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歴史を知る

作者: 花岡巳殿

 反抗期は誰にだってある。

 高校に上がった途端、幸乃にもそれは突然やって来た。

 幸乃(ゆきの)は男子校に通う、ごく一般の男子高校生で、他の家庭との違いは何もない。しいて言うならば、母親の経歴だろうか。

 幸乃の母親は有名な国立大学を出ていたが、就職はせず、大学卒業後は親と縁を切り各地の歴史を巡るために放浪した。そしてフラッと寄った地域でフラッと結婚し、今に至る。都会と比べればド田舎である地域だが、母親のいた所はもっと田舎であったらしい。

 国立大を出ておきながら何故就職せず、その上何故親とまで縁を切り、歴史を巡る旅に出たのか。疑問は抱いていたが、反抗期に差し掛かるにつれ、母親に対し「この人は馬鹿なんだ、変人だから他の人が当たり前だと思うことをしなかったんだ」と勝手に決めつけ境界を張り、関わるのが億劫になって自然と母親のことなど気にもならなくなった。

 幸乃が知る母親の情報は“都会の国立大学の、歴史学科を卒業した変な人”程度である。客観的に見れば普通の歴史研究家のようなものであるが、息子視点からすると“自分の常識を子供に吹き込もうとする五月蠅い教育ママ的存在だった”

 幸乃の母親は何かにつけて、幸乃に歴史の知識を教えた。

「昔の人はね、木と石で火をおこしたり猟をしたりしたのよ」

「昔の人はね、着物を何枚も重ね着してお洒落をしたのよ」

「昔の人はね、沢山勉強をして――」

「昔の人はね、……………――」

 小学校の頃からうんざりだった。

 幼稚園時分から聞かされていた昔話だったり偉人伝だったり。幸乃が興味のないことを、母親は教養した。小学校高学年になると、母親が歴史の話を始めると、決まって外へ遊びに出かけた。

 それでも母親は歴史の話を止めなかった。

 それが、高校になると今まで以上にひどくなる。高校二年になると歴史の授業が必修になるのだ。

 高校一年の終盤になると、来年の選択教科の調査が行われる。幸乃の高校は前期後期制で、歴史の授業は前期で日本史、世界史を履修し、後期は二つの内どれかを必修していればよいということだった。

 迷わず幸乃は世界史を選択するつもりだった。世界史の方がカタカナばかりで覚えやすい上、日本史は母親の専攻であり子供の時に嫌と教えられたトラウマがあるので避けたかった。

 けれど、選択調査票を家に持って帰り勉強机に置いていると、母親に勝手に世界史から日本史に書き換えられ、幸乃はそれに気づかず提出してしまった。

 当然喧嘩になった。

 調査結果を手に家へ帰り、母親の前に荒々しくそれを差し出した。何度も居間の机を叩きながら母親を罵倒し続けたが、普段はひょうきんで、快活に笑い歴史を語るはずの母親は、無表情で幸乃を見続けた。

 幸乃が母親の異変に気づき、怒鳴るのを止めると、母親はフッと息を吸い込み、言った。

「あなたたちのような若い人たちこそ、自分の国の過去を知っておく必要がある」

 その言葉に、幸乃はうんざりした。口を開けば歴史歴史歴史……真摯になり何を語るのかと思えば自分の国の過去。結局この人は息子の意志も尊重しない、歴史しか見えていないどうしようもない馬鹿なんだと、腹が立って調査結果の紙を破り丸め母親に投げつけた。

 高校二年の後期に入り、渋々日本史を履修し始めた幸乃だが、案の定授業の内容は頭に入ってこない。誰が室町幕府を開いて、誰が享保の改革をしたかなんて、今を生きる自分には関係ないことだろうと、幸乃は躍起になりながら、表題だけ書かれたノートをリュックの奥底に眠らせた。

