13 鉄扇子(3)
キョーコの周りの取り巻きたちがまずは鴻上に向かって一斉に攻撃を仕掛けてきた。
辞書を構えると鴻上は腰を落としてひとりひとりの動きを見極めていった。
全員大したことはない。
迫ってくる女たちを軽やかにかわすと鳩尾、こめかみ、脊椎と急所に向けて一撃を加えていく。
我が知識は伊達ではないのだよ。
書物から得た情報は血肉となり鴻上の中で息づいている。
解剖学の本から得た人体急所の位置と格闘技の本から得た戦う術。
それらは意識する事もなく自然と鴻上の体を通して必要な時に溢れ出す。
この程度の相手に負けるはずもない。
「さあ、次に我が知識のハンマーに叩き潰されたいのは誰かな?自分でかかっては来ないのかね?鉄扇子キョーコ」
鴻上が煽ってもキョーコは涼しい顔で微笑むばかりだった。
読めない女だ。
飄々とした態度とは裏腹に眼差しは鋭い。
一分の隙さえも見逃す気はないのだろう。
「まだまだよ。その程度じゃまだ私は燃えないの。もっとよ、もっと楽しませて」
キョーコがあおいでいた扇を鴻上の方へと向けると再び取り巻きの女たちが駆け出した。
何度やっても同じことだ。
真っ直ぐ近づいてくるひとりの顎を打ち上げると、身体を反転させ遠心力を乗せた一撃で続くひとりを床へと沈める。
その時にはすでに後続の足は鈍り始めていた。
その隙に左右から挟むように迫るふたりの脇腹を撃ち抜き、キョーコへと向き直った。
笑みが消えている。
周りを守っていた取り巻きたちは全員、地に伏せた。
あとはお前だけだ。
勢いを乗せた一撃を頭上から鴻上は見舞った。
鉄扇を閉じると紙一重でキョーコはそれを受け止め、一歩後ずさる。
微妙な間合いが鴻上に追撃を思い止まらせた。
「情熱的ね。興奮してきちゃった」
キョーコが顔を赤らめて身体をよじらせた。
色情魔が。
気分が悪くなる。
構えた辞書を胸の位置まで引き上げると鴻上も一歩後ろに下がった。
鴻辞苑の縦の長さは23.5㎝。
閉じたままのキョーコの鉄扇よりも僅かに長い程度。
ふたりの獲物の間合いはほぼ同じと考えて良かった。
キョーコがどれくらいの実力を秘めているのかはわからない。
だがこれまで退けてきたアイアンメイデンの幹部連中の実力からすれば一筋縄でいかない相手であることは間違いがないだろう。
ここから先は迂闊には踏み込めない領域だ。
距離にしては数歩だが鴻上が今立っているこの位置が一足跳びで斬りかかれる間合いのぎりぎり一歩外だった。
しばらくはこの状態が続くはずだ。
じりじりと緊張感がせり上がってくる。
顎の先から汗が一筋流れた。
窓の外の夕日が地平線に沈もうとひときわ輝きを増した。
宵闇が訪れる。
キョーコが動いた。
打ち掛けの中に手を差し入れると何かを鴻上に向けて投擲した。
反応が一瞬遅れた。
左の大腿部を貫いたそれは髪止めに使うようなかんざしだった。
バランスを失った身体が崩れる。
キョーコが地を蹴った。
しなやかに鞭打つように放たれた蹴りの一撃が鴻上の顔面を捉える。
地を滑った身体がカウンターにぶつかって止まった。
眼鏡が外れて視界がぼやけた。
「委員長!」
間宮の叫び声。
顔のすぐ脇から光が飛び込んできた。
左腕を持ち上げる。
辞書の角に光がぶつかると衝撃が腕を痺れさせ、感覚を奪う。
そのまま鴻上は再び地面を滑った。
落ちた眼鏡をかけ直すと千切られた辞書の紙が宙を舞っているのが目に入った。
「コンタクトレンズにしたら?素顔のほうがイケてるわよ」
「君の指図は受けんよ」
何とか体勢を立て直す。
息切れがひどい。
全く散々な目にあう日だな、今日は。
日頃の運動不足がこんな時に祟るとは。
さすがに鉄扇子キョーコは強かった。
これまで戦ってきた相手とは比べ物にならないほどに。
鴻辞苑がバラバラになってしまった。
また新版を作らなければ。
今の鴻辞苑は父親が編纂したものだった。鴻上家の当主は代々"図書之介"の名を受け継ぎ、襲名した時から終生、言葉を極める為の永い旅路を始める。
鴻上は15の時、高校進学と共に異例の早さで家督を継いだ。
父は鴻上の若い感性と明晰な頭脳に鴻上家の明日を託した。
鴻上が劉傑学園に進学した理由はただひとつだった。
