に渡したタイチとアカネのふたりも通されたのは他の観客と同じく1階。
当然と言えば当然だが学生服姿のふたりが招待券ひとつで特に不審がられることもなく客席に座れるあたり不穏なものを感じないと言えば嘘になる。
開演時刻が近づくと妖しい風体の老人たちが席に付き始めた。
格式張った燕尾服やいつの時代のものかも知れないようなドレスに身を包んだVIPは皆一様に仮面を被って素顔を隠している。
「ねえ、やっぱり帰らない?これ絶対俺たちの来る場所じゃないって」
「大丈夫よ、場違いなんかじゃないわ。あんなのもいるし」
アカネが示す指の先には黒色のジャケット。見覚えのある揃いの革ジャン。
アイアンメイデンじゃないか。
もうやだ。
死にたい。
何なんだ、この無法地帯は。
いやこの町が無法地帯であることは元々わかっている。
だがここは、このイベントはその中でも最悪の部類に入る無法地帯だ。
この統一感の無い顔ぶれはなんだ。
なぜ、子どもが紛れ込んでいるというのに誰も咎めないんだ。
胸が詰まる。
下卑た期待に満ちた空気がひたすらに重い。
やはり興味本意で来るべき場所ではなかった。
タイチが溜め息をついたのとほぼ同じくして舞台にスポットが当たった。
四方から降り注ぐ明かりがリングを煌々と照らし出す。
「レディースエンドジェントルメン!今月もお待ちかねのショータイムがやって来た!暴力渦巻く豪翼町のここが最前線!今宵、新たな歴史を刻むのはどいつだ!野郎共、盛り上がっていこうぜ!」
リングの中央、目元だけを覆う仮面で顔を隠した司会が煽ると先程までの静寂が嘘のように客席から歓声が上がった。
杖をついて入ってきた隣のじいさんも拳を振り上げて唾を飛ばしている。
血管切れても知らねーぞ。
「ではさっそく第1試合に入るとしよう。まずは東軍、宵闇の帝王・ノクターン冴島!」
派手なクラブミュージックがかかり始めると会場のボルテージは最高潮に達した。
音楽に合わせて仮面のMCもステップを刻む。隣のじいさんも杖を置いて身体を動かし腰をひねった。
ぎっくり腰起こしても知らねーぞ。
「お次は西軍、反逆の守護神・ハヌマーン武山!」
歓声はもはやマイクを通した司会の煽りを掻き消すほどに会場中に響き渡った。
声が空気を震わせ大地を振動させる。
不安だ。
助けを求めるようにアカネを見やる。
半開きの眼。
だらしなく半分開いた口からはよだれが糸を引いていた。
この状況でよく爆睡できるもんだな。
というよりも何故、ここに来たがった本人が試合前からいきなり寝るのか。
さっぱり理解できない。
一通りの演出が終わると再び会場は静寂へ包まれた。
リングの両脇から選手が入場を開始する。
東側、ノクターンという選手はどこかの部族のような化粧を体中に施し、両手には小振りな斧を携えていた。
西側、ハヌマーンは白塗りに目元と口元だけ赤のペイント。
携えるのは槍。
当然、予測の範囲内ではあったがこんなところで行われる大会がただの格闘技大会な訳はない。
こいつは殺し合いを見せるためのショーだ。
観客に老人が多いのはもう自分で人を殺せなくなったかつての無法者たちにとって、ここが唯一血を見れる場所であるからだろう。
悪趣味極まりない。
まったく最悪だ。
今日ほどアカネとかかわり合ったことを後悔したことはない。
試合が始まった。
開始の合図と共にノクターンが手斧を放り投げる。
真っ直ぐに飛んだ斧が
正確にハヌマーンの両腕を斬り落とすと客席は沸き上がった。
"殺れ!"の大合唱。
地鳴りの音がする。
タイチの背中を汗が止めどなく流れ落ちた。
剥き出しの殺意。
悪意なき純粋な衝動。
豪翼町は暴力の支配する町だ。
人が死ぬなんて日常的なことだ。
だがこれは。
このイベントは異常だ。
息がつまった。
ノクターンが落ちた斧を拾い上げる。
その後は一方的な展開だった。
倒れたハヌマーンに容赦なく加えられる追撃。飛び散る真新しい血がリングを瞬く間に赤く染め上げていった。
タイチは眼を伏せた。
そうしていると漂う臭気が余計に気分を滅入らせた。