 母親は夕飯の時には決まって日本史の話をしてきた。

「今日はどこの話をしたの? 古代? 室町? 鎌倉?」

 決まって幸乃は無視した。それでも母親は毎日同じように語り掛けて、勝手に大好きな歴史の話をしていた。

「鎌倉時代で絶対覚えていかなければいけないのはね――」

 歴史を聞きながら食べる焼き魚や味噌汁は美味くなかった。大半を残した。母親は何も言わずに幸乃が残した夕飯にラップをして冷蔵庫にしまっていた。

 授業を聞いていなくても、学期末の試験は受けなくてはいけない。数学に国語、英語と言った大学に必要とされる科目は必死に勉強をしたが日本史はノートすらとっていなかったから、勉強のしようがなく、教科書すらどこかに行ってしまっていた。

 目標にしていた大学の入学試験には数国英とあと一つ、選択科目がある。大体の人間は地歴を選んだ。それの方が点数が取りやすいと言って。だが幸乃は科学を選択する気でいた。

 日本史の試験当日、日の昇らないうちに家を出ていこうとする幸乃を目聡く見つけた母親は、赤いタータンチェックの巾着で包まれたお弁当と一冊のノートを差し出した。ノートの表紙には「テスト対策ノート」と書かれている。

 玄関の扉に手をかけながら怪訝にそれを睨みつける幸乃に、母親は小首を傾げてにんまりと笑った。

「今日、日本史のテストでしょ? 頑張ってね」

 限界だった。

 母親と会話した記憶で、歴史以外のことが一切記憶にない。それよか母親との会話は一年近く途絶えていた。

 自分の望む子供に作り上げようとしている母親の教育。幸乃に自分の好きな歴史を教え、自分が出来なかったことをやらせようとしているようだと感じた。学者か歴史の先生か。歴史学科を卒業しても一般企業に就職する人が多くいるのに、それをせず、放浪を続け歴史に執着し続けた母親の操り人形に、幸乃はなりたくなかった。

 差し出されたお弁当とノートを、幸乃は受け取らず叩き落とした。

「いい加減にしろよ。何かにつけて歴史歴史って。俺にそんなに歴史勉強させてどうするっていうんだよ。あんたの出来なかったことでもさせる気か? 発掘か? 文献調査か? 歴史なんて、あんたのせいで昔っから大っ嫌いなんだよ!」

