14 鉄扇子(4)
自転車を転がし帰り道を急いだ。
最近ではいつものことになりつつあるけれどもすっかり遅くなってしまった。
日が沈もうとしている。
タイチはペダルを漕ぐ足元に一層力を込めた。
心臓が早鐘を打っていたがそれはきっと全力で帰り道を走っているからじゃない。さっきの戦いの緊張がまだ残っているからだ。
しばらく平穏だったのにアイアンメイデンもしつこい奴らだった。
タイチはもちろんのことアカネだって図書委員会だって相手が何もしてこなければこちらから喧嘩を売るような真似は絶対しないというのに。
そんな事を言ったって理屈が通じるような相手じゃないことは嫌というほどわかっている。
ただ少し、愚痴のひとつもこぼしてみたかっただけなのだが周りにいるのがアカネや鴻上ではまともな返答が帰ってくるとは思えずタイチのフラストレーションは溜まっていく一方だ。
それにしても文化祭はどうなるんだろうか。今のままだと大挙して押し寄せるアイアンメイデン達との乱闘に終始するような気がしてならない。
そんな事になったら最悪だ。
機関誌どころではない。
そもそも1部1000円の機関誌を誰かが買うとは思えなかったが。
まさか鴻上の家族が親戚一同総出で買いに来たりするのだろうか。
それはそれでアイアンメイデンよりも厄介そうな気がするので勘弁頂きたい。
昨年では考えられない忙しさにタイチはほんのわずかに疲れを覚えていたが、それよりも充実感のほうが上回っていた。
この2年、どう日々を乗り切るか。それだけを考えて生きてきた自分が今間違いなく日常に楽しさを感じている。
不思議な感覚だった。
この豪翼町に産まれ育ち、生きているだけでも奇跡なのだと言い聞かせてきたタイチにとって、もはや"楽しい"などという感覚は遠い過去に置いてきたものに過ぎなかったからだ。
文化祭、楽しみだな。
素直にタイチは思った。
馬鹿みたいに口上を述べる鴻上がいて、それを冷静にもり立てる間宮が側にいる。
荒れるアイアンメイデンを容易く追い返してぼやくアカネの眠そうな顔まで思い浮かぶ。
意外と悪くないんじゃないかな、そんな風に日々が過ぎていくのも。
タイチがもう来週に迫った文化祭を思い、頬を緩めているとポケットの中でスマートフォンが鳴動した。
間宮からだった。
ほんの今まで文化祭の事を考えていたのだ。
こんなに良いタイミングもそうそうない。
機関誌が完成したのだろうか。
それともまた鴻上が妙な話でも始めたのだろうか。
「はい、桐原です」
「き…桐原君。僕です、間宮です…」
震える声にはどうにも落ち着きがなかった。
「居場所、無くなっちゃいました。僕にとっての唯一の居場所が…これからどうしたらいいんでしょう?教えてください…僕はこれから…」
様子がおかしい。
声に焦りが感じられる。
通話口を通しているとは言え、話かけられているというよりも一方通行の話を聞かされていると言ったほうが正確だった。
明らかに常軌を逸している。
「間宮さん、今どこですか?まだ学校ですか?」
「委員長が…委員長が殺される…僕の、僕の居場所が!」
絶叫がタイチの耳に突き刺さった。
何が起きてるんだ。
それきり聞こえなくなった電話に耳を澄ますとかすかに女の声が聞こえた。
それも複数人だ。
アイアンメイデン。
思った時にはもう踵を返し、全力でペダルを踏んでいた。
学校に戻らなくては。
間宮との通話を終了すると急いで電話帳を開き直す。
アカネの名前を見つけるとすぐにコールした。
2回。
3回。
まだか。
4回。
5回。
くそっ、出ない。
諦めたタイチはスマホをポケットにしまうと後は一心不乱に学校へと自転車を飛ばし続けた。
いつも駐輪場代わりに使っているコンビニが眼に入ったが今に限ってはそんなところに止めて歩いている余裕はない。
立ち漕ぎのまま校門を抜けると校舎の前で自転車を乗り捨て駆けた。
腕時計を見た。
電話を貰ってから15分が経過している。
鞄を開くと黒光りする銃がすぐ手に取れる場所にある。
それを学ランに押し込もうとしてタイチは手を止めた。
こんなものをどうする気だ。
最悪の場合、俺はアイアンメイデンとやりあうというのか?
