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16 決裂(2)

動悸がまだ止まらなかった。

アカネのように自分に正直に生きられたらどんなに楽だろうとタイチは思った。


こんなに感情を爆発させたのは生まれて始めての事だった。

自分の気持ちを伝えなければ、常に押し殺してさえいれば、誰からも反感を持たれない、誰にも干渉されない。


それがこの殺伐とした町において一番、身を守ってくれる防衛術なのだ。


だからタイチは常に風のように通りすぎていくだけの存在であろうとした。

どんな人間に対しても居ても居なくてもさして変わりのない存在であろうとした。


孤独ではあった。

だがそれはすごく楽な生き方ではあったし、特にこの豪翼町においては決して間違った生き方とは言えなかった。


アカネに会うまではそれに疑問を持つことすらなかった。

だが今、タイチは知ってしまった。

生きることの喜びが他者との交わりの中にあることを。

そしてそれを失うことの恐怖を。


今からでも遅くはない。

ほんの1ヶ月ちょっと前の生活を取り戻すだけでいいのだ。

退屈だけれども安全で何も考えなくていい毎日を。


タイチは家に戻ると無言で部屋に籠って、ドアに自前の鍵を落とした。

(当たり前のことだが犯罪都市・豪翼町では防犯グッズが大変よく売れる。もっともタイチの場合は外出中に勝手に母に部屋を物色されないための施錠だったが)


