26 再会
長い夢から醒めた気がした。
それほど時間は経過していないはずだが外気の入らない密室は一瞬を永遠と思わせるほどに気分を滅入らせる。
喉の渇きは耐えがたいほどに大きく、自由にならない手足はもどかしく、わずかな物音ですら必要以上の恐怖を覚えた。
この孤独から解放されるのならばキョーコに打ち据えられても構わない、薄汚い連中の欲望の捌け口となっても構わないとタイチは半ば本気で思い始めていた。
空腹に胃が妙な音を立てる。
込み上げる不快感を飲み下す。
ぱさぱさに乾いた唇を舌の上に残ったほんの少しの唾液で潤した。
もはや唾液を精製するだけの水分すら失われ始めている。
身体を切り開いて溢れる自身の血液を口から取り入れたいと願う程度にはタイチの精神は壊れかけていた。
あるいはキョーコに屈服し、心の底からの忠誠と奉仕を誓えばこの屈辱から解放されるのだろうか。
己の欲望に忠実に生きてみるのも一興かもしれない。
無駄に信念を掲げたり、正義漢ぶったりしなければ少なくとも鴻上のような末路を迎えることだけはないはずだ。
タイチにだってよくわかってる事だった。
努めて目立たずただ空気のように生きる。
何も望んではならない。
何も期待してはならない。
だがその結果がこれではないのか?
タイチは自問自答する。
今まで逃げ続けてきた人生の代償がこれではないのか?
鴻上を、間宮を、幼き日の友人たちを、タイチは自分の目の前を通りすぎて行っただけの人間にしてしまった。
彼らの死に心から向き合ったか?
彼らの生に心から向き合ったか?
その問い掛けが虚しく心の内側に響く。
いずれにせよタイチの疲労はそれ以上の思考を許してはくれなかった。
考えがまとまるよりも先に、後悔よりも先に肉体が一刻も早くこの状態を脱したいとタイチをさいなむのだ。
手首を縛り上げる有刺鉄線の感触が生の実感を呼び起こす。
それだけで充分すぎた。
無様な姿だろうと俺は生きている。
その事実がタイチの心を充足させた。
高尚な問答など生きていく上で本当に必要なものじゃない。
リスクを取らなくても生きていくことは出来る。安逸な生にしがみつくことは出来る。
それで良しとしよう。
後の事はもう一度キョーコがこの部屋を訪れてから考えたって遅くはない。
典型的な引き延ばしの思考。
それが根本的な物事の解決になりはしないことは痛いほどわかっている。
16年間で染み付いた嫌になるような逃げの思考だ。
タイチは眼を伏せる。
することがない分、時の流れは緩慢で考えなくてもいいような余計な事まで考えさせる。
このまま眠ってやり過ごそう。
いっそのこと目が覚めなければいいのに。
そう思ったのも束の間、防音壁に閉ざされ外部の音が全く届かなかった密室に突如として大音響のクラブミュージックが流れ込んだ。
同時にタバコの鼻をつく刺激臭と真新しい血液の鼻を刺す異臭が室内にたちこめ、遠ざけ始めた意識が覚醒する。
眼を上げる。
血刀をぶら下げた少女がこちらを向いて立っていた。
ムービングライトに照らされた少女はまるで後光を背負っているように輝き、タイチはそこに束の間、女神の姿を見た。
タイチが一瞬で我に帰ったのは、少女の半開きで腫ぼったい目蓋と椅子に座っている自分とほぼ同じ高さの目線が示す低身長は、とても女神様には見えなかったからだ。
「アカネさん…」
笑ったつもりだったが強ばった表情筋が上手く笑顔の形を作ってくれたかは定かでない。
でも、まあとにかくタイチは笑った。
何となくそうするのが礼儀なような気がした。
よく見るとアカネの身体は傷だらけだった。着崩した制服はいつもの事ながらブラウスの胸元は大きく裂けて血に染まっている。刀を握った右手には包帯のように幾重にも縛り付けられたタイが確認出来た。
よほど強く握りしめたのか、赤く染まったアカネの細い指は返り血とは別のもので濡れていた。