一瞬の逡巡。
深呼吸を大きく一度するとタイチは銃を鞄に戻して階段を駆け登った。
図書室の扉に手をかける。
生唾を飲み込むと喉の奥を流れていく不快さすら感じられた。
この先で何かが起こっている。
それは予感ではなく確信だった。
腕がまったく動かない。
不安と緊張がタイチを押し潰そうと迫ってくる。
駄目だ。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
扉を引いた。
爆音が耳に飛び込んできた。
音楽は持ち込まれた大きなスピーカーから流れているようだった。
大音響のクラブミュージック。
地を震わす音の波に胃の奥がきゅっと引き締まった。
部屋の中央では女が踊っていた。
髪を振り乱し、鉄扇を広げ、打ち掛けを翻し、女は狂ったように躍り続けていた。
頭から足元まで全身を血で濡らし、リズムに合わせて女はひたすらステップを刻んだ。
何だこれは。
不意に襲ってきた恐怖にタイチは足がすくんだ。
女がこっちを見た。
目と目が合った。
女はタイチを認めると楽しそうに笑った。
悪寒がした。
見慣れた図書室がまるで別世界だった。
"居場所、無くなっちゃいました"
間宮の言葉が甦る。
そう、確かにここは我々の知る図書室では無かった。
逃げ出したくなる気持ちを抑え、タイチは周囲を見渡した。
場を盛り上げ、一緒に踊っている黒いジャケットの女達がいる。
と言うことは打ち掛けの女はアイアンメイデンの総長・鉄扇子キョーコだろう。
ますます背筋が寒くなる。
鉄扇子キョーコだって?
タイチは自分の楽観にようやく気づかされた。
豪翼町を支配する田所弓彦。その愛人であるキョーコが今さら劉傑学園のいざこざごときに関わってくることなど無い。どこかでそう思っていなかったか。
だがそれは甘えに過ぎなかった。
欲しいものは力ずくで奪う。
それがこの町の唯一と言ってもいい掟ではないか。
うつぶせに倒れている男子生徒の姿が眼に入った。
背中を大きく切り裂かれ多量の血を流したその生徒は既に生きているとは思えなかった。
頭からも流血している。腕には握りしめたままのスマートフォン。
見覚えがある背格好。
いや、そんなはずはない。
タイチは浮かんだ考えを振り払った。
だがそれは上手くいかなかった。
もうひとり、うつぶせの生徒の奥にも学ラン姿の男子生徒が倒れていたからだった。
今度は考えるまでもなく、明らかにその生徒は死んでいた。
首から上がその身体から欠如していた。
肩口から腰まで袈裟懸けに斬られた痛々しい傷跡が嫌でも視界に鮮明に映る。
生真面目そうに第一ボタンまで閉められ、きっちりと着こなされた制服。
そしてタイチよりも頭ひとつ以上は大きいと思える長身。
こちらにも見覚えがあった。
でも、そんなことがあるはずはない。
さっきまでここでは図書委員の会議が行われていて、来週には文化祭が始まる。
何も変わらない日常が明日もまた来る。
そうだ。
何も変わらないさ。
何も。
打ち掛けの女がこちらに近づいてきた。
踊りながらタイチへの距離を詰めてくる。目の前に立つとはっきりと笑顔を見せた。
「桐原太一くん。九条茜ちゃんは一緒じゃないのかしら?」
女が鉄扇を開くとまだ乾いていない血が飛び散ってタイチの顔に降り掛かった。
タイチが冷静でいられたのはそこまでだった。
身体を翻すと全力で走った。
図書室の扉を勢いよく開き、廊下を転げるように逃げ去った。
途中、足がもつれて派手に転倒した。
顔から地面に叩きつけられて唇が切れたがそれに動じるような理性も判断力ももはやタイチにはなかった。
ふらふらと上体を起こすと再び駆けた。校舎を出るとジャケットの女とぶつかった。
「てめぇ、気を付けろ!死にてえのか!」
怒声が後ろから聞こえた。
構わずに自転車に跨がると一目散に家まで飛ばした。
その間、タイチは一度も振り返ることはなかった。
図書室をダンスホールにするというキョーコのプランは彼女が劉傑学園に戻ってきてわずかに1日で達成された。
