15 決裂
その日は一睡もできなかった。
図書室で見た光景が目蓋の奥に焼き付いて離れなかった。
あれは確かに鴻上と間宮だった。
そんなはずはないと何度言い聞かせようと、それは自分をごまかすための言い訳にすらなりはしなかった。
眠れない夜は長すぎる。
気分をまぎらわせる為にタイチは鞄から銃を取り出すと分解して掃除を始めた。
ほんのわずかな埃で汚れてはいたものの普段は鞄に入れているだけの代物だ。
手入れもよく行き届いているし、大した時間もかからずに作業は終わった。
ニューナンブM60。
父の形見。
警察官であった父の。
こうして掃除をしてみれば新品同様の輝きを取り戻す。
父が持っていた頃からこの銃はあまり使われてはいなかったのだろう。
銃を鞄にしまうとタイチは机に向かってノートのまとめを始めた。
全く集中できないまま朝を迎えると朝食もそこそこに切り上げ学校へ向かった。
体は正直なもので自転車を転がし始めると少しだけ眠気が襲ってきた。
まじめに授業を受けるのも馬鹿らしいな。
今日は俺もいちにち寝てやろう。
こうしていつもと変わらない道を通り、いつもと変わらない風景を見れば昨日の事は悪い夢だったのだと思える。
そう、俺は現実に戻ってきたのだ。
今日もまたぼやきに耐えながら作業をする図書室での日常が待っている。
自転車を駐輪して近くの柱にチェーンをかけると(こうしないと確実に盗まれる)歩いて校門まで向かう。
いつも以上の騒がしさ。
校門の前に集まる人だかり。
喧騒が学校中を取り巻いている。
交通整備をするように校舎から飛び出してくる教師たちの姿も目に入った。
時計を見る。
8時27分。
始業ギリギリなのはタイチが特に普段と変わりなく登校してきたことを示している。
つまり、この眼を疑うような慌ただしさは異常事態だ。
いったい、朝っぱらから何なんだ。
思いながらも心臓の拍動は次第に早まり続けた。
赤髪の少女の小柄な姿が視界に入った。
安心したように駆け寄る。
でも様子がおかしい。
彼女も校舎の一角に真剣な眼差しで見入っている。
何なんだ。
何が起きているというんだ。
「おはよう、アカネさん。どうしたの?」
答えは帰ってこない。
アカネと同じように正面扉の片隅に眼を向けた。
衝撃が稲妻のように体全体を駆け抜けた。
虚ろな瞳をこちらに投げ掛けながら、そこには生首が台座の上にふたつ並べられていた。
右の首には左頬に切り傷の跡がまだ残っている。
間宮さん。
タイチは吐き気を何とか押さえこんだ。
左の首は考えるまでもなかった。
いつも掛けていた眼鏡は外され、きれいにまとめられたオールバックは崩れて額に前髪が落ちてはいたけれども、それは紛れもなく図書委員長・鴻上図書之介の首だった。
息が上手く吸えない。
気管が詰まるとはこんな感じなのだろうか。まるきりタイチは金縛りにあったかのように動けなくなった。
見たくないはずのふたりの首から視線が外れなかった。
舌の根が乾きだした。
目尻から熱いものが一筋こぼれおちた。
立て札が首の隣に下げられていた。
"この愚かなふたりはアイアンメイデンに逆らった為、処刑しちゃいました!学園内の平和を乱すいけない子はこれからもどんどん殺っちゃうからみんな安心してね! 恭子"
呆然とした。
頭の中に情報が上手く入ってこなかった。
図書委員のふたりが死んだ。
アイアンメイデンに殺された。
次第にその事実はタイチの胸をしめつけ始めた。
夢じゃなかった。
昨日の出来事はすべて現実で、あの時図書室の床に横たわっていたのも鴻上と間宮だったのだ。
そして俺は、それに気づきながらもどうすることもできなかった。
いや、むしろ逃げだした。
自責の念がタイチの意識を支配し始めた。訳もわからないまま、ふらふらと歩き出すとタイチは校門の鉄柵にしがみついた。体が震えている。
「タイチ?」
「ほっといてよ…」
「先に行くわよ」
「うん」
慰めの言葉も激励の言葉もない。
それが九条茜だ。
彼女は淡々と日々を過ごしている。
何があっても動じない。