豪翼町という血と暴力の町において、その象徴とすら言えるこの学校ならば自分の知らない世界が、自分の知らない言葉が日夜生まれ続けているのではないかと考えたからだった。
今まで誰も作ったことのない全く新しい辞書を。
古き言葉から今日、この瞬間に生まれたであろう新しい言葉まで。
自分が作る辞書にはそれら全てが網羅されてなくてはならない。
だからこそ鴻上図書之介は名門鴻上家には全くそぐわないここ劉傑学園への進学を決意したのだ。
勝ち誇った顔でキョーコが鉄扇を弄んでいる。
その油断が命取りだ。
鴻上は学ランのポケットに手を忍ばせた。
小さなペーパーナイフを握った。
キョーコの細い首筋に目をやった。
この小さなナイフでも鎖骨の間に滑り込ませることが出来れば一撃で勝敗は決するはずだ。
本意ではなかったが鴻上はペーパーナイフを握る手に力を込めた。
間合いを詰めると両手でナイフを握りキョーコへ向けて突きの姿勢をとった。
首筋を狙った。
喉元の少し下。
鎖骨の間に窪みが見える。
焦点を定める。
いや、もう少し下か。
突き入れた刃はしかし、彼女の細い首を捉えることはなかった。
その前に鉄扇の厚い身幅に受け止められ、空しく鴻上の手からこぼれ落ちた。
「見え見えよ、図書っち。殺るときは殺る。ためらっちゃダメよ。例えばこんな風に」
キョーコが鉄扇を開くと袈裟懸けに鴻上の身体を切り裂いた。
のけぞった肢体は後方へとよろめき再度、鴻上はカウンターに頭を強打した。
机上に残った未処理の書類が束になって降りかかったがもはやそれをわずらわしいと思う感覚さえ鴻上には残されていなかった。
斬られた傷口が火を吹いているように熱を持ち始めていた。
にも関わらず腹部からは底冷えするような寒さが身体全体を駆け上ってくる。
指先から力が失われていく。
死ぬ。
鴻上は直感した。
今、自分の身体を支配している感覚が死なのだと鴻上は本能的に察知していた。
「良い表情。うっとりしちゃうわ」
キョーコが鉄扇の先で鴻上の顎を押し上げながら言った。
「そろそろ降参かな?じゃあ図書っちの口から聞かせて。この部屋は誰の物?」
"はい、あなたの物ですキョーコ様。今日からこの図書室はダンスホールとして生まれ変わります。どうかパーティの際は私もお呼び下さいませ"
とでも言えば満足なのだろうか。
笑えてくるね。
もっとも、もはや満足に口を聞けるような状態でもなかったが。
「だんまり?じゃあもう少し私と遊ぼっか」
キョーコが合図すると意識を取り戻していた何人かの内のふたりが鴻上の両脇に手を差し入れて無理矢理立ち上がらせた。
傷口から溢れだした鮮血が床を叩いたが、それでも何とか鴻上は自分の身体を自分で支えた。
無様な姿は見せられん。
それが敵の眼前ならば尚更だ。
真っ直ぐキョーコを見据えわずかに鴻上は笑って見せた。
"私を屈服させることはできんよ"
そう言ったつもりだった。
まだ終われない。
こんなところで終わるわけにはいかない。
力を失った身体が舞いを舞うように前後に揺れる。
全身を貫く虚脱感に鴻上は身を任せ、 そのまま少しだけ想いを馳せた。
旅路はどうやら終着駅へと向かい始めたようだった。
これから無限の言葉を紡ぐための新たな旅路へとおもむかねばならない。
まぶたを閉じた。
やっと静寂が訪れる。
しばらくはこのまま穏やかな時間が続くのだろうか。
委員長が殺される。
間宮は痺れた身体を引きずり、這うようにしてポケットからこぼれたスマホを何とか自分の方へと引き寄せた。
鴻上が戦い始めてからキョーコ達の目線は間宮から外れていた。
今なら自由に動ける。
助けを呼ばなくては。
誰か。誰でもいい。
助けてくれ。
このままでは委員長が死んでしまう。
図書室が自分のまったく知らない場所へ変わってしまう。
間宮は室内をひたすら這いずり回った。
奴らから身を隠さなくては。
まずは安全圏を確保しなくては。
スマホをフリックした。
指先が震えてなかなか上手く操作が出来なかった。
連絡先を手繰っていく。
誰か呼ばなくては。
委員長が殺されてしまう。
誰か。
助けてくれ。
居場所が、やっと見つけた僕の居場所がこのままではなくなってしまう。
誰か。
誰か。