部屋には床に転がった鞄の開いた口から筆記具が溢れ出ていた。

そこからノートをつまみ上げるとパラパラとページをめくってみる。

後ろにいくにつれて綿密に工夫が凝らされている。最初は2色ほどのペンでしかまとめられていなかったものが最近では開いただけでカラフルに彩られている。

タイチは苦笑するとノートを丸めて屑籠に放った。

これはアカネのためのものだ。

もう必要ない。


「タイチ?」


「かまうなって言ったよね」


「ちょっとあんたいい加減にしなよ。せっかく友達まで来てくれたのに」


「知らないよ」


ドアが無理矢理開けられようとして鈍い金属音を立てた。

母が引っ張ったらしい。


「開けて」


「やだ」


ため息が聞こえた。


「開けるわよ」


そう言う母の声に続いて何かを差し入れる音が聞こえた。

カチャカチャと鍵穴が鳴っている。

物の2分ほどで鍵はこじ開けられて扉が開いた。


「開けるなよ。何でピッキングなんかできんだよ…」


「何でって…私、警察官の妻だし」


なに、その理屈。

盗賊の間違いだろ。


「ねぇ、何があったのか知らないけどさ、いいの?あんた、こんなとこに引きこもってて」


「関係ないだろ」


「そうね。でもあんたのこと連れ戻しに来てくれた子がいたのよ。

それだけあんたを大切に思ってくれる子があんたにはいるのよ。

そんなの、私はじめて見た。いつからだっけ?あんた友達、家に連れてこなくなったじゃない。

私はあんたが誰かと一緒にいるところなんて見たことなかった。

いっつもつまんなさそーな顔してさ。そのあんたが最近は楽しそうな顔してた。お母さん、嬉しかったよ。あんたにとっても大切な子なんじゃないの?さっきの子」



そんな事わかってる。

わかりきった事だった。

でもだからこそもうアカネとも誰とも関わりたくないのだ。

近しい誰かが無惨に死んでいく姿を見たくはないのだ。

もうそんなのは沢山だ。


「出掛けてくる」


「どこ行くのよ」


「ゲーセン」


きっと母の言う事が正しいのだろう。

でも今はとにかくひとりになりたかった。

誰にも干渉されたくなかった。

自分を知っている者がいないどこかへ消えたかった。


それが単なる現実逃避だとしても。

アカネは"逃げるの?"とタイチに問いかけた。至極まっとうでまっすぐな問い。

まさかアカネの口から聞くとは思わなかったが、その言葉は確かにタイチの胸の奥底を震わせた。

でも沸き上がる感情に身を任せることは今のタイチにはできなかった。

怖かった。

何よりこれ以上他人と関わることが。


たどたどしい足取りで家を出ていくタイチに母もそれ以上、言葉をかけることはなかった。





身体のおもむくままに繁華街まで来ると雑踏に紛れながら目的地を目指す。

普段、こんなところまで足を伸ばすことはまずない。

当然だ。

平穏無事、それがタイチのこれまでの方針だったのだから。

違法営業の風俗店やいかがわしい看板が光る通りにはこの町の欲望の全てが詰まっている。

でも実のところ繁華街まで来てしまえば学ラン姿のタイチにとっては普段より危険は少なかった。

ここで物を言うのは暴力より金だ。

金にならないことに無駄な労力を使うヤツはここでは少ない。

劉傑学園よりもよっぽど安全だった。

もっとも、金を持っている連中からすれば命がいくつあっても足りないほどの危険地帯に変わるわけだが。


目当てのゲーセンを認めると財布から千円札を抜き取って両替機に通した。

入ってすぐに目に入るプリクラ機を横目に店の奥に進むと格闘ゲームの台が居並ぶエリアが続く。

そのさらに奥にはガラス張りの部屋。

2台の椅子が向かい合わせに置いてある中央に大きなスクリーンがムービーを写している。


"QUIZ TORTURE CHAIR  クイズに答えて拷問椅子から抜け出す新感覚バトルクイズゲーム! クイズに正答するごとに拘束具がひとつずつ外れていくよ。さらに連続正解ボーナスでは相手プレイヤーに拷問ダメージが入るよっ。脱出するのが先か、命尽きるのが先か、ギリギリの駆け引きをキミも体験しよう!"


誰がやるか。

ここはスルーだ。


両替したコインを握りしめながら手持ち無沙汰に店内をうろついた。

思えば遊びに出るなんて何年ぶりだろうか。何事もなく過ごすことだけが日常となってからもう何年もたってしまっている。生きているだけマシだと全てを諦めてタイチは平穏という退屈の中に埋没することに慣れすぎてしまっていた。


昨日までならそんな自分の生き方を否定したくもなっただろう。

だがもう違う。

変わることを望めば人は傷つかずにはいられない。

平穏に過ごすことだけを考えていれば鴻上や間宮の死にあれほど動揺することもなかった。

後悔も反省もなく今日を生きられたはずだった。


この短い16年の間に身に付けた処世術は何ひとつ間違ってなどいなかったのだ。退屈でいい。平凡でいい。

生きてさえいられればそれでいい。


店の片隅に一台だけ置かれたガンシューティングゲームの前に立つとタイチは200円を投入して銃を握った。

気晴らしにはこれが一番いい。


"SCHOOL OF THE DEAD  突発的アウトブレイク発生! ゾンビで溢れた学校から命懸けの脱出を敢行せよ!"


女性オペレーターの声が聞こえてゲームがスタートする。

ゾンビゲームか。

アカネが好きそうだ。

思ってこの期に及んでアカネの事が頭をよぎる自分に苦笑した。


ガンコントローラーを画面に向ける。

一心不乱に引き金を引いた。

液晶が赤く染まる度に心のわだかまりがひとつずつ解れていく気がした。


"PERFECT!"