その強さが羨ましいとともに薄情だともタイチは思った。
久しく感じたことのない感情がタイチの中に込み上げた。
喪失感と絶望。
そう、俺はこの町であまりにも人の死に慣れすぎていた。
誰が死のうと何が起ころうとそれは豪翼町という町の日常のヒトコマに過ぎないと割りきってきた。
たが今は違った。
親しい人間の死がここまで心の内側を揺さぶるなんて忘れていた。
いや、そんなことは考えないようにしてきたのだ。
とっくの昔に忘れてきた感情だったはずだ。
こんな思いをしたくないからこそタイチは過剰な人付き合いを避けてきたのだ。
人と関わらなければ誰が死のうが知ったことじゃなかった。
でももうそんな事なかれ主義の日々には戻れない。
「おい、桐原。授業、始まっぞ。そろそろ中入れ」
沼田だった。
平然といつも通りの言葉を投げ掛ける姿に普段と変わったところはひとつもない。
当然か。
彼にとってもこんなことは"日常"に過ぎないのだから。
「警察…」
「あ?」
「警察、呼びましょうよ、先生」
「何、バカ言ってんだ。今の警察が捜査なんかするわけねぇだろ。寝ぼけてんじゃねえぞ、桐原。頼むぜ、おい」
その言葉がタイチの中でぎりぎり壊れずにいてくれた感情の堤防を決壊させた。
「だったら何のための警察なんだ!どうして鴻上先輩は、間宮さんは死ななくちゃいけなかったんだ!」
「ここが豪翼町だからだよ。お前はそんなわかりきったことも忘れちまったのか?」
「忘れてません…ただ、少し疲れただけです」
タイチは沼田に背を向けると校門の外に出た。
もうこんなところにいたくはない。
こんな思いをするくらいならもう二度と誰とも関わりたくはなかった。
豪翼町。
この罪深き地で生きるのはあまりに過酷すぎる。
「おい、どうしたってんだ桐原!そんなぼーっと歩いてたらてめぇまで殺されるぞ!戻ってこい、桐原!」
沼田の声はもうタイチの耳に届いてはいなかった。
家に戻ると鞄を投げ捨てて部屋に籠った。
制服も脱がずにベッドに身体を横たえると疲労がどっと押し寄せる。
寝返りを打って向きを変えると開いたままの鞄の口からニューナンブの小さな銃身が顔を見せていた。
不快感が込み上げる。
そのままタイチはベッドから起き上がると鞄からニューナンブを取り出して机の引き出しの奥に閉まった。
再びベッドに戻ると布団を被って丸まった。こうしていれば何もかも忘れられる。もう何も考えたくはなかった。
とにかくタイチは身も心も疲れきっていた。
頭がおかしくなりそうだ。
「タイチ!いきなり帰ってきて何よ。学校休むの?調子悪い?ちょっと答えてよー」
母が部屋のドアをしきりに叩いた。
頼むから静かにしてくれ。
俺に構わないでくれ。
「ねー、反抗期?私、何か悪い事した?ねー、タイチ」
ドアを叩く音は鳴りやまない。
わずらわしい。
タイチはドアまで行くと少しだけ隙間を作って顔を覗かせた。
ふくれっ面の母が心配そうにこちらを見つめている。
「悪いけど、今日は構わないでほしい。別に母さんのせいじゃないから。そこは安心して」
「ホント?」
「うん。ごめん…」
それだけ言うとドアを閉めてもうタイチは口を利かなかった。
ひとりの時間が欲しかった。
どれだけ時間が経とうと心の傷が癒えるとは思えなかったけれど。
幼い頃の記憶に友人との別れは確かにあった。
もちろん死別。死因は他殺。
当時、幼稚園児や小学生ばかり狙う狂ったシリアルキラーがいて、タイチの友人たちもほとんどがそいつに殺された。
(そいつ自身の最後はいつものように包丁片手に小学校に忍び込んだところ、武装した児童数名に取り囲まれ袋叩きにされるというある種、自業自得なものだった)
でも幼い日のタイチに友人との別離が実感を伴うことはなかった。
豪翼町とはそういう場所なのだと刷り込まれただけだった。
でもいつの頃からだったろう。
周りの人間がひとり、またひとりと消える度にタイチは人付き合いをやめていった。他人の人生に介入することをやめた。きっとそれは無意識の内の処世術で、そうだったからこそ今日までタイチは無事に生きてこれたのだろう。