早く終わってくれないか。
今更ながらこんなイベントのチケットを渡した鴻上を呪いたくなる。
どれくらいそうしていただろう、数試合が過ぎて観客の興奮も会場の血生臭さも臨海点を迎えていた。
リングの中央に再びMCが進み出たようだった。
「さあ、皆様お楽しみのところではありますが次が本日の最終戦。いよいよ、メインイベントの時間でございます!」
割れんばかりの声の渦。辟易する。
いつの間にか目覚めたアカネがうるさそうに舌打ちする音が聞こえる。
"もう帰ろう"
タイチが切りだそうとした時だった。
リングへ今までの選手とは異なるごくごく普通のスーツ姿の男が投げ出された。
両脇を固める屈強の者共はどう考えてもボディーガードには見えない。
むしろスーツの男が逃げ出さないための監視役といったほうがしっくり来る。
男の顔はすでに殴られた後なのかいくつもの青い痣が痛々しく残っていた。
「おい、やめてくれ!頼む!お願いだ!ちょっと魔が差しただけなんだよ。社長、裏切ったわけじゃねえんだ。頼む、やめさせてくれ、なぁヤモリ、俺とお前の仲じゃねえかよ!」
血走った表情で男がMCのズボンの裾にすがり付いた。
これから起こる事を既に知っているのだろう、その顔は恐怖に歪んでいる。
「私に話しかけるな、これからいいところなんだろうが。イベントに水を差すな、このドグサレが!」
懇願する男の腕を振り払うと顔面に目掛けてMCは何度も蹴りを叩き込んだ。
飛び散る血がMCのタキシードに染みを作る。
仮面を被ってるだけあってさっきまでの紳士的な態度は仮面か?
まったく笑えない。
マイクがMCの荒い息づかいを拾って不快なハウリング音を立てた。
「大変失礼を致しました。では本日最後の選手の入場です。田所DSCの処刑人・前田奉先忠勝!」
何てうさんくさい名前なんだ。
もう少しマシなリングネームはないのか。いや、むしろ本名か?
いや、それより何よりタイチを驚愕させたのは現れた前田の装いだった。
金色に輝く甲冑と兜に身を包み、顔は総面に依って守られている。
一分の隙も無い鉄壁の守り。
手に握られた大振りの太刀は刀というよりもさながら牛刀を思わせる威圧感だった。
これは試合をするための衣装ではない。
正しく処刑の為の装束だ。
リングに進み出た前田はいきなり男の首を締め上げると頭上高く持ち上げ床へと叩き落とした。
何て力だ。
背骨の折れる音がMCのマイクに拾われ反響した。
辛うじて呼吸を続けている男の腹部に前田は太刀を振り下ろす。
わずかに裂けた腹部から噴水のように鮮血が溢れ出した。
あの刀、わざと切れ味を悪くしている。
この悪趣味なショーを長く続けるために観客をより楽しませるために。
「ねえ、帰ろうよ。もういいって!」
アカネの腕を掴む。
ぞっとした。
いつも退屈そうなアカネが見たこともない形相でリングを睨み付けていた。
前田に向けられた氷のように冷たい眼差し。
「俺、帰るから…」
タイチは力無くアカネの腕を離すとロビーに出た。
換気扇が運ぶ新しい空気が気分の悪さを少しだけ和らげる。
もう散々だ。
一刻も早くこの悪夢のような場所から立ち去りたい。
だが緊張で疲れきった身体は上手く動かなかった。
仕方なく自販機で水を買うとソファに腰かけて気持ちが落ち着くのを待った。
やがて観客が嬉々とした表情でロビーに溢れ帰りはじめた。
本日のプログラムに充分ご満悦のようだ。
キチガイどもめ。
これが豪翼町の本当の姿だ。
田所弓彦という男の恐ろしさだ。
悪寒が止まらない。
帰りたい。
平穏無事な日々に帰りたい。
「情けないわね。青い顔しちゃって」
「ほっといてよ。わかった?豪翼町がどんなところか?これに懲りたらもう目立つ事はしないほうがいいと思うよ」
アカネの表情は普段通りだ。
眠そう、だるそう。
さっき見せたあの真剣な眼差しは何だったんだろう。
そう言えば俺はこの娘の感情表現をほとんど見たことがない。
「そうね。下らない町、下らないイベント、下らない客。田所って男もたかが知れてるのね」