音声と共に表示される数字は店内1位の記録を塗り替えていた。

昔から射撃だけは得意分野。

この手のゲームは嫌というほどやりこんできた。


ゲームが終わると鬱々とした感情が胸の奥底に沈殿していることに気づかされる。やっぱり一時の気晴らしにしか成りはしない。

まだ800円残ったコインを財布に押し込むとタイチは店を後にした。


すっかり日が落ちている。

夜の繁華街は日中とはまた別物だ。

客引きの姿が目に見えて増えている。

こうなっては呑気に遊んでもいられない。かといって家に戻る気分にもまだなれなかった。

明日からまた学校に通うのにも嫌気がさす。


あの場所の空気を吸うくらいならまだここにいたほうがましだった。


「お兄さん、お兄さん。どこ行くの?キャバついとく?ちょっとキャバついとく?」


それが明らかに学生服姿の自分に対して投げ掛ける言葉かよ。

あきれながらもタイチは無視を決め込んだ。だれかれ構わず声かけてんじゃねえよ。


「お兄さん!ねえ、お兄さんってば!」


ドレッドヘアーにグラサン。服装はタイトなスーツというあからさまに不審な客引きはまだ諦めようとしない。


「いや、俺はそういうのはいいんで…」


タイチが両手で擦り寄ってくる客引きを制すると執拗に迫ってきていた男は諦めたのか肩をすくめて立ち止まった。


これでひと安心と思ったのも束の間だった。客引きはグラサンを外すとスーツの内ポケットから武骨な拳銃を引き抜いた。


「めんどくせーなぁ、ガキのくせに。もういいや。さっさと金出せよ」


とっさに両手を頭の上に挙げる。

なるほど。

始めからそのつもりか。


「ほら、さっさと出しな。そこに財布置けよ」


まったくどいつもこいつもこの町の連中はみんなこうだ。

救いようがない。

欲望と本能に支配された奴隷だ。

ヘドが出る。

こんなクズ共に殺されなければならなかった鴻上たちがあまりにも不憫だ。

タイチは財布を取り出すと中身を確かめた。千円札が2枚。

まあ、学生の所持金なんてそんなもんだ。


「カネ~、カネカネ~」


呑気な歌を歌いやがって。

耳障りだ。

思ってもどうにもできなかった。

タイチは地面に財布を置くと再び手を挙げて後ずさった。


「よし!素直ないい子だ。じゃあ褒美をあげよう」


客引きは銃口をタイチの額に押し当てると言った。


「もう逝っていいよ、お前」



汗が握りしめた拳の中まで濡らしていた。そうだった。豪翼町とはこういう町だったではないか。

今朝、認識を改め直したばかりのはずだ。


自分の身は自分で守らなければならない。誰も頼ってはいけない。

金さえも当てにはならない。

すべてが死と隣り合わせの日常。

一瞬の判断ミスが取り返しのつかない過ちへと刷り変わる。

ここはそんな町だ。


不意に警笛の音がタイチの後方から聞こえた。

次第に近づいてくるその音と共に制服姿の警官が目の前におどり出た。


「そこまでだ、貴様!タイホされたくなければ銃を下ろせ!」


芝居がかった口調で警官はポーズを決める。何だ、この人。


ホントに警官か?

コスプレしたヤバイ人じゃないだろうな。


「おいおい、お巡りかよ。今時、そんなの流行んねーって。オレらはよー、ちゃんと許可取って営業して…」


「てやっ!」


客引きの男の弁解が終わるより早く、警官は銃を握った男の右腕を銀色のスチールで光る警棒で打ち据えた。


「痛てっ!て、てめぇ警官が先に手ぇだしてもいいのかよ!」


「問答無用!先に法を犯したのは貴様のほうだ!」


完全に悦に入っている警官は及び腰になった客引きにさらなる一撃を打ち込んだ。


「悪かった!悪かったって!もうここではやんねーから!」


涙目の客引きは銃を警官に向かって放り投げると足をもつれさせながら走り去る。騒ぎに好奇の目が寄せられたが、それも一瞬の事で自分に関係がないとわかるや、町には再び喧騒が戻り始めた。