 巻いていたマフラーを巻き直し、外に出る。太陽がほんのり顔を覗かせ、辺りが薄紫色に明るくなっていた。

 白い息を吐きながら駆けた。赤色の信号を無視し、横断歩道を渡って膝をついて息を吸った。

 冷たい、十二月の空気が肺に入る。

 フッと、母親が持っていたものを叩き落とした時の、物を失い震えた手が思い出される。妙に鮮明に思い出され、見ていないはずの母親の顔が安易に想像できて、後悔した。

 だが、当然の報いだと言わんばかりに幸乃は舌打ちをし、記憶を消す。自分の息子を自分の好きなことで染めようとした報いなんだ。

 一息つき、立ち上がったところで背後から駆ける音が聞こえた。田舎のせいか、車通りは少なく、自然の音がよく聞こえる。

 鳥の囀り。

 風の吹く音。

 遠くで誰かが扉を開ける音。

 振り返ればカーディガンにロングスカート姿の母親が、弁当を掲げて駆けてきていた。笑顔を浮かべ、幸乃を呼び止める。

「お弁当だけでも持って行きなさいな」

 掛け声をかけながら駆け、横断歩道前で立ち止まる。幸乃は母親の姿を一瞥すると声もかけずに踵を返した。

 だが、耳に不快な音が響く。田舎の朝には珍しい、クラクションの音。

 道路の先、山の向こうから昇る陽の光に目を眇めながら音の姿を探した。

 煌々とした光から見つけたのは一台の乗用車。遥か向こうから目にも止まらぬ速さで走ってきて、幸乃が咄嗟に母親を見た時には、母親の姿はなかった。

 車はクラクションを鳴らしながら、道路前の民家に突っ込んでいた。

 止まないクラクションを聞きつけ、わらわらと住人たちが家から出てくる。

 唖然と状況を見回った人々はボンネットが大破した車に乗る男の人の姿を確認し、ガラスの割れた窓から声をかけていた。反応は一切なかった。

 車の突っ込んだ家からも人が出てくる。その人が、車の下敷きになっていた人を見つけ、悲鳴を上げた。

 幸乃は、横断歩道の前で立ち尽くしてその光景を見ていた。

 横断歩道の青信号が点滅して、赤に変わった。




 車を運転していたのは男の人で、運転中に発作が起こり、意識を失ってしまったらしい。そのまま前に倒れ、クラクションを鳴らしたまま民家に突っ込んだ。

 突っ込まれた民家に住んでいた人は就寝中で、皆が二階にいて被害はなかった。この事故で亡くなったのは運転手の人と、横断歩道前にいた幸乃の母親だけだった。

 和風家屋の玄関や雨戸などを取り外し、その晩には通夜の準備が出来ていた。出勤前だった父親は妻が亡くなったことを知ると、顔には出さず、平然と通夜の準備を進めていた。だが時々葬儀にやって来た人が語る母親の昔話などを聞くと、用を足しに行くと言い、台所に立ってこっそり嗚咽を漏らしていた。

 事故現場に警察や救急車がやって来る前から、雨が降り始めていた。地元警察が見るまでもなく、ただの事故であることは火を見るよりも明らかで、場はすぐに片付けられた。

 幸乃の家に帰って来たのは綺麗に化粧まで施された母親の体と、血の染み込んだ巾着に包まれたお弁当だ。

 棺に入れられた母親の顔を、幸乃はまだ見ていなかった。

 山に住む住職がお経を読み上げる中、焼香が進められる。襖が取り除かれいつもより広くなった畳部屋の隅、幸乃は父親の隣に座って焼香客に脳天を見せ続けた。

 喪服で葬儀に参列する人の中には、親戚などに交じり幸乃の学校の人間もいた。

「誰だ、こんな日に赤い傘なんて持ってきた奴は」

 部屋の外から、聞こえた声に幸乃は顔を上げた。葬儀を邪魔しないよう声を小さくしていたが、あまりにも不謹慎な行動に憤っている声色だった。

 何を思ってか、幸乃は葬儀そっちのけで部屋の外に出た。父親も止めなかった。

 襖を開け、玄関を見ると、確かに傘立てには黒やビニールの傘に交って赤い傘が栄えていた。一番目立つ傘の色だが、一番短く見える。

 小さく、すぐに折れてしまいそうな、か弱い傘。だがその色は、幸乃の殺伐としたモノクロの心と視界にとっては強く頼もしい存在であり、気が付けば土間に下りてそれを手にしていた。

「それ和日(かずひ)の!」

 手にしていた傘は、力任せに奪われ、我に返った幸乃の視界に彩色が戻る。足元を見下ろせば、小学校低学年ぐらいの女の子が、傘を抱きしめ幸乃を睨んでいる。

 学校指定の黒い制服を着ており、丸々とした目で、少女にとっては化け物並に背の高い幸乃のことを睨み上げていた。

「こら和日!」

 声を落とした怒鳴りが葬儀部屋から慌てて出てきて、少女の頭を叩く。少女の声が葬儀中に響いたのだろう。

 痛さに悲鳴を上げそうになった少女の口を、怒鳴った男の人が慌てて塞いだ。

「ごめんね、駄目だって言ったんだけど、どうしても赤い傘がいいって言ったから……」

 喪服を着た男の人は、幸乃が赤い傘を不謹慎に思い、腹を立てたと勘違いしたのか、申し訳なさそうに後頭部を掻いた。

 顔に皺一つない男の人は、この女の子の父親のようで、口を塞がれた女の子は「離せパパ」と声にならない声で叫んでいた。

「…………ところで君、真咲のお子さんかな?」

 男の人が柔和な笑みを浮かべ幸乃に訊ねる。一瞬、誰のことかと思考が停止したが、母親のことであると理解すると同時に頷いた。

「そうか、よく目元が似ているよ。……僕はね、彼女と大学の同級生なんだ。真咲の奴、就職もしないで音信不通になっていたけど、こんな大きなお子さんがいたなんて、驚きだよ」