特徴的な赤い髪の毛もいつもより濃いクリムゾンレッドを帯びている。
多量の血液を浴びたのだろう、毛先は痛み頭髪は乱れきっている。
要するにアカネは血まみれだった。
今まで見たこともない姿でタイチの前に再び現れた。
「何、笑ってんのよ。そんなに元気ならもう少しほっときゃ良かったかしら」
アカネは何事もなかったかのようにタイチに近づくと手首を縛っていた鉄線を刀で切り落とした。
3日ぶりに解き放たれ自由になった両腕は上手く動かず、タイチの意思に反してだらりと椅子の横へ滑り落ちた。
身体も床に突っ伏しそうになったがそれだけは全体重を両足に乗せて何とか回避する。
ただでさえみっともない姿なのだ。
これ以上、醜態をさらしたくない。
もっとも今さら取り繕うべきものなど何もなかったが。
椅子の上でバランスを保つとようやく上体を起こし、垂れ下がった腕を身体の前に回した。動かした時に肩が外れそうな鈍い音と微かな痛みがあったがどうやら異常はなさそう。
しばらくすれば元通りに使えるだろう。
手首の生々しい傷跡さえ治ればきれいさっぱり今回の件ごと忘れられそうなほどに。
だがいくら虚勢を張ろうとも心の傷はそう簡単には癒えそうにない。
この町の恐ろしさをイヤというほど思い知らされた今となっては以前と同じような生活を送れるとは思えなかった。
深呼吸をひとつ。
ようやくアカネと視線が合った。
「アカネさん…どうして?」
傷だらけの女の子を前にして一番最初に出てきた言葉がこれかとタイチは自分にうんざりする。
どこまでいっても自分は変わりようのない人間かもしれない。
愚問もいいところだ。
その姿を見れば一目瞭然。
アカネは助けに来たのだ。
この情けない俺を。
助けてくれたのだ。
あれだけ口汚く罵った相手を。
「どうして?別に暇潰しよ。それにアンタに死なれちゃ困るのよ。授業中、起きてなくちゃいけなくなるでしょ?そんな面倒な事、絶対にごめん。だからアンタはアタシの許可なく死ぬことは出来ないのよ。わかった?」
相変わらずめちゃくちゃな理屈。
でも今はその憎まれ口が無性に嬉しかった。やっと日常が帰ってきた気がした。
今、タイチにははっきりとわかった。
いつも気だるそうなアカネが饒舌に悪口を並べ立てるとき、その言葉は照れ隠しに発せられているものなのだと。
どこの誰が暇潰しで血だらけになるというのか。ありがたかった。
自分のために命をかけてくれる人がいるという事実が。
それは事なかれ主義で生きてきたタイチが始めて手にした何物にも変えられない財産だった。
「ウソだよ、暇潰しなんて…だって君はこんなに傷だらけじゃないか。どうしてそこまでしてくれるんだよ、俺なんかのために…俺は逃げたのに。鴻上先輩の死からもこの町からも…そして君にひどいことを言ってしまった。アカネさん、ごめ…」
「うるさい」
タイチの謝罪はうつむきながら発せられたアカネの一言で途切れた。
「ごちゃごちゃうるさい。…だからよ」
「え?」
語尾が聞き取れなかった。
アカネが口ごもるなんて珍しい。
耳を澄まさなければ聞こえないようなか細い声だった。
顔をあげたアカネは固めた拳でタイチの頭をいきなり殴り付けるとわずかに頬を朱色に染めて言った。
「友達だから。アンタはアタシの始めての友達だから。理由なんてない。助けたかった。それだけ」
意外な言葉だった。
タイチも顔を上げる。
変わらず無表情なアカネと視線を交わす。
そっか。
友達か。
俺の人生にそんな言葉を投げ掛けてくれる人が再び現れるなんて。
考えてもみなかった。
でも嬉しかった。
俺も向き合わなくてはならない。
今まで逃げてきたことから。
ちゃんと向き合って答えを見つけなければならない。
アカネが手を差しのべた。
小さな掌を握って立ち上がると肩を並べてクラブの外へ出る。
夜空に浮かぶ星を見た。
綺麗だった。
そんな事を思ったのは始めてだった。