「君は学生か?いかんぞ、こんなところで遊んでいては。もう帰りなさい」


警官は腰に手を当てると得意気にタイチへ説教を垂れる。

普段なら素直に頷いていただろう。

だが今のタイチにとって警察官など胡散臭さの象徴でしかなかった。


「今の男、見逃してもよかったんですか?またああいう行為に出ますよ、あの手の連中は」


「うむ、その通りだが少なくとも君の命は救えた。今回はそれで良しとしてはくれないかな?」


「納得いきませんね。不正を正せずして何の警察ですか?この町の警察は有名無実だ。いるだけ無駄だと俺は思う」


ずいぶん踏み込んだことを言っている。

タイチは自分がこの見ず知らずの警官にやり場のない怒りをぶつけていることに気がつきながらもどうすることもできなかった。

何もこの人が全警官を代表している訳じゃない。むしろこの人は豪翼町なんて腐った町においてはきっとかなりマシな部類に入る警官に違いない。

それでも、今タイチが意見をできる相手はこの警官以外、他にはいなかった。


「手厳しいな。確かに君の言う通りだろう。今、この町で警察官になりたがるやつなんていない。君は何か警察官に恨みでもあるのかい?」


恨みなんてあるはずはなかった。

同様に期待もなかった。

父は警察官だった。

この不正と腐敗の町で警察官として生き、そして死んでいった。

タイチに父の仕事についての思い出が残っているわけではない。

だが、わかることもある。

この町は正義を成すにはあまりにも汚れすぎている。


「恨みか…強いて言うならあなた方は俺の大切なものを何ひとつ守ってくれなかったことですかね。あなた方はいつも肝心な時にはいない。助けてはくれない」


「そうか。

何があったか知らんが辛かったね。でも少ないかもしれないが私のような警察官もいるということだけは覚えていてくれ。小さなことだが私は私の目の前で起こった犯罪を放置するようなことはしない。

"警察官は地域の人々の規範たれ"

それが私の信念だからだ」


制服の警官は名刺を一枚取り出すとタイチに手渡した。

小さな長方形の紙に肩書きと名前だけが書かれた簡素な作り。


"豪翼警察第1派出所巡査 清川正宜(きよかわまさよし)"


それが彼の名前だった。



「私はいつでもそこの交番に詰めている。何かあったら遠慮なく訪ねてくれ。じゃあもう遅いから早く帰れよ」


「助けて頂きありがとうございました」


去っていく警官の後ろ姿に声をかけた。

何となく言っておかないとばつが悪いような気がした。


帰れと言われておとなしく帰ることもできずタイチは夜の町をまたぶらつき始めた。まだ夜は始まったばかり。

次第に形を成していく人の流れに身を任せてタイチは歩き続けた。


「お兄さんっ!」


また客引きか。

うんざりしながら後ろを振り返ると、そこには愛くるしい表情で目をぱちくり言わせながら微笑む女性の姿があった。

淡いスカイブルーのチューブトップにデニムのミニスカートをこなれた感じで着こなしているところはどことなく遊び慣れている印象を受ける。

頭の上に乗っかった小振りなカチューシャだけが少しだけあどけなさを醸し出していた。


「何ですか?自分、そういうお店とか興味ないんで」


タイチが突き放すと女は噴き出すように笑った。


「違うって。桐原太一くんでしょ?」


「え?うん、何でそれを…」


「あ、やっぱ知られてないんだ。ちょっとショック。私、劉傑学園だよ。同じ2年だし。こんなところで見かけるなんて意外だったけど」


言われてもタイチの記憶の中に彼女の面影はなかった。

これだけ目を引く娘を学校で見ていたら印象に残らないはずはないと思うのだが。

もっともタイチは元から劉傑学園の同級生たちにあまり関心を払ってはいなかったし、最近ではあまりのせわしなさにタイチのほうが有名人になりつつあったが。


まったくどうしてこうなったのか。

努めて他人から距離を置いてきた俺が今では見ず知らずの人間に声をかけられるまでになるとは。


「タイチくんってさぁ、おもしろいよね」


「おもしろい?」


「うん。だって真面目そうな顔してけっこう派手に活躍してるし…何よりあの学校で誰にも頼らず生き延びてる」


ねめまわすような視線が痛い。

詮索されるのはあまり好きじゃない。

今まで俺が生き延びてこられたのはただ空気だったというだけの話だ。

何もすごい事はない。

視界に入らない者を人は気にしない。

ただそれだけの事だ。


「私さぁ、すっごくタイチくんに興味あるんだ。ねぇ少し話さない?」


キラキラと輝く眼で見つめられても困る。これまで人の羨望の眼差しなど受けたことのないタイチにとってこんな時、どう対処していいかはよくわからない。まして相手はとびきりの美少女だ。