 はは、と笑った男の人は笑顔のまま幸乃を見ていた。まじまじと視線を投げかけられ、耐えられず幸乃が視線を逸らすと、男の人が失笑した。

「彼女は歴史のことばかり話して五月蠅かったでしょ、昔からそうなんだ」

「……俺は、歴史嫌いです」

「だろうね。そんな雰囲気かもし出してるよ。……あと、今すっごく後悔してることがあるって顔もしてる」

 面食らい、幸乃は顔を顰めた。平然でいた心が、突如ざわめきだす。腹の奥底にしまった“何か”が熱を帯び、喉まで上って来た。

 男の人は笑みを消して幸乃を見る。

「後悔は引きずりなさい」

 幸乃は息を呑んだ。言葉の意味がわからない、と瞬きを数回繰り返す。

「過去は引きずるな、って人は言うけど、君のお母さんはそうは言わなかった。よく研究でうまくいかず落ち込んでいた僕に、君のお母さんがそう言ったんだよ。……過去を受け入れて、成長しなさいってね」

 男の人は娘の口から手をどかし、大きな手でそっと頭を撫でる。少女も大人しく撫でられていた。

「君はきっと、優しい人間になれるよ」

 じゃ、電車があるから、と男の人は幸乃に一礼し、靴を履いて自身の傘を探していた。その間、少女は傘を抱いたまま幸乃のことをじっと見上げていた。

 黒々とした目は揺らぐことなく、幸乃の曇った目を見つめる。やはり耐えられず、幸乃は視線を逸らした。

「あのね、赤はね、真田幸村の色なんだよ?」

 少女の突如発した言葉に、幸乃は目を張った。そんな人物の名前が、どうしてこんな歴史にもまだ触れたこともなさげな幼い少女の口から出るのか、と。歴史を嫌う幸乃とて名前くらい知る人物のことを、少女は幸乃から目を逸らさず語りだす。

「真田幸村はね、強い人なんだよ? 自分のお友達がね、皆負けちゃっても自分だけ逃げたりなんてしなかったんだよ? そんな大人にね、和日はなりたいの」

 傘を見つけた男の人に名前を呼ばれ、少女はお気に入りの赤い傘をさして、出て行った。その姿は大雨の中で見えなくなる。じゃあね、という少女の声は微かに聞こえた。

 幸乃は胸の上に手を置き、騒ぐ何かを抑えようと深呼吸した。

 男の人の言葉と、少女の言葉は、歴史を嫌う幸乃に、確実に何かをわからせたが、その時は何なのか、わからずにいた。

 通夜を終え、翌日葬式、火葬を終えてしばらく、幸乃は学校を休んだ。試験は受けられず、見込点が幸乃の成績となる。

 喉が渇いて冷蔵庫を開けた幸乃は、ラップのされたものが冷蔵庫に入れられているのに気付く。手にして出してみると、それは母親が死ぬ前日の、幸乃の夕飯の残りだった。

 いつものように、母親の歴史話につき合わされ、美味くないと残したものが丸っと残っていた。気づけば今まで幸乃が残した夕飯もラップをされ、冷蔵庫にしまわれていた。だがそれの使い道を、幸乃は知らない。

 冷蔵庫を開いたままでいると、機械音が響く。一向にやむことのない音に、有休をとり自室で休んでいた父親が台所までやって来た。呆然と自分の食べ残しを見ていた幸乃に、父親は「ああそれな」と呟く。