だから、今回だってまたそういう生き方に戻るだけだ。もう誰とも関わらず粛々と生きていくだけだ。それがこの町で平穏無事に生きるということだ。
そう。
俺はそうやってこれまで生きてきたはずじゃないか。
「タイチー!」
母だった。
構うなと言ったはずなのにしつこいな。
本当に反抗してやろうか。
「何だよ」
「友達よ、ガールフレンド」
「え?」
タイチが開けるより先に母が、いやその後ろから現れたアカネが部屋の扉を蹴りで開いた。
「くっさい部屋。男ってみんなこうなの?野蛮ね」
「アカネさん。どうしてここに?」
「先生、脅して住所聞き出したのよ。アンタ、いつまでさぼってる気?アンタが休んだらアタシは寝られないじゃない」
知らねえよ。
そんな事をわざわざ言いに来たのか。
非常識なヤツ。
そもそもこいつと関わってからロクな事がない。
「あんたもすみにおけないわねー。いつの間に彼女作ったのよ。はい、紹介する!」
妙に母のテンションが高い。
こんな変なヤツのどこが彼女に見えるんだよ。
だらしないし、刀背負ってるし、髪は赤いし。
勘弁してくれ。
冗談じゃない。
「ひどい顔。ちょっとツラ貸しなさいよ」
寝ぼけ眼で睨み付けるようにタイチの顔を眺めるとアカネがいきなり腕をつかんで、強引に身体を引っ張った。
「ア、アカネさん。どこ行くんだよ」
物凄い力でアカネの爪はタイチの腕に食い込み離さない。
全く逆らうことができないまま玄関へといざなわれた。
靴も履けないまま外へと連れ出される。
「行ってらっしゃーい!」
どこまでも呑気な母の声が後ろからこだまのように響いていた。
川原まで連れられるとようやく腕を掴んでいるアカネの指先から力が抜けた。
すかさずすり抜けると距離を取った。
「何なんだよ、いったい。こんなとこまで連れ出して。迷惑なんだけど…」
「アンタさぁ、そうやっていっつもいっつも面倒なコトからは逃げてきた訳?」
「何がだよ。何で君にそんな言われ方…」
それ以上、言葉が告げなかった。
射るような視線がタイチを貫いていた。
「何よ、今朝のあの態度。情けないなんてもんじゃないわよ、腰抜け」
剥き出しの敵意がタイチに向けられていた。普段のアカネからは想像もつかない威圧感。
彼女がこんな感情を見せるのは始めてだ。
それもそのはずだった。
今までアカネはどんな時だって、戦ってる時だって、真剣だった事はなかった。
どこかで気怠そうに事に対処しているに過ぎなかった。
そのアカネが今、自分からタイチの元を訪れた。そこに意味がないはずがない。
でも、もう遅すぎた。
もう俺は疲れてしまった。
人付き合いにも、この町にも、そして人生にも。
「この町じゃ目立っちゃダメなんだよ。誰かの目に付けば、それだけ死のリスクは大きくなる…だから先輩だって」
「そんな事は問題じゃないわ。アンタ、そこまでして生きる事にこだわってどうすんの?委員長、殺られてビビって逃げるのがアンタなの?」
アカネの言葉はタイチが最も触れてほしくない部分を抉った。
だったらどうしろと言うんだ。
立ち向かえと言うのか?
警察ですら見捨てたこの町において権力者に逆らえと?
嫌だ。
俺は死にたくない。
たとえそれが無様であろうと俺は生きていることにしがみついていたいんだ。
「悔しくはないの?」
「黙れよ。俺を君みたいなバケモノと一緒にしないでくれよ。戦いたいならひとりでやれよ。俺は、嫌なんだ。痛いのとか怖いのとか無理なんだよ。悔しくないかって?悔しいに決まってんだろ。だったら何だよ?それで俺が君と同じように戦えるっていうのかよ!テキトー言ってんじゃねえよ!」
「そう。わかったわ」
一瞬、アカネが寂しそうな表情を見せた。が、次の瞬間にはもういつもの眠そうな顔に戻っていた。
俺は何か取り返しのつかないあやまちを犯してしまったのではないだろうか。
頭の中をよぎる疑問をタイチは振り払った。
「あー、眠い。らしくないことしちゃったから眠いわ」
あくびをしながら去るアカネがタイチを振り返ることはもうなかった。