調子が狂う。


「べ、別にいいけど…」


「うん、決まりね!じゃあ、ここじゃなんだからさ、場所移そうよ!」


言うやいなや彼女はタイチの手を握って歩き出す。

本当に調子が狂う。

いきなり現れた女の子にタイチは始終ペースを握られっぱなしだった。


「着いた!ここ入ろっ」


"ELIZABETH "

案内されたのはビル一棟をまるごと使った大きなクラブだった。

中に通されると大音量のダンスミュージックが全身を震わせる。

汗を振り撒きながら踊りに興じる者たちの熱気が空間を支配している。


「どしたの?こういうとこは始めて?早く来なよ」


まだ名前すら聞けてない彼女が手招きしている。

呆然としたまま入場料を払うと手の甲にスタンプを押されてタイチはクラブの中に足を踏み入れた。


スポットと間接照明だけの暗がりが彼女の横顔をいっそう美しく照らし出す。

何なんだろう、この感じは。

俺はどうしてこんなところまでのこのこと着いてきたのだろうか。


タイチの手を掴んだままの少女はフロアのサイドに備え付けられたカウンターまで進むと丸椅子に腰を降ろしてタバコに火を点けた。


「ん?意外だった?私だってタバコくらい吸うよー」


よほど驚いた表情をしていたのだろう。

別に意外というわけではなかったが少しだけ面食らったのは確かだった。

あどけない笑顔がとても豪翼町にそぐわなくて、何となく彼女はそういう事はしないものだとイメージしていたのかもしれない。


考えてみれば彼女だって劉傑学園の生徒だ。まともじゃない可能性のほうが高い。


「タイチくんってさ何で劉傑学園なんかに通ってるの?」


「何でって、君こそ何でさ?」


(かえで)