「バカ、でかい声で!」
ロビーの観客が一斉にアカネのほうを向いた。
ああ、だから何でわざわざ目立つことを。
「聞き捨てなりませんな、マドモアゼル。イベントはお気に召しませんでしたか?」
血染めのタキシードに特徴的な仮面。
MCヤモリ。
最悪だ。
「ええ、最低よ。0点。アンタのださい格好も含めて」
「ふふ、面白いお嬢さんだ。あなたにはこの高尚な楽しみが理解できないらしい。まあ無理もない、どこで紛れ込んだのか知れんがこんなみすぼらしい小娘ではね」
丁寧な物腰だがこいつは田所DSCの人間だ。さっきの豹変のことだってある。
早く謝って帰ろう。
だがタイチは声を出すことが出来なかった。
恐怖に呑まれていた。
ここは俺の来る場所じゃない。
絶対、何かがおかしい、間違ってる。
「お帰り頂くとしましょうか、天に」
ヤモリはピストルを抜くとアカネの額に押し当てた。
アカネの手が動く。
ダメだ、そいつを殺したらダメだ。
「そこまで!」
ロビー中に響く低音。
ロマンスグレーの髪と髭。
ところどころ汚れた青色のつなぎを着た男がヤモリとアカネを制した。
年の頃は70くらいか。
顔に刻まれた皺が男の経歴を物語る。
双眸に宿る光は鋭く、まっすぐ伸びた背筋は年齢を感じさせない。
隣にはスーツ姿の女性が寄り添う。
黒ぶち眼鏡にストレートの黒髪。
ぱっと見で20代。
年齢も格好も男とは不釣り合いなのに何故か不自然には見えなかった。
「これはMr.テンリュー。久しくお見かけしておりませんでしたがお元気でしたか?」
「おう、見ての通りよ」
豪快にテンリューは笑った。
「まあそんなに物騒な物を持ち出すな。若者ははしゃぎするほうが調度いいと言うしな」
「ですがこちらのマドモアゼルは我が主への侮辱とも取れる発言をなされたのでね」
「そう言うな。わしの顔に免じてここはおさめろ。実を言うとこいつはわしの孫娘とそのボーイフレンドなんだ。な?許せ」
顔は笑っているが眼は笑っていない。
一触即発の空気が流れる。
やがてヤモリが腕を下ろした。
「オーケー、わかりました。そういうことにしておきましょう。またのお越しをお待ちしております」
助けられたのか。
見ず知らずの老人に。
まさかホントにアカネの祖父なはずはないだろう。
それに誰がボーイフレンドだ。
そこを聞き逃すと思ったら大間違いだ。
「あの、ありがとうございました」
「ありがとうじゃないわ、小僧。お前がその子を守らんか」
「そうね。ホントにそうしてほしいわ」
ヒドいヤツだ。
こっちは巻き込まれただけだと言うのに。
「失礼を言ってはいけません、社長。無謀と勇気は別物です」
スーツの女性が淡々とたしなめた。
良かった、久しぶりに常識人らしき人に会った気がする。
「失礼ですが何故、俺たちを?」
「なに、威勢のいい小娘だと思っただけだよ。今時、あんなに堂々と田所を敵に回すやつはそういないぞ」
アイアンメイデンに続いて田所DSC。
とうとうアカネはこの町そのものに喧嘩を売ってしまったことになる。
本当の悪夢はここにあった。
タイチは力無く肩を落とす。
「ま、わしもあの糞みたいなショーはショーに合わんからのう」
「社長、ショー懲りもなくつまらないギャグを言うのはやめたほうが良いでショー」
「おう、お蘭。お前もわしのセンスがわかってきたではないか!」
テンリューは嬉しそうに笑うとお蘭と呼ばれた女性の尻を何度も叩いた。
「社長、セクシャルハラスメントです」
「む、すまんな」
何だよ、夫婦漫才か?
完全においてけぼりをくらってタイチは呆然とした。
「申し遅れましたがこちらは天龍建設社長の天龍豪造、私は社長秘書を務めております森井蘭です。これも何かの縁、以後お見知りおきを」
何だかよくわからない間に天龍と蘭は風のように去っていった。
世の中、まだまだ変わった人がたくさんいるもんだな。
「なかなかダンディなおじ様ね、好みよ」
嘘だろ。
意外なアカネのタイプを聞いて脱力したところでタイチも文化芸術会館を後にした。