マリアが一服を終えて、疲れた身体を引き摺り、散々な眼にあった今日の襲撃をいかに伝えようかと考えながら図書室の扉を開いた時、すでにキョーコのダンスライブはクライマックスを迎えようとしていた。
観客は見知ったアイアンメイデンの下っぱ連中ばかりだったが会場に彩りを加えるように真っ赤な鮮血が床や本棚を染め上げていた。
血と狂気のショータイム。
キョーコが身を翻す度に飛沫が上がる。目を奪われた。
暴力だけに生きてきたマリアの眼から見てもキョーコのダンスには心を動かされるものがあった。
己の心の奥に潜む欲望を引き出されていくような気がした。
情熱を燃やし、命まで燃やし尽くすかのようにキョーコは踊る。
踊っているときのキョーコはまるで別人だ。
有無を言わさぬ説得力。
漂う気品。
豪翼町の王女にとってダンスこそがその本領なのだ。
スピーカーから流れる音楽が止まるのに合わせてキョーコは鉄扇を閉じると顔にかかった前髪を指で払う仕草を見せた。
「来週だったよね、文化祭。ここにみんなを呼んで派手にパーティするのもアリじゃないかしら?ね、マリア」
「そうですね」
「弓っちも招待しなきゃ。これから忙しくなるなぁ」
両腕で自分の肩を抱きながらキョーコが頬を赤く染めた。
とろりと甘美に溶けた眼差しが妖しくマリアを見つめる。
「ところでマリア。さっきタイチくんがここに来たわよ。元気に走っていったけどどういうことなのかな?そっちはあなたが何とかする手筈でしょ?」
マリアは生唾を飲み込んだ。
桐原太一。
いつも九条の側に腰ぎんちゃくのようにへばり着いている情けないボンクラ男。
黙って下校すればいいものの何を思ったか引き返してきたらしい。
しかもよりによって図書室に戻ってくるなんて。忘れ物でもしたのだろうか。
キョーコが鉄扇をポンと手のひらの上で鳴らした。
思わず背筋が伸びる。
ちくしょう。
さっき肩をぶつけられた時に始末しておけばよかった。
あのボンクラの首だけでも、何も持ってこないよりはキョーコの心象は良かったはずだ。
「いや、キョーコさん…あの九条茜ってのは強すぎますよ…あたしらで何とかなる相手じゃ…」
鉄扇がマリアの頬を薙ぎ払った。
口の奥で血の味が広がる。
どうやら奥歯が砕けたようだった。
ダンスの修練がそうさせるのか、キョーコの手首は実にしなやかに動く。
軽い動作で恐ろしく重い一撃を放つ。
マリアは崩れるように膝を着いた。
「そっか。アカネちゃん、強いんだ。私とどっちが強いかな、マリア」
膝を折ったマリアの腹部に鉄扇の先端がめり込んだ。
強い異物感に襲われ思わずマリアは胃の中の物を全て吐き出した。
息切れがする。
身体を地に横たえると、ぐるぐると回る視界に耐えかねて眼を伏せた。
「どっち?」
楽しそうなキョーコの声。
「キ、キョーコさん…」
「よろしい」
その言葉でやっとマリアはキョーコの折檻から解放された。
キョーコにとって暴力はコミュニケーションの手段だ。
愛らしい顔に満面の笑みを浮かべ呼吸するようにキョーコは皆を打つ。
アイアンメイデンの幹部とは詰まる所、どれだけ多くキョーコの"愛"を受け止めてきたかによって決められていると言っても過言ではない。
「青い顔してる。ごめんね、マリア」
打たれて痣のできた頬を撫でながらキョーコはそっとマリアの唇に口づけをした。
きつく閉じた歯の隙間を這うようにキョーコが舌を動かした。
大きく背がのけぞり、再びマリアは膝を折った。
ただし今度は快感から。
唇と唇が離れると唾液が糸を引いて床に落ちた。
「あなたをこんな目に合わせたアカネちゃんにはきっちり落とし前を着けさせてあげる」
「でも、どうやって…赤毛はあんまりあたしらには興味なさそうでしたが」
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。焦らなくても必ずアカネちゃんは私を放っておかないわ」
自信たっぷりに微笑むとキョーコはスピーカーのボリュームを上げて音楽を流し、また自らの世界へと没入していった。