「え?」


「私の名前」


いたずらっぽく微笑むと少女、楓はタイチの鼻をつねった。


「いてっ」


「ふふっ、今の反応、カワイイ。

私はさ、人が壊れるのを見るのが好き。身体も心もバラバラになっちゃうくらい壊れてくのが好き。だから劉傑にいる」


無邪気に話す楓の顔に悪意はない。

本気でそう思ってるのならちょっとどころではなく、彼女のほうがよっぽど壊れてるなと思ったけれども暗闇に紛れて真意は読めなかった。


「ジンバックよろしくー」


楓がバーテンにチケットを差し出す。

無言でそれを受けとるとTシャツ姿のバーテンは手慣れた動作で酒を混ぜ合わせて楓の前に差し出した。


水滴に濡れたグラスをしなやかな指が掴むと楓は琥珀色に煌めく液体を口に含んで喉を鳴らした。

首筋を伝う汗が(なまめ)かしい。

タイチは見てはいけないものを覗き見ているような背徳感に襲われて目を背けた。


「どうしたの?物珍しそうな顔して。あ、わかった!タイチくん、実はお酒飲んだことないでしょ」


「あ、あるよ…お酒くらい」


動揺が口をついて出た。

実のところタイチは酒を口にしたことはなかった。

犯罪者が我が物顔で跋扈(ばっこ)するこの町において未成年の喫煙や飲酒など問題視すらされない。

むしろ年端もいかないころからそのふたつをたしなんできた者のほうが多いくらいだ。

だからこそタイチは頑なに酒も煙草も遠ざけてきた。

それをすることでまるで自分までこの町の腐った空気に堕してしまうかのように思っていた。

常に受け身で生きてきたタイチにとってそれは唯一の、受動的な反抗の証だった。


「彼にもジンバックをひとつ」


楓が頼むとタイチの前にもグラスが差し出された。

いたずらっぽい笑みでこちらを見ながら楓は飲むように促す。

タイチは唾を飲んだ。

これ以上、誘惑に抗えそうにない。

グラスを手に取るとそっと舌の上にアルコールを流し込む。

炭酸の刺激が口の中で弾けて気持ちが良かった。

そのまま喉の奥へ液体を流し込んだ。

頭が覚醒する感覚と同時に胃の下がひりつく妙な快感があった。


おいしい。

始めてのアルコールの経験はタイチの沈みきった気分をわずかに高揚させた。


「いい飲みっぷり。意外とお酒好きになるかも。ねぇ、どうせだからちょっと踊ろうよ」


返事も聞かぬまま楓はまたタイチの腕を掴むと強引に席を立たせてフロアの中央へ引きずり出した。

音楽に合わせてステップを刻むとタイチにも同じようにやってみせるよう要求する。


タイチは足を運ぼうと身体を動かしたが上手くいかなかった。

アルコールでほてった身体はずいぶんと重たくて自分のものじゃないみたいだ。

でも不思議とそれが心地いい。

スピーカーから流れる大音響が全身に染み込んでくる。

音楽が身体の芯に入ってくる。

最高の気分だった。

嫌なことの全てを忘れ去ってずっとこうしていたいほどに。


「だいぶよくなってきたね!」


大声で楓が言う。

タイチは頷いて笑みを浮かべた。


「一緒に踊ろっ」


楓はタイチの腰に手を回すと自分の腰を押し付けた。

顔が目の前にある。

息づかいを感じられるくらいの至近距離。

心臓が異常な高まりを見せ始めた。

はち切れそうなほどの拍動にタイチは戸惑う。


一心不乱に踊る楓の吐息が顔にかかった。ほのかにアルコールの香りがした。


視界が目まぐるしく回転する。

楽しい。

こんなに楽しいなら何もかもを忘れられそうだ。

学校のことも、図書委員のことも、アカネのことも。


「ねえ、さっきの答え教えてよ」


「え、何?」


「タイチくん、何で劉傑学園なんかに通ってるの?」


そう言えばそんな質問をされた気がする。何でだろう。考えたこともなかった。特別意識したこともない。

ただ俺は流されるままに進学し、流されるままに生き、そして今、こうしてここで踊っている。


「わかんないよ、そんなこと」


「私と一緒にさ、色んなもの壊してみよーよ。ね、大切なものも何もかも!」


思わず頷こうとしてタイチは踏み止まった。もう、大切なものは壊れてしまったではないか。自分には何も残されていない。そしてもう何も望みたくはない。


返事をせずにいると楓はタイチから身体を離してひとりで踊り始めた。

支えがなくなってタイチの足はもつれるようにふらふらと情けない動きをした。


アルコールがだいぶ回っている。

グラス一杯のお酒がこんなに効くなんて。これも勉強のうちかな。

高揚感は次第に消えてじとりと身体を濡らす汗の不快感が強まる。


いつの間にか楓は筋肉質なタンクトップの男とのダンスに興じていた。

男は慣れた手つきで楓の腰を撫で回しながら唇を求めようと顔を寄せている。

それを避けながらもまんざらでもなさそうに頬を染める楓はさっきまでとは別人に見えた。


視界がまた回り出した。

万華鏡を通したように見るものがダブってみえる。

気分が悪い。

身体を支えられない。

浴びるように全身を刺す音楽がやがて脅迫めいた叫びに聞こえ始めた。

もうダメだ。

身体を支えていられない。


タイチは体勢を崩すとそのまま地面に突っ伏した。

周りで笑い声が起きる。

鳴りやまないかのように続いていた音楽がぴたりと止んだ。

突き刺さるような視線が注がれる。

みんなが俺を見ている。


「おい、楓。何飲ましたわけ?」


「あはっ、ちょっと強めにエクスタシー混ぜちゃった。効きすぎだね、コレ」


「おい、何だよ。もったいねーなぁ。こんなガキひとりにそこまで手間かけんなよ」


タンクトップと楓が床に転がったタイチを見ながら話していた。

何の事だ。

エクスタシー?