「お前の夕飯の食べ残しはいつも母さんの次の日の昼飯になってたんだよ」

 え、と振り向いた幸乃に、父親は呆れたような、けれど悲しげに目を細めて「ケチっぽいだろ」と言う。

「でもちゃんと理由があってな。昔の人はよく食べ物に苦労してただろ。ほら、お前も飢饉とか米不足くらいなら聞いたことないか。ああいった過去があって死んでいった人が沢山いるのに、今の人間は食べ物を無駄にすることを止めない、むしろ深刻な食糧不足が世界のどこかで起きているのに、って言って、せめて自分は食べ物を無駄にせず、自分が廃棄しなかった分はどこかで必要とする人のもとへ行けばいいなと考えていたんだよ」

 ラップのされた皿を直視する。中身は一欠片だけ手の付けられた形跡のある鮭の塩焼きだ。

「なぁ幸乃。今更だけど、母さんはお前に歴史を勉強させたかったんじゃ、ないと思うんだ」

 父親は居間に座る。テレビ台の下から事故当時、お弁当を包んでいた巾着が綺麗に折りたたまれた状態で取り出された。

「歴史の勉強は、俺たちにいいことも沢山教えてくれるけど、悲しいことも沢山教えてくれる。いいことも悲しいことも全て知った上で、過ちは繰り返さず、将来のお前たち自身の生き方に繋げてほしいと母さんは思ってたんじゃないかな」

 台所で立ち尽くす幸乃を振り返った父親は、巾着を見せて、苦しげに笑みを作る。

「この巾着も、母さんにとっては過去の過ちを覚えておくためのものなんだよ。お前が小さい時、一瞬目を離したすきに野良犬に噛まれて大怪我したんだ。その時にこの巾着でお前の手当てをしたんだけど、そんなもので弁当包むなんてな。けどおかげで、以来母さんはお前のこと怪我させないように、馬鹿みたいに見張ってたな」


『過去は引きずりなさい』


 男の人が言っていた言葉が、母親の声で再生され、通夜の時から喉に痞えていた熱が、一気に涙腺へと辿り着く。

 母親が幸乃に歴史の勉強を強制したのは、自分のためではなかった。過去の過ちを受け入れ、そしてそれを再度起こさせないようにすることを教えようとしていたのだ。


『自分の国の過去を知っておく必要がある』


 繰り返された幾つもの悲しい出来事。それがなければ時代は発展しなかった、と言われてしまえばそれまでだが、繰り返されていい事態ではない。この過去を知ってからこそ、今を生きる自分たちは後悔を繰り返さずに時代を進め生きていける方法が見つけ出せるのだ。


『あなたはきっと、優しい人間になれる』


 過去を知り、悲しみを知った人は同じことを繰り返したくないと願い、新たに考えを巡らせ努力する。

 歴史はそんなことを教えてくれるのだ。

「父さん、この残り、食べても、いいかな」

「ああ、食べなさい」

 父親は巾着を置いて部屋を出た。あの巾着はきっと、これからは幸乃にとって過去の過ちを覚えておくためのものになる。

 鼻がつまり、呼吸もままならないまま、ラップを開けた。箸も使わず手でそれを取ると、そのまま口に放り込む。

 冷えて固まっており、塩気の強い味がする。お世辞にも美味いとは言えない。けれどほのかに心が、焼き魚の温度とは反対に温もりでいっぱいになった。

 この味はもう二度と味わうことが出来ない。けれどこの感情は心に忘れずにいたい思い、幸乃は焼き魚の入っていた菖蒲の花が描かれた皿を一生大事にしようと誓った。

 何度も咀嚼し、口の中のものを嚥下すると消失感に襲われ、また泣きそうになる。


『あのね、真田幸村はね――』


 鈴の音を転がすように聞こえたのは、少女が嬉々として語っていた話。真田幸村のようになりたいと言っていた彼女もまた、歴史に未来の生き方を教えてもらった一人なのだ。

 ――俺も歴史を知って、生きて行こう。

 今更志望校を変えるのは、無理だろうか、そんなことを考えながら、幸乃は居間の机に置かれた、母親が残した日本史テスト対策のノートを手に持った。


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