またこの食卓で繰り返されるのではないか
瞬くと、またあの光景が脳裏にフラッシュバックされた。
それは何気ない日常の一コマに過ぎなかった。夕暮れ時、晩ご飯が並ぶ食卓。向かいに春人が座る。付き合って6年。何度となく繰り返されたその光景が、その時は覆された。あの晩、春人はいつまで経っても箸を持たなかった。帰宅した時どこか伏し目がちにしていたのには気付いたが、仕事が忙しく疲れているのだろうと気にも留めなかった。その日のメニューは麻婆豆腐ともやしのナムルだった。麻婆豆腐は市販の味だがナムルは自家製で、私はその独特の味付けに少々の自信を持っていた。
「食べないの」
そう言って先に箸を伸ばす。返事がないので、横でつけっぱなしになっているテレビに目を向ける。
「今日、中日、勝ってるじゃない」
私は興味もないのに、わざと春人の好きそうな話題を挙げてみる。口の中でもやしが軽快に弾ける食感を楽しむ。
「ナムル、今日も美味しくできたわ」
微笑みかけても、彼は俯いたままだ。
しばらくそのまま一人で食べ進めていたが、いい加減これはなにかあると思い、私も箸を置いた。野球中継の騒音の中で二人の沈黙が際立ち、私はそれまで気付かない振りをしていたザワザワとした悪寒をお腹の奥から背中までに感じずには居られなかった。
「ごめん」 春人は突然、頭を深々と下げた。何に対して彼が謝っているのか私には見当もつかず、滅多に下げられることのないその頭を恐々として見つめた。
私が、何が、と訊けずにいると、彼は訊いてもいないその訳を語り始めた。春人の説明は簡潔で、要するに彼は浮気をしてしまったのだそうだ。
「酔っていて、本当に出来心で、してしまったあとに後悔しか残らなかった」
頭を上げた彼の顔は誠実そのもので、心から反省していることは伝わってきた。
「君に隠しておくことだって出来た。現に君は気付いていなかっただろう? でも、それでは僕の気持ちがどうしても収まりつかなかったんだ」 正直に打ち明けてくれたことで彼が私を大切に想ってくれていることは再認識できたが、それとは全く無関係に、心のどこかに大きなわだかまりができた気がした。
「一回だけの過ちだ。わかってくれ」
一回って何? 理性の奥底でわだかまりがフツフツと沸いてくる。理解できない感情を抑えることに必死になる。自分の中にこんなにも激しい心があったことに困惑する。
「謝らないでよ」
私は押し殺した声を漏らす。
「ちゃんと悪いと思ってるなら、もうしないでね」
怒りなのか悲しみなのか、抑圧された感情を言葉と共に吐き出す。私は努めて平静を装って、再びナムルを頬張った。
私はまぶたに焼き付いた残像を振り解う。浮気の告白から半年、私達は何事もなかったように日常の続きを送っていた。春人はやはり、私の向かいに座って食事に手を付ける。今日のメニューは鳥の唐揚げとやきそば。私は心のどこかで、彼がまた頭を下げてくるのではないかという恐怖と戦っていた。私はきっと、本当の意味で春人のことを許せていないのだった。頭では許せている。でも、心は未だにわだかまりを消化できずにいるらしい。
穏やかな夕食を素直に楽しめない。日常を日常として感じることのできない自分がいる。それは疑惑とか不安とか、要は私が春人のことを信じられていないということなのだろう。それでも、だからどうした方が良いという解決方法を見出せるわけでもない。きっとこの問題は、自分自身がきちんと消化できるかどうかなのだ。
付き合って6年が経ち、はじめのようなトキメキが続いているとは決して言えないが、代わりに育まれてきたものも確かにあった。浮気を許して付き合い続けているということは、私はこの人のことを愛し続けていくということなのだろうか。浮気を告白してまで私との関係を維持しようとした春人は、行く末、私との結婚も考えているのだろうか。
私は以前から結婚を意識していたが、急かすものではないと彼からの申し入れを待っている状態だった。待っているといっても差し迫った願望というのでもなく、いずれそうなれたらと思う程度のものだった。でも、今はその願望がよくわからなくなっている。浮気の告白から、私の心は混乱を続けている。浮気は愛しているから許せるのか。それとも、愛しているから許せないないのか。このままわだかまりを持って付き合い続けて、もしかしたら結婚したりするのだろうか。わだかまりが残っているうちは、本当の意味で許したことにはならないのではないか。許せない人間と果たして付き合い続けることが正しいのだろうか。
「この唐揚げ、ピリッとしてうまいな」
大して感動のない風に春人は言う。
「今日は中日、勝ってるぜ」
やはり部屋には野球のテレビ中継が流れている。こんな日常がこの先ずっと続くのだろうか。平穏な、 愛おしい日常。本当に、心のどこかにわだかまりを抱えたまま過ごしていけるのだろうか。
「春人あのね」
私は無意識のうちに箸を置いていた。