さっきの酒のことか。


「しょーがないじゃん。タイチくんは総長のお・き・に・い・り。ね?」


楓が水を向けるとフロアの前方、ステージからひとりの女がタイチのほうへと歩み寄った。


鮮やかな色打ち掛け。

腰に光る鉄扇。

こいつは。


「また会えたわね、桐原太一クン」


鉄扇子キョーコは楽しそうに笑った。


「な、何で…お、お前がここに…」


「うーん、何でって、ここ私のお店だし。弓っちに頼んでもらっちゃったんだー」


衝撃が身体を駆け抜けた。

背中をせり上がってくるのはもはや不快な汗ではなく恐怖だった。


キョーコの店。

楓という女。

エクスタシー。


最初から全てが仕組まれていたということか。

俺はここに誘い込まれまんまとこうして動けなくなっている。

考えうる限り、これは最悪の状況ってやつだ。


「ごめんね、タイチくん。あなたとのおしゃべりも楽しかったけど私、カレいるから」


楓が黒いジャケットを羽織りながらタンクトップの腰に手を回した。

今度はきっちり口づけを交わす。

糸を引いたよだれの先から覗く舌の上には原色に光る錠剤が1粒見てとれた。


「うん、適量ならやっぱサイコーに飛べるね、コレ」


顔をとろけさせた楓に最初の面影はもはやない。

掃いて捨てるほどいる劉傑学園のクズ共と彼女も同じ顔に見えた。


「大概にしときなよー、楓。お楽しみはこれからなんだから」


「キョーコさんもどうですか?」


「私はいらない。クスリなんかよりもっとサイコーに飛べるコトを知ってるから」


鉄扇を開くとキョーコは倒れているタイチの側に屈んで頬をなぞった。


「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス。あなたはアカネちゃんを釣るためのエサにしてあげる」


「ア、アカネさんは…こ、こ、こんなと、ところには、こ、こないさ…ム、ムダなこ、ことをし、したね…」


呂律がだいぶ回らなくなっている。

クスリの効果で身体が固まり始めていた。異常に喉が渇く。

唇がパサついて喉の奥からヒューヒューと掠れた音が断続的に漏れた。


「どうかしらぁ。男と女って理屈じゃないのよ、タイチくん」


キョーコが指を鳴らすとステージ隣のDJが音楽をスタートさせた。


「テキトーに痛め付けちゃって。あ、顔は傷つけちゃダメよ」


指示を受けてタンクトップの男がタイチの前に進み出た。

薄ら笑いを浮かべたその表情は暴力を好む人間特有の嫌らしさに彩られていた。


「お前、楓とイイ思い出来るとでも思ったか?ん?あいにくなぁアイツは俺の女なんだよ」


別にそんなこと思ってない。

脳みそまで筋肉で出来てそうな男の戯言をタイチは考えの中から閉め出した。


蹴りが腹部へ飛んでくる。

胃の中の物を全て吐き出しそうなほどの衝撃が全身を包みこんだ。


タイチは痛覚をシャットダウンするように全感覚を研ぎ澄ませた。

アルコールとクスリの感覚に身を委ねると少しだけ皮膚が鈍麻した気がした。


男は執拗に蹴りを浴びせ続ける。

飛びそうになる意識の中、何とかタイチは自分を保った。

暴力に屈したくない。

鴻上たちを殺した理不尽な暴力にだけは絶対に負けたくなかった。

アカネのような力はなくても無言の抵抗を俺は最後まで続けたい。


「もっと早く根をあげるかと思ったけど意外と根性あってびっくりしちゃった。ただのエサじゃもったいないかも」


唇に指を当ててキョーコが思案するようにタイチの目を見つめた。

やがて口を開くとその目は新しい遊びを考え出した子供のように無邪気に輝いた。


「あなた、けっこうカワイイ顔してるわよね。だから顔は傷つけさせなかったんだけどどうしてかわかる?」


「し、知らないよ…」


「あなたみたいな若くてカワイイ男の子ってね、高く売れるのよ。お金持ちのオバサマやオジサマに」


ぞっとした。

その先は言わなくてもわかった。

こいつ、俺に何をさせる気だ。

やめろ。

やめてくれ。

それだけは。

それだけは嫌だ。


タイチは床を這いずり回った。

もう、不様でも何でもよかった。

助かりたい。

帰りたい。

平穏無事な日常へ。


助けてくれ。

母さん。

助けてくれ。

父さん。


助けて。

アカネさん。


タイチの眼から一筋の涙がこぼれた。